第一章 絶望の八年前①

「――ほら、早くしないと遅刻する! ちょっとブラム、寝ぼけてる暇ないよ!」


 僕は呆然としていた。

 この状況の意味が分からなかった。死に際の夢だとしか思えない。


「ルナ……?」


 蒼い髪のショートカット。

 宝石のように碧い瞳。

 まだあどけなく可愛らしい顔立ち。

 起伏こそ少ないもののスラリとした体格で、細い腰には剣を携えている。

 

 そのすべてに見覚えがある。

 どこからどう見ても、幼馴染の少女ルナ=ベイリーだ。


 目の前に、死んだはずの少女がいる。

 当たり前のように生きて、怒っている。


「そりゃそうだよ。どうしたの? 死人でも見つけたような顔しちゃって」


 笑えない冗談だった。

 なぜなら、現にそうなっているんだから。


「ここ、は……?」

「本当に寝ぼけてるの? あなたの部屋に決まってるじゃない」


 言葉につられて周囲を見回すと、確かにここは学生時代の僕の部屋だった。

 だが、学園寮はとっくに破壊されているはずだ。

 僕の部屋なんて残っているはずがない。


 いったい、何が起きている?


 夢にしては感覚が現実的すぎた。

 頬でもつねってみようかと思って――気づく。


 体を動かすことにひどい違和感があった。

 だるさがあるとか、そんなレベルの話じゃない。

 まるで別人の肉体に入り込んでいるかのような感覚。

 激しい体の違和感は不快感にも繋がり、何というか乗り物酔いに近い感じだ。

 吐き気を催したが、堪える。

 ふらつく体を支えたくて壁に手をついた。

 そこで自分の手を二度見する。綺麗な少年の手だった。


「何だ、これは……?」


 いや、おかしい。

 こんなに小さいはずがない。

 それに僕の手はこんなに綺麗じゃない。

 大量の傷跡があったはずなんだが、それが一つ残らずなくなっている。


「――か、鏡! 鏡はないか!?」

「な、何をそんなに慌てて……洗面所にあるよ?」


 ルナの言葉を聞き、洗面所に向かう。

 僕の部屋だし、場所はもちろん分かっていた。

 鏡の前に立つ。

 そこに映っていたのは紛れもなく僕――ブラム=ルークウッドだった。

 でも安心はできなかった。

 鏡に映っていたのは僕だが、明らかに今の僕じゃない。


 ――どう見ても若返っている。


 ここまでの情報を整理すれば、一つの仮説が成り立つ。


「過去に、巻き戻っている?」


 そう考えれば、すべての辻褄が合う。

 そんな馬鹿げた真似を可能とする人間にも心当たりがあった。


 かつて僕が頼った伝説の魔女ローズ=ローレンス。

 あいつの魔法は時間にすら干渉する。

 ローズが時間を操り、世界を過去に巻き戻した。

 夢じゃないなら、それしか考えられない。

 騎士学園入学後でルナが死ぬ前なら、確か八年前だったか。


「あの女……いったい何を考えている?」


 かつて、人生のやりなおしという僕の願いを一蹴した伝説の魔女。

 だというのに、この現状はまるでかつての僕の願いを叶えているかのようだ。

 世界を過去に巻き戻すということは、それまでの積み重ねを失うことを意味する。

 いろいろな人々の想いを、生きざまを、なかったことにしてしまう。


 確かに、滅びかけの世界だった。

 人類の多くは戦争で死に、怪人は僕が滅ぼした。文明など残ってはいなかった。

 それでも、助けられた人たちはいた。

 多くの犠牲の果てに、どうにか人類は存続したはずだった。

 それは、僕が戦い続けた意義。

 何もかもを失った僕が、唯一手に入れたものだった。


 だというのに――魔女、君はそれすらも僕の手から奪っていくのか。


 静かに、拳を握り締める。

 魔女の目的が分からない。

 いまさら八年前の世界でどうしろというのだ。

 僕はゆっくりと息を吐いて、募る苛立ちを抑え込んでいく。


「……ブラム、本当にどうしたの? 怖い顔してるけど、大丈夫?」


 心配そうな声が耳に届く。

 そうだ。

 これが夢じゃなく過去の世界だというのなら――ルナは本当に生きている。

 今ここにいる少女は、僕の妄想なんかじゃない。


「あ……ええと、ごめん。どうも、寝ぼけてたみたいだ」


どうにか外面を取り繕って、できる限り昔のように返答した。


「そう? なら、いいけど……しょうがないなぁ、ブラムは。わたしたち、騎士を目指してるんだから。もっとちゃんとしないとダメだよ。ほら、シャキッとして」


 ルナはほっとしたように息を吐き、いつものように――かつてのように、小言を言う。

 その姿が愛おしいと思った。

 かつて失った大切な人が、目の前で生きている。

 たとえ魔女に振り回された結果なのだとしても、それだけは何よりも嬉しかった。

 視界が涙で滲んで、頬を雫が伝っていく。


「ルナ……」

「……もしかして、怖い夢でも見たの? ……って、わわっ」


 もう我慢できなかった。

 小首を傾げるルナの胸に飛び込むように抱き着いた。


「ブ、ブラム!?」

「ごめん。しばらくこうさせて」

「ええ……!? べ、別に駄目じゃないけど」


 突然のことで両手の置き場に困っていたルナは、呆れたように息を吐いて僕の頭にそっと手を置いてくれた。その感触が、その態度が懐かしいと思った。


「もう、しょうがないなぁブラムは。男の子なんだから、簡単に泣かないでよ」


 温かい人肌の感触に包まれながら、僕は考える。


 ルナが、生きている。


 だが逆に言えば、このままだと彼女は死ぬ。

 あの悲劇がもう一度起こる。

 それだけは何としてでも止めなければならない。

 僕の行動が未来を変えることになったとしても、本来あるべき歴史から逸れてしまうことになるとしても、それは決してルナがもう一度死ぬ理由にはならない。


 くだらない贖罪でも、偽善者の自己満足でも構わない。


 今度こそ絶対に、僕はルナを救う。

 大切な彼女のことを、守ってみせると決意した。

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