第二章 たとえ君を忘れたとしても③

 阿鼻叫喚の絵図とはあの日のことだった。

 僕は何もできなかった。ルナの豹変の理由なんてまったく分からなかった。


「ル、ルナ……?」


 一瞬で心臓を貫かれた僕らのクラスの担任教師――代償のせいで覚えていないが、状況から推測するにヒルダ先生だろう――は、その言葉を最期に絶命した。

 後に残ったのは、慌てふためき逃げ惑う生徒たちと凶悪な怪物だけ。生徒たちは無慈悲に蹂躙され、ルナの手で殺される者と囚われる者で仕分けされていく。

 僕はルナが何者かに操られていることに気づき、その凶行を止めにかかった。


「ルナ! 正気に戻ってくれ! ルナ!」

「残念だったな幼馴染くんよ。無駄だ。こいつの体の制御権はもう完全に俺のものだ。いくらテメェが呼びかけようと、俺が自分の意志で交代しない限り目を覚ますことはねえ」

「お前、いったい何者だ!?」

「死に土産に教えてやろう。俺は《掃滅会》序列第一位“悪魔憑き”のヴァルト。テメェら人間の頭脳と怪物の力を併せ持った両種の上位存在――怪人、だ」


 何を言っているのか分からなかった。

 怪人? 

 上位存在? 

 そんなもの、聞いたこともない。

 憑依能力持ちの上位怪物が勝手に名乗っているだけだろう。

 ……いや、それだと人語を解するのがまずおかしい。

 やはり人間なのか?

 でも、憑依魔法なんて存在しない。

 魔法で再現できない怪物の能力はいくつか存在し、憑依能力はその一つだった。

 ありえないと思っても、状況証拠が自然と奴の発言を補強していく。


「その上位存在とやらが、何でこんな騒ぎを起こす?」

「ちょっと優秀で若い素体が必要でな。魔法騎士候補の学生を捕獲するのが手っ取り早いと判断したんだ。お前の幼馴染も使ってやるから、ありがたく思えよ」

「ふざけるな……!」


 僕は怒りのままに剣を抜く。

 仮にも、騎士学園きっての剣の天才と呼ばれていたんだ。

 剣術だけなら、魔法騎士にも勝る自信があった。


「こいつの中からお前の剣を見たことがある。学生にしちゃ相当なもんだと思うぜ?」

「――怪物もどきが剣を語るな!」


 ヴァルトはルナの体で剣を構えている。

 剣は人間の武器で、僕は剣の天才だ。怪物もどきの剣術になんて負けるはずがない。


「甘えよ。テメェ、俺をなめてんのか?」


 だが僕の剣は、ヴァルトにあっさりとさばかれていく。


「なっ……!?」


 ――怪物もどきに剣の技量で負けている。その事実が、僕の心を砕いていく。

 それに加えて、ヴァルトは僕を煽るように言う。


「そもそも、この女を傷つけていいのかよ? 助けてえんだろ?」

「くっ……!?」


 ヴァルトの言葉で、僕の剣閃が明らかに鈍る。

 その通りだ。万が一にもルナを殺してしまうわけにはいかない。

 でも僕が戦闘をやめたら、ルナの体を使って殺されてしまう人がもっと増える。

 ――それは、許せない。

 だが、どうする? 

 どうすればいい?

 ルナを助ける手段が思いつかない。

 だから戦いを長引かせることしかできなかった。

 傷つける気のない剣の軌道を読まれ、弾かれ、隙だらけの腹を蹴り抜かれる。

 ゴバッ!!! というすさまじい音が炸裂した。

 浮いているような感覚の直後、岩に叩きつけられる。

 背中に灼熱のような痛みが迸った。

 視界が真っ赤に染まる。

 喀血したのだと気づいたのは数秒後のことだった。


「ぐあああああぁぁぁっ!?」


 痛い。

 苦しい。

 体が断裂したかのような激痛に襲われる。


「何を呆けてんだよテメェは」


 いつの間にか目の前にいたヴァルトに頭を蹴り抜かれる。

 おそろしい勢いで視界が回転した。

 ぐるぐると横転して勢いが止まる。

 ふらつきながら、何とか体勢を立て直す。


「遅えぞ」


 だが、ヴァルトはすでに僕の眼前に立っていた。

 無造作に突き出された剣が僕の胸に突き刺さる――直前でどうにか弾いたが、バランスを崩した僕の顎をヴァルトの膝が蹴り上げた。意識が一瞬飛ぶ。僕は舌を思い切り噛むことで痛みと共に意識を取り戻した。

 ヴァルトの剣を転がってかわし、再び立ち上がる。


「諦めの悪い野郎だな。無駄だって言ってるだろうが」


 ふらふらになりつつも強く睨みつける僕を見て、ヴァルトは不快そうに顔を歪める。


「見ろよ、この状況を。教師は全員死んで、学生どもは満身創痍。多少は取り逃がしたかもしれねえが、ほとんどの学生は死んだか捕獲済みだ。これじゃ魔法騎士の増援は来るかどうかも分からねえし、来るとしてもまだまだ時間はかかる。そしてテメェ程度の力じゃ、この俺には勝てねえ。ちゃんと理解しろ、テメェは学生にしちゃよくやったが、もう詰んでるんだよ」


 そんなことは、言われなくても分かっている。

 けれど、これ以外に僕は何をすればいい? 

 無駄だと分かっていても、ルナを救うためには立ち上がるしかない。

 それがたとえ奇跡のような確率だとしても、突然ヴァルトに異変が起きてルナの体化ら出ていくかもしれないんだ。

 そうだ。

 まだ諦めない。

 僕はまだ戦える。

 そう思って再びヴァルトを睨みつけた、その瞬間だった。


「あ……?」


 ヴァルトの様子が、あからさまに変化した。


「ぐっ……テメェ、表に出ようとすんじゃねえ! 意味のねえ抵抗をしやがって……!」


 額を押さえながら、がくりと膝をつく。

 その隙を見逃すわけにはいかなかった。

 僕は思い切り大地を蹴ってヴァルトに近づくと、その体にしがみつく。

 勢いあまってごろごろと転がったが、意外なほどすんなりと体を押さえつけることに成功していた。


「チィ……ッ!」

「ルナ! 聞こえるかルナ!? そいつを追い出せるか!?」


 ルナの体とは思えないほどの力で強引に引き剥がされそうになる。

 だが突然、一気に抵抗がなくなった。

 ルナの顔は悲痛そうな表情をしている。

 まさか、体の制御権を取り戻したのか?


「ブラム……」


 その柔らかい呼び方は、間違いなくいつものルナのものだった。


 ――良かった。


きっとルナの意志の強さが、ヴァルトから体を取り戻したんだろう。


「ルナ……!」


 僕が喜んで名前を呼ぶと、ルナはなぜか小さく首を振った。


「ブラム――お願い、わたしを殺して」


 信じられない言葉に、思わず呼吸が一瞬止まった。

 思考が空白に染まる。

 呆然としたままルナに目をやると、彼女は僕の右手にある剣を素手で掴み、自分の喉元に向けた。


「このままじゃ……あなたを、みんなを、殺してしまう……その前に、お願い。わたしはこれ以上、友達を殺したくない……! わたしごと、この化け物を殺して……!」

「何を……そんなこと、できるわけないだろ!?」


 ルナの目には強い覚悟が灯っていた。


 ――ルナの性格を考えれば、そう考えるのは当然だ。

 体を乗っ取られていたとはいえ、自分の手で同級生を殺しているんだから。

 気持ちは分かるなんて軽いことは言えない。

 でも、それで納得できるはずがない。

 僕はそれでもルナには生きていてほしい。

 ルナにとっては残酷な願いだとしても、大切だから助けたいんだ。

 僕はルナの手を掴み、剣から強引に剥がしていく。体の主導権を握っているのがルナである今なら、僕の方が力は強い。何とか剣を取り戻したが、ルナの手は血に染まっていた。それだけ強く刃先を握りしめていたんだろう。思わず顔が歪む。


「ブラム……お願い、ブラム……もう、わたしは――うぅっ……!?」


 僕に向かって手を伸ばしたルナは、突如として膝をつき、苦しみ始める。


「ルナ!?」


 先ほどと同じ現象。何が起きるのかは分かっても、呼びかけることしかできない。


「クソが……奪い返されたのは初めてだぜ……」


 やがて、ゆらりと立ち上がったときにはもうヴァルトが体の制御権を握っていた。


「遊んでる場合じゃねえか……さっさとケリをつけた方が良さそうだ」


 額を押さえながらヴァルトが呟く。

 どうにかして、再びルナの意識を取り戻すことはできないだろうか。

 一度はできたのだから、何かしらの突破口はあるんじゃないか?


 ――冷静になれ、考えろ。


 僕は意識してゆっくりと息を吐き、呼吸を整える。

 だが、


「悪いな、ここからは本気で行くぜ」


 その希望がまやかしだったことに気づいたのは、一瞬後のことだった。

 体に灼熱の痛みが迸る。

 今、何が起こっているのか。理解すら許されなかった。

 僕はただ地面を転がりながら、目の前で閃く剣の軌道に何とか反応する。

 極限状態に追い込まれたせいか、不思議と頭が澄んでいた。

 無駄な思考が消えたような感覚。

 痛みもすぐに曖昧になって消えた。

 このままじゃ死ぬと頭が理解したせいだろうか、僕の意識はヴァルトとの戦闘のみに没入していく。

 反応だ。

 反応する。

 自然と一瞬先のヴァルトの動きが見える。

 でも、根本的な身体能力に差がある以上、それでも連続する剣撃をいなすだけで精一杯だ。

 だというのに、ヴァルトの動きはさらに加速していく。

 ミシミシと鈍い音が響く。怪人がひねり出す速度と力に、ルナの体が悲鳴を上げているんだろう。


「ちくしょう……」


 明らかに、覚醒している感覚があった。

 絶望的な壁を目の前にしたことで、堅く閉ざされていた扉を強引にこじ開け、本来ならはるか先に手にするはずの力を得ている確信があった。


「ちくしょう……!」


 ――それでも、届かない。


 右目が抉られた。突如として視界の右半分を失う。

 次に、左脇腹を貫かれた。そのままぐるりと剣を回され、思考を奪い去るような痛みが復活した。

 膝をついた瞬間、いつの間にか引き抜かれていた剣が、僕の頭を落とすため上段に構えられていた。


「――終わりだ」


 剣が、降りてくる。その美しい剣閃は容易に僕の頭を落とすだろう。今から剣を振り上げたところで、間に合わないことは分かっていた。それでも、諦めることだけは嫌だったから。僕は体をひねり上げるように、剣を持っている手を振るった。


 僕が死ぬのは構わない。

 だけど、この先ずっとルナが体を奪われたままなんて許せない。

 そんな想いが僕に最後の力を振り絞らせ――そして、最悪の結果を生んだ。


「え……?」

「なっ……」


 困惑の声が重なる。僕とヴァルトのものだ。

 血しぶきが舞う。大量の鮮血がどばどばと撒き散らされ、視界を一面の赤が覆う。


 ルナの胸を貫くように、僕の剣が突き刺さっていた。

 致命傷だった。

 間違いなく、心臓を捉えていた。

 ごぼっ、と口端からも血の雫が垂れていく。


 どうして。

 どうしてこうなったのか、分からなかった。

 僕はあくまでヴァルトの剣を防ごうとしただけで、ルナを貫くような剣の軌道じゃなかったはずだ。

 考えられるのは一つ。土壇場でルナが体の制御を取り戻し、自分が振り下ろす剣を静止すると共に、僕の剣の切っ先に体を割り込ませた。

 それ以外で説明がつかない。


「馬鹿、が……こんなことをしたって、死ぬのはお前だけで、俺は死なねぇぞ……!」


 ルナの口から放たれたヴァルトの言葉が、僕の思考を肯定する。


「チッ、これ以上は持たねえか……」


 吐き捨てるような言葉の後、ヴァルト――いや、ルナはがくんと膝をついた。

 僕はその体を抱き留める。ひどく軽かった。この倒れ方は、自分の体を支えられていないような感じだ。おそらくヴァルトがルナの体から出ていったんだろう。


「ルナ……ルナ!?」


 何度も名前を呼ぶ。

 どうすればいい。

 治癒魔法で回復できるような傷じゃない。

 何より血を流しすぎている。

 もはや手遅れ。

 僕の頭の片隅で、客観的な分析がなされる。

 でも、それは認められない。

 ルナが――ルナが、死ぬ? 

 ありえない。そんなことがあってはならない。

 だって彼女は幼馴染で、今日までずっと一緒に生きてきて、ずっと隣で笑ってくれていた。彼女を見ているだけで温かい気持ちになる。


 初恋の、女の子だ。


 血の海からルナを抱き上げて、訳も分からずその傷から流れる血をせき止めようとする。


「ブ、ラム……?」


 茫洋としていたルナの瞳に意識の色が灯った。

 同時に、ルナの体を白い魔力が包む。ルナの治癒魔法癒しの光だ。

 この治癒魔法で延命できるなら、街まで連れていけば何とかなるかもしれない。

 メレハルトは学究都市だ。治癒魔法の研究だって行っている。そんな治癒魔法の第一人者たちなら、生きている限りは治せるかもしれない。――そう信じるしかない。


「ルナ、大丈夫か!? 絶対、絶対に助けるから……!」


 しかしルナは柔らかく笑って、首を横に振った。

 ずっと一緒にいた僕が、その意図を読み取れないはずがない。

 彼女はこう言っているのだ。


 ――わたしはもう無理だから、諦めろと。


 治癒魔法使いのルナの言葉は、この場では何よりも説得力があった。


「そんな、そんなこと……まだ何か、手はあるはず……!」


 普段は信じてもいない神に都合よく祈る。

 何か奇跡が起こってほしかった。

 ルナを助けてくれるのなら何だってする覚悟があった。

 頼む。

 誰か。

 誰でもいい。

 ルナを。


「……ぁ、ごほっ、ごほっ!?」


ルナは何か声を出そうとして、激しく咳き込む。血の咳だった。


「ごめん……ね、ブラム」


 背負わせてしまって、と声は出ていなかったけれど、口の動きがそう告げる。

 まだ何かを言おうとしている。

 それを止めるべきかどうか、迷った。

 本当に助けたいなら止めるべきだ。

 でも、助からないことを本能が理解していた。

 僕は往生際悪くもルナを抱えたまま森林を走りながら、ルナの言葉を待つ。

 すでにルナの呼吸はだいぶ浅かった。

 取り戻したはずの意識はすでに消えかかっている。

 それでも彼女は掠れた声で、何とか言葉を紡いでいた。


「それと、ありが、とう――わたしを、殺してくれて」


 それが最期の言葉だった。

 ルナの瞳から意識が潰える。

 僅かに震えていた体も、それ以降は動くことがなかった。

 僕は足を止めて、地面にルナを横たえる。

 そのまま、ずっと、ルナの横に座っていた。

 何時間、何日経ったかも分からない。

 僕は彼女が目を覚ますのを待っていた。

 ありもしない奇跡に縋って、やがてそれすらも諦めた。

 ルナが死んだ。

 この世界で最も大切な少女が。

 ルナと、もう二度と笑い合うことができない。

 その事実を受け入れた。


「は、は……」


 泣くこともできなかった。とうに涙は枯れていた。

 体を動かそうとすれば、戦いの傷がいまさらのように苦痛を訴えてくる。

 それでも、僕は剣を鞘から引き抜いた。

 ルナのいない世界で、生きていく理由なんてないと思った。

 そんな地獄のような日々を送るぐらいなら、今すぐ彼女のもとに向かおう。

 そう決めて、剣を首に当てる。

 その瞬間、遠くから声が聞こえた。

 今はもう顔も名前も分からない誰かが、僕のもとへと走ってくる。

 それを見ながら腕に力を込める僕の剣を、その誰かは《魔弾》で吹き飛ばした。

 僕はその誰かにつれられてメレハルトに戻った。


 ――その誰かはきっと、あの親友レオ=クラックネルなんだと思う。


 僕はその後、呆然と時を過ごした。

 誰とも言葉を交わさなかった。食事もとらなかった。水も飲まなかった。誰かに頬を殴られて、ようやく少しばかりの正気を取り戻した。

 ちょっとずつ会話を思い出して、ちょっとずつ日常を取り戻し、そこにルナがいないことに張り裂けそうなほどの胸の痛みを覚えて。

 それでも、どうにか学校に復帰した。


 でも、気づいたら僕は剣を握れなくなっていた。


 ルナを殺したあの瞬間が剣を握ると脳裏を過り、体が震えて動かなくなった。

 この剣が、再び誰かを傷つけてしまうことがひどく怖かった。

 剣を握れないのに魔法騎士を目指せるはずもない。

 僕は騎士学園を辞めた。

 それから心の傷を慰めてくれる女の子のもとを渡り歩いた。

 仕事もせず趣味も見つけず、ただ優しい人たちに甘えきって。

 王国が本格的な危機に陥っても、魔法騎士として怪人との戦いに赴くみんなを見ているだけだった。

 魔女に出会うまで、僕はそうやって逃げ続けていた。


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