第三章 憧憬の果てに②


 目を覚ますと、知らない天井だった。


「ここ、は……?」


 体を起こそうとすると、各所から激痛が走る。


「メレハルトの大病院だ」


 声に目をやると、そこにいたのは金髪碧眼の少年。


「レオ……僕はどのぐらい寝ていた!?」

「半日ぐらいか。ヒルダ先生に感謝しとけ。途中で合流した先生がお前を運びながら治癒魔法をかけ続けてくれたおかげで、何とか命が繋がったんだ」


 その言葉で斬られたはずの腹に手をやると、確かに傷が塞がりつつある。

まだ包帯がぐるぐると巻きつけられ、完治は遠そうだが。治癒魔法はあくまで自然治癒力を上げる魔法であり、重傷を短時間で治せるわけじゃない。


「ルナは!?」

「ヴァルトに攫われていったよ」

「追わないと……!」


 激痛を我慢して何とか上半身を起こした。痛みだけは何度経験しても慣れない。でも、ルナを失った時の痛みに比べれば何だって耐えられる。


「場所は分かるのか?」

「推測だけど。おそらく合っていると思う」


 この時期の《掃滅会》の拠点は少なく、王国内には二か所しかなかったはずだ。

 そのうちの一か所はあの森の南西にある。半日しか経っていないなら、まだ拠点に辿り着いてないはずだ。もし拠点からさらに別の場所まで移動したら心当たりがなくなる。

 今のうちに捕捉しないと、またルナを失ってしまう。


「待てよ。ルナを助けたいのは分かるが、今のお前じゃ無理だ」


 何とか立ち上がった僕を、レオは軽く小突いた。僕はベッドに再び倒れ込む。


「俺ごときに突き飛ばされるような状態で、あの化け物に勝てるのか?」


 レオは真っ直ぐに僕の目を見つめていた。


「分からない……でも、まだ居場所は分かる。すぐに補足し直さないと、ルナの居場所を完全に掴めなくなる。そうなったらルナを助けるのは難しい」

「事情は分かった。でも、ちょっと落ち着け。今、ヒルダ先生が魔法騎士団に状況を報告してるところだ。もう少しでルナの救出部隊が組まれるはずだ」

「それじゃ間に合わない……!」

「もう一度言うぞ。その体で行ってどうする? また負けるだけだぜ?」


 レオは淡々と言う。

 その宝石のように碧い瞳が、僕を睥睨する。

 ……そうだ。

 僕は、負けたのだ。

 完膚なきまでに敗北した。

 その果てに、使えない剣にすら縋った。

 そんなに都合よく使えるようになんて、なるはずがないのに。


「一応、報告だ。学生のほとんどは無事が確認できている。行方不明者もいるが、おそらく逃げる過程でメレハルトに向かわなかっただけって奴の方が多いだろう」


 その言葉を聞きながら、僕はレオの様子に気づく。

 騎士制服も、目に見える肌も、泥だらけの傷だらけだった。


「そうか……ありがとう、レオ」

「無茶を聞いてやったんだ。お前も、俺の頼みの一つぐらい聞いてほしいもんだな?」

「……こればっかりは無理だ。ここでヴァルトを逃すわけにはいかない」


 僕は再び立ち上がり、歩き始める。

 体中が軋み、痛みが叫びのように脳内を刺激するが、動けないわけじゃない。

 だが、レオは扉の前に立ち塞がった。


「どいてくれ」

「どかしたいなら、俺を倒せばいい」

「レオ……お前は、ルナを助けたくないのか?」


 拳が飛んできた。頬を打ち据えられ、僕は床を転がる。


「何を……!?」


 文句を言おうとして気づく。

 レオの瞳に宿る怒りに。


「助けたいに決まってんだろ……友達が攫われてんだぞ? だが、このままじゃ犠牲者を増やすだけだって言ってんだ。勇気と無謀は違う。お前は万全の状態でヴァルトに負けた。だってのにそんな状態で追いかけたところで勝ち目があるのか? どうなんだ?」


 急速に頭が冷えていく。

 レオは優しい男だ。

 何も憶えていない僕を親友と認めて、命を懸けてくれるほどに。

 そんな男が、ルナを助けたいと思っていないはずがない。


「ごめん」

「謝れとは言ってねえよ。俺だって偉そうに言える立場じゃねえ。ただ、命を捨てに行くだけなら見過ごせねえんだよ。お前の方が分かってるだろうが……あいつは化け物だ」


 レオは血が滲むほど拳を握りしめていた。


「――勝算は、あるのか? あるって言えるなら止めねえよ。ルナのことは、お前に託す。俺は弱いから、俺じゃあいつに勝てねえから……俺だって、お前に縋りたいんだ」


 その問いを前に、僕は何も答えられなかった。

 ヴァルトを、倒す方法。

 それが見出せなければルナを助けられない。


 分かっている。

 思い知らされている。


 想いだけじゃ誰も救えないことを。

 力がなければ何もできないことを。


 だから、僕は魔女の力に頼ったんだ。

 だというのに、かつてのヴァルトを下した魔女の力でも届かない。

 なら、どうすればいい?

 あんな化け物に、どう立ち向かえばいい?

 何をすれば、僕はヴァルトに勝てる?

 いったいどうすれば――僕は、ルナを助けられる?


 その時。

 目に入ったのは、壁に立てかけられた銀色の剣だった。


 ――ルナが死んでから八年が経って、滅びかけた人類を救った。


 死闘の末に十人の怪人を打倒し、彼らの支配から多くの人々を解放した。

 英雄と呼ばれるようになった。泣きながら賞賛され、感謝された。

 だから少し自信がついた。

 少しは変われたんじゃないかと思っていた。

 逃げ続けてきた人生に区切りをつけたと思っていた。


 ――違う。


 僕は何も変わっていなかった。

 だって、そうだろう。

 どんなに強くなったとしても、僕はいまだに剣を握れないのだから。

 僕は何も乗り越えていない。

 逃げ続けてきた過去に、囚われ続けている。

 あの日の魔女の言葉が脳裏に響く。


『もう一度だけ人生をやりなおすことができたなら、皆を救える? なんて甘美で都合の良い妄想だ。思わず殺したくなるぐらいに哀れで愚かな男だな、君は。悪いが、夢物語には付き合えない。大事なのはいつだって今なんだよ。今を変えられない男が別の場所に逃げたところで、何かを変えられるわけがない。腑抜けた幻想はこの場で捨てろ』


 ――ああ、その通りだと思った。


 今を変えられない男が、過去を変えられるわけがない。

 だから、ほとんど滅びてしまった世界をそれでも救うと誓った。

 だけど、それだけで過去を乗り越えられるほど僕は強い人間じゃなかった。

 僕が探したのは結局、逃げ続けたまま何とかする方法だった。


 ――剣を握ることじゃ、なかった。


 あの日のヴァルトの言葉が脳裏に響く。


『だったら今更、何のつもりだ!? もうテメェが何をやったって、あの女は戻ってこねえ! それ以外の連中だってそうだ! 過去は変わらねえ、遅すぎるんだよテメェは!』


 目を閉じる。


「……その剣、取ってくれないか?」


 レオは頷いて剣を取ると、僕に柄を向けて差し出してきた。

 受け取る。手が震える。

 がたがたと体まで震えていく。

 まともに柄に触れることもできず、僕の体は石のように動かなくなる。


『ごめん……ね、ブラム』


 それを抜こうと考える度、脳裏にあの光景が過る。


『それと、ありが、とう――わたしを、殺してくれて』


 この世で最もおそろしくて、最も許しがたいその光景が頭から離れない。


「ちくしょう……ちくしょう!」


 涙が溢れてきた。

 視界がぼやけて何も見えなくなる。

 この後に及んで、トラウマを乗り越えられる気がしない。


 僕は弱い人間だ。

 駄目な人間だ。

 過去から逃げ続けてきた愚か者だ。

 何が世界を救った英雄だ。

 自惚れるな。

 魔女の力に頼り切って役目を果たしただけだろう。


 人の本質は、そう簡単には変わらない。


 ブラム=ルークウッドは、物語に登場するような英雄じゃない。

 愛する少女の窮地だからと言って、過去を乗り越えて前に進めるような人間じゃない。


「……だけど」


 愚か者のままでも構わない。

 英雄の器なんかじゃないと分かっている。


「それでも……!!」


 ルナを助けたい。

 あの子の笑顔をもう一度見たい。

 僕の望みはそれだけなんだ。


 だから、



 ――記憶を、燃やしていく。




 それは、過去に舞い戻る前の記憶。

 ルナと一緒に過ごした日々。

 戦い続けるために唯一残していた、この世で最も大切な宝物。

 それを黒い魔力が食いつくし、《自動修復》が発動する。

あれだけの重傷を負った僕の体が、おそろしい勢いで癒えていった。

 万全の状態に回帰していく。


『ブラム、わたしね、座学の成績は一位だったんだ――』


『わ――だよ。ブラムなら、わた――られるかも。あはは、ちょっと恥ず――かな』


『ねぇ――そ――な――』


『――――』


 大切な記憶のほとんどを、代償に捧げてきた。

 でも、この記憶だけは捨てられなかった。

 この記憶だけが、生きる希望を見失った僕を支えてくれた。

 この記憶だけが、僕の戦う理由だった。


 なら、今はどうなんだ?

 あの記憶がなければ、僕は戦えないのか?

 今ここにルナが生きているのに、過去の記憶に縋り続けるのか?


 そうだ。短い間でも、たった三日でも、ルナと過ごした今の記憶がある。

 大切で、守りたくて、一生傍にいてほしいと、そう何度も思った記憶がある。


『ブラム、とろい! もっと速く走れないの!?』

『旦那じゃないって何度言えばいいのかな?』

『ねえ……心配させないでよ、ブラム』

『だ、ダメだって。わたしたち、ただの幼馴染だし……それに、今はその、朝……』


 ああ、覚えているとも。

 その声を。その顔を。その優しさを。その可愛らしさを。

 ――愛おしいと思ったことを。

 一緒にいてほしいと、そう願ったことを。


 そして、まだルナは生きている。

 僕に力があればルナを助けられる。

 その思いに過去の記憶はもういらないはずだ。

 あの笑顔をもう一度見たい。

 戦う理由はそれだけあれば十分だ。


 そして、分かっているとも。

 本当は忘れてはいけない記憶だと。

 ルナと一緒に過ごした記憶とはすなわち、ルナを殺した瞬間を含んでいる。

 それは僕が一生背負っていくべき罪だ。

 だから、これだけは代償にしないと決めて、八年の時を生きてきた。


 ……その記憶を燃やしてしまえば、どうなるのか分かっている。

 分かっていながら、これまではできなかった。

 戦えるようになったとして、戦う理由を失ってしまえば意味がない。

 しかし、今は違う。

 たとえ罪を忘れるような愚か者に成り下がったとしても。

 今、この世界で生きているルナを助けるためなら。


 ――思わず笑ってしまうほどに、僕はあっさりと剣を引き抜いた。


 剣を握る感覚はひどく懐かしい。

 もう一生味わうことはないと思っていた。


 結局、僕は英雄にはなれない人間なんだろう。

 過去を背負って前に進んだわけじゃない。

 過去を捨てることで、前に進んだように錯覚しているだけだ。

 ブラム=ルークウッドはその程度の人間だ。


 だけど。

 それで構わない。


「レオ……そこをどいてくれ」


 僕は剣を鞘に納め、強い意志を以てレオを見つめた。


「勝算はあるんだな?」

「ああ。――必ずルナを取り戻す」


 それまで厳しい表情を浮かべていたレオは、そこで初めていつもの笑みを見せる。


「頼むぜ、親友。こっちのことは俺に任せろ」


 レオと拳を合わせた後、僕は全速力で走りだした。

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