第一章 絶望の八年前②
メレハルト騎士学園。
王国アルマレシアの学究都市メレハルトにあるその学園は、魔力的な素養が高い生徒に剣と魔法を教えることで、将来の魔法騎士を育て上げる教育機関だ。
魔法騎士――それは、怪物に対する人類の切り札。
魔法という物理法則を超越した技術を操る魔法騎士は、普通の人間とは比較にならない戦闘能力を宿しており、凶悪な怪物たちから民を守護する存在だった。
特に王国魔法騎士団は周辺諸国の中でも精強と名高く、その理由は教育機関にあった。
魔法騎士の数と質は国の生命線だと理解している王は、教育機関に多額の投資をしている。
かつては当たり前のものだと思っていた学び舎は、改めて見ると非常に広く大きかった。
「ブラム、とろいよ! もっと速く走れないの!?」
「こ、これが限界だって!」
「あなたのせいで遅刻するなんてごめんだからね! わたし、先行くよ!」
「ま、待ってよルナ!」
そんな学び舎に向かって僕とルナは全力で走っていた。
僕がルナに抱き着いて泣いていたせいで、遅刻寸前になっているのだ。
へとへとになりながらルナについていく。
「ひぃ、ひぃ……」
つ、疲れる。
慣れない体の違和感のせいで、走るだけで体力がどんどん削られていく。
そもそも、この体、筋肉と体力があまりにもなさすぎる……。
かつての僕がまともに鍛錬をしていないことが如実に分かった。
鍛え直さないといけないな。
基礎魔法の《肉体活性》を使って身体能力を強化すれば余裕だと思うけど、僕は魔女の呪いに魂を縛られており、魔法を使う度に何らかの記憶が失われる身だ。
こんなことでいちいち魔法を使っていたら、記憶がいくつあっても足りない。
……そもそも、魔女との契約はまだ有効なのか?
もし契約が切れていたら、僕は大した魔法を使えない。ルナの命を今度こそ助けると決めたからには、魔女との契約は死活問題だ。どこかで試さないといけないな。
「やばい、後一分だよ! もし遅刻したらトイレ掃除の罰!」
「そういえば、そんなのもあったな……」
昔の僕は遅刻魔だったので、トイレ掃除マスターと呼ばれていた。
「ほら、ブラム早く!」
「そういえば先に行くんじゃなかったっけ?」
「……そういうこと聞くなら、ほんとに先に行っちゃうからね?」
露骨に不機嫌になり、走りながらそっぽを向くルナ。
やることが器用だ。
女のルナでもそこまで余裕があるのに、男の僕が息も絶え絶えなのは情けなさすぎる。
ともあれ何とか学舎の中に入り、人気のない廊下をドタバタと駆け抜ける僕たち。
「ギリギリセーフ! 頑張ったわたし!」
「どうにか間に合ったか……」
安堵の息を吐く。
何というか、急激に過去の世界に戻った実感が湧いてくるな……。
こんなどうでもいいことに四苦八苦していた時代もあった。
「――あっ」
キーンコーンカーンコーン。
ルナが教室に入った瞬間、無慈悲にも朝礼開始の鐘が鳴り響いた。
つまり、僕はまだ教室に入れていない。
おそるおそる教室に入ると、金髪の女教師がニヤリと笑う。
「ブラム=ルークウッド、遅刻だぞ? 罰として一週間トイレ掃除の罰を与える」
「そ、そんな……あんまりだ! 一秒しか遅れてないじゃないですか!?」
「一秒だろうと一時間だろうと遅刻は遅刻だ。いやぁ、助かったよ。今週は珍しくお前が遅刻しないから、トイレ掃除を他の誰かに押し付けなければならないところだった」
「なんで最初から僕がやること前提なの……?」
「恨むなら自分自身の行動を恨め。というか反省しろ。毎度毎度ルナを巻き込むな」
僕が唇を尖らせると、ルナが慌てて口を挟む。
「あの、わたしは好きでやっているだけなので、大丈夫です。それにブラムは放っておいたら際限なく駄目になるので、わたしが何とかしてあげないと」
「心配性な保護者かお前は」
女教師は呆れたようにツッコミを入れつつ、さっさと席につけと手を振る。
しかし僕の様子を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「今日はあまり駄々をこねないな。お前にしては珍しい。まさか成長したのか?」
「成長した人はそもそも遅刻をしないんじゃないですかね……」
「ブラムに、正論を返されるだと……? こんなことがあっていいのか……?」
愕然とする女教師。僕を馬鹿にしすぎでは……?
顔も名前も憶えていないのに、何だか懐かしさを覚える。
この女教師に関する記憶は魔法の代償になっているんだろう。
もちろん望んでそうしたんだけど、改めて記憶の欠落を実感するな……。
ため息をつきながら空いている席に座ると、隣から声が届く。
「よぉ親友。今日も相変わらず愉快そうで何よりだ」
そっちに目をやると、そこにいたのはムカつくほどの美形だった。
男にしては長めの金髪。
切れ長の瞳は凛々しく、口元には自信に満ちた微笑。
僕よりも背が高くがっしりした体格。
何というか、どんな仕草もサマになりそうな男だ。
僕を親友と呼ぶこいつのことも憶えていない。
この代償、こうして過去の世界に戻るとけっこう不便だな。
「これのどこが愉快そうに見えるんだよ……?」
「お前を見ていると俺が楽しい」
「僕はまったく楽しくないんだが」
「そいつは必要経費ってヤツだ。俺が楽しむためなら仕方がない」
「僕に得が何一つないな?」
「はっはっは、いつものことだろ」
何となくいけ好かない男だった。そして純粋に顔が良すぎてムカつく。
「遅刻した挙句、ぺちゃくちゃお喋りとは良い御身分だなブラム?」
「いやいや、今のはこいつが話しかけてきたんですが!?」
「そんなことはどうだっていい。……ええい、構っていられるか。さっさと始めるぞ」
女教師はため息をつき、教室全体を見回す。
「よし、まずは連絡からだ。三日後の学外演習は予定通り決行する。各自、準備をしておくように。必要なものは配っておいた資料に載っているはずだ」
その言葉で顔が歪んだことを自覚する。
――学外演習。
騎士学園の生徒である僕たちにとって避けては通れない道。
メレハルトの外に出て、怪物との実戦演習をする行事だ。
そうは言っても教師陣による手厚い警備がある上、この近くに出現する怪物は弱いので未熟な学生でも問題なく倒せる。
だから本来なら大した危険などない行事だ。
しかし、この学外演習でルナが死ぬ。
より正確に言えば――僕が、彼女を殺す。
このまま何もしなければ、きっと同じ結末になるだろう。
だから、僕が動くことで未来を変える。
予想以上にすぐのことで動揺したけど、やるべきことは分かっている。
三日後。それまでにどれだけの準備ができるだろうか。
ルナを助けるためには、怪人と戦う必要がある。
それも学外演習で事件を起こすのは怪人たちの
世界最強の怪人“悪魔憑き”のヴァルトだ。
その能力からしても厄介極まりない。
対する僕はまったく鍛えていない八年前の体であり、いまだに違和感がすごい。
そもそも魔女との契約が続いているかどうかも定かじゃなく、もし切れていたらほぼ詰みだ。魔女の力を借りずに怪人を倒せるわけがない。
魔女との契約が続いているとしても、強力な魔法を使うには重い代償が必要だ。
しかし、もう僕の記憶はほとんど残っていない。十人の怪人を倒すために必要な代償だった。後悔はしてないけど、もう強力な魔法は使えない。
……どうすればいいんだ、これ?
い、いや落ち着け。
悲観的なことばかりじゃないはずだ。
僕は未来を知っている。もっともほとんどの記憶を代償にしてしまったので忘れていることも多いけど、僕が戦う理由だったルナとヴァルトのことは憶えている。
なら、知識の差で優位に立てるはずだ。
そんなことを考えているうちに女教師の業務連絡が終わった。
「おいブラム、ぼうっとしている暇はないぜ。次は実戦魔法の講義だからな」
「ああ、そうだったな」
美形の男に言われて思い出す。
実戦魔法の講義は第三訓練場で行われるので、この朝礼と一限の間にある僅かな休み時間で移動しないといけないんだった。
こういうどうでもいいことは割と憶えている。
まあ僕が大切だと認識してないからな。
「なんか今日のお前、変だな」
「そうか?」
「雰囲気がいつもと違うというか、何だ? 余裕がなさそうな感じがする」
「ははっ、何だよそれ」
鋭い美形の男の追及を曖昧な笑みで誤魔化していると、ルナが傍に寄ってきた。
「一緒に行こう」
「相変わらずお熱いことで」
「レオ、いつも言ってるでしょ。単に放っておけないだけ。幼馴染だからね」
名前を忘れたとは言えないので、ルナが名前を呼んでくれて助かった。
……それにしても、レオか。妙に馴染む名前だ。
きっと僕は何度もこの名前を呼んだことがあるんだろうな。
「そういうことにしといてやるよ」
さておき、僕らの様子を見てレオは肩をすくめる。
クラスメイトの視線もやや呆れ気味だ。
ルナは気にしていないようだが、僕は気になる。
「いつもこんな感じだったっけ……?」
「うん? よく分かんないけど、いつも通りと言えばいつも通りじゃない?」
これがいつもって、あまりにもルナに甘えすぎじゃないか?
昔の僕が駄目人間だってことを痛感する。
でも、僕は八年の経験を経て変わったんだ。それをルナにも示そう。
「ルナ、反省したよ。君に甘えていたと気づいた。これからはちゃんとするよ」
「それ何回聞いたか覚えてないんだけど」
「違う、今回は本気なんだ。僕は駄目人間を脱する! 信じてくれ!」
「はいはい。じゃあ行動で示してね」
困ったような口調でルナは言う。まるで信用されていなかった。
……いやいや、ルナの言う通り行動で示せばいいのだ。
いくら何でも八年前の僕よりは成長しているはず。しているよね……?
なんか自信なくなってきた。
「ブラム、第三訓練場の場所うろ覚えでしょ?」
「あ、うん……」
「そろそろ覚えてね。わたしもいつも一緒にいられるわけじゃないから」
「はい……」
……あれ?
何だか釈然としない感覚を抱きつつ、僕はルナについていく。
「まあこの学校広くて複雑だから、覚えられないのも分かるんだけど」
「そ、そうだよなー。うん。間違いない。そういうことだよ。僕は悪くない」
「なぁ親友。入学して半年も経ってるんだが、どう思う?」
……き、きっと代償で記憶が消えてしまったんだ。そうに違いない。
「ブラムは講義をさぼりすぎなんだよ」
「あー、そういえばそんな感じだったっけ……」
「だったっけじゃなくて、今もそうでしょ。本当に反省してるの?」
呆れたようにため息をつくルナ。
僕らの後ろを追従しながら、ニヤニヤと笑っているレオ。
なんだか釈然としないが、これこそ僕が取り戻したかった日常なのだろう。
記憶の欠落のせいで、あまり実感が湧かないが。
「ま、お前は天才だからな。講義で学ぶことなんかないんだろ?」
「え、僕ってそんなに自惚れキャラだっけ?」
「少なくとも、お前と仲良くない奴はそう思ってるぜ」
「なん、だと……?」
八年越しで知る衝撃の事実。
……天才か。その呼び名も懐かしい。
確かに、当時の僕は調子に乗っていた気がする。
魔法の才は並だったが、剣術は学年一位の成績だったから。
そんな期待の天才が、何の役にも立たない腰抜けに育つとは誰も思っていないだろう。
……いや、今の僕の扱いからすると案外思われている気もしてきたな。
「剣さえ強ければいいってものじゃないんだよ? もちろん騎士候補生たる者、剣術は大事だけど、それを補助する魔法や騎士としての教養もちゃんと身につけないと」
ルナは指を立ててつらつらと言う。
相変わらず真面目だ。座学は壊滅的な僕と違って、ルナは座学成績一位だし。
「ていうか、僕ってそんなに剣全振りみたいなキャラだったのか」
今では魔女の力を借りた魔法しか使っていないのに。
「講義をサボって剣を振ってる奴が剣馬鹿扱いされるのは当然だろうよ」
……確かに、あの頃は剣がすべてだと思っていたからな。
剣こそ魔法騎士の本懐。
魔法はあくまで剣の補助にしか使わないと考えていた。
だから、ひたすら剣を振るっていたんだ。
……講義が面倒臭すぎて受けたくなかったのも半分ぐらいあるけど。
過去の自分が駄目人間すぎて泣けてくるな。
もしかしてこれ魔女の罰ゲームか?
「いやいや、そんなわけが……」
「一人で何をブツブツ言ってんだ。今日のお前、ボケ老人みたいだぞ」
怪訝そうに眉をひそめるレオ。
これだけ記憶が欠落しているんだから、あながち間違いでもない気がしてきた。
肩を落としながら歩き続ける僕。
「はぁ……」
学舎の廊下で、たくさんの学生とすれ違う。
皆、当たり前のように笑顔を浮かべている。平穏な日常そのものだった。
新鮮というか、懐かしいと思う。
長らく忘れていたけど、確かにこんな光景もあった。
一言では言い表せない複雑な心境だ。嬉しいけど、悲しくもある。
この平穏な日常は、数年後には崩壊するからだ。
……いや、違うだろう。何を考えているんだ、僕は。
確かに、僕が知っている歴史ではそうなった。
だからこそ変えるんだろう?
何を弱気になっている。ルナを助けるんじゃなかったのか?
「頑張らないと……!」
「ため息をついたかと思えば、今度は気合を入れ始めたぞ。忙しない奴だな」
「ブラムがやる気を出すなんて珍しい。特に実戦魔法なんて一番サボってるくせに」
「い、今まではサボりまくってたかもしれない。でもルナ、僕は変わったんだ!」
「またそれ? 今日どっかに頭でもぶつけたの?」
ルナにまでそんな風に言われると悲しくなってきた。
「……ぼ、僕らは魔法騎士になるんだぞ? 国を守るためには、剣も魔法も座学もきちんと習得しないといけない。今まではちょっとアレだったかもしれないけど、もう講義をサボったりしない。みんな、一緒に頑張っていこう!」
「いや、誰!?」
「お前、本当にブラムか?」
「特に実戦魔法は騎士としての腕に直結する講義だし、サボるなんてもっての他だ!」
「お、お願い! それ以上正論を言わないで! ブラムの分際で!」
「ブラムの分際で!?」
流石に言葉の刃が鋭すぎて素に戻ってしまった。
「ご、ごめんちょっと動揺しちゃって……」
動揺したのは僕だよ。
あ、あれ……ルナはそんなにひどいことを言う子じゃなかった、よね?
「だ、だって……ブラムに正論を言われたら、困るよね?」
「なんで僕に同意を求めたの? 困る? 困るっておかしくない?」
「わたし、なんていうか、間違っている人間の正論って、間違っていると思うんだ」
「急に深い話になったな!?」
その理屈だと、僕の存在そのものが間違っていることになる。いや、冷静に考えると僕は未来から来た異物なんだから、確かに存在そのものが間違っているんだが。
自分で納得して自分の心を折る僕。なんだこれ。
そんな事情を知らないルナは、呆れ顔で苦言を呈する。
「これまでの自分の行動を考えれば分かるよ。遅刻魔でサボり魔のブラムさん」
「くそ、ふざけるなよ過去の僕め……」
ガクリと肩を落としながらルナについていくと、第三訓練場とやらに辿り着いた。単なるだだっ広い草原だが、よく見ると結界が張ってあり魔法の訓練には適している。
「――皆、集まっているな?」
雑談しながら授業開始を待っていると、先ほどの女教師がやってきた。
彼女は面倒臭そうにあくびをしつつ、僕らを見回す。
「ヒルダ先生、今日は機嫌良いね。ブラムが遅刻したからかな?」
ルナが僕の耳元でそんなことをささやいた。
「いや、僕が遅刻したら機嫌良くなるって理屈がもうおかしくない?」
「ヒルダ先生はあれでブラムのこと好きだから。いつも通りで嬉しいんでしょ」
「随分と歪んだ好意だな。そもそも機嫌良いのかあれ? すごい面倒臭そうだけど」
「いつもはもっと苛々してるでしょ」
「ひどい教師だな……」
僕の中で女教師――ヒルダ先生とやらの評価がどんどん下がっていく。
「さて、そろそろ始めるぞ」
ヒルダ先生は淡々とした口調で、実戦魔法の講義を開始した。
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