10.奇縁3
周囲を包囲する家々の屋根から、鳥たちが力強く一斉に飛び立つ音で、アルの意識は現実へと引き戻された。
二人が相対する広場のような空間には、猛火ではなく重い沈黙が横たっている。徐々に傾いていく陽の光が、彼と彼女を象徴するかのように、光と影の幕を綺麗に落とす。
光の側に、アルはいた。刀身の血錆のような髪は赤く煌めき、眩しさに細められた目は無垢の子供のように透き通っている。それは彼の純粋すぎる殺意そのものを、象徴しているようだった。
影の側にいる姿を偽ったクローフィーは、服の袖から指先だけを出し口元を覆い隠しながら、ゆらめく蝶々の羽のように瞬きを繰り返す。思考のための沈黙。数秒後、思考は終着に至ったらしい。ゆるりと被りを振って、彼女は青年を見上げた。
そして口元を覆ったまま、
「お前のことなど、覚えて、いない」
ゆっくりと、アルの
脳の中心にだけ、強い重力がかかったように思えた。霞むように視界が揺れて、喉の奥に空気が詰まった。胃の奥が、徐々に冷えていくのを感じた。
思わず膝をつきそうになるのを堪えて、アルは力の抜けた足を叩く。様々な感情が濁流の勢いで迫り、何から口に出せばいいのか分からない。いや、何も口に出すべきではないのかもしれない。開きっぱなしの唇を片手で覆い、彼は焼かれたような喉で笑う。空気の残り滓さえも吐き出された肺が、呼吸を急かし痙攣した。
彼女に覚えていてほしかったわけではない。そんな乙女心、アルには存在しない。
だが、心の隅では思っていた。有象無象を等しく屠る『殺戮の天使』の中で、自分は特別なのだと。天使の慈悲を賜った、唯一の人間なのだと。
そうでなければ、なぜ凶刃を収めたのか『強くなって、私を倒しに来い』などと、
なぜ、
なぜ……?
「ククッ、ふははっ、はは、はっ、あははははははッ! そうかよ、そうかよクローフィー」
虚しさは哄笑となって顕現し、高い空へと吸い込まれる。目眩のする頭を抑え、アルは影の側へと歩き出した。ふらつく足取りで、一歩、一歩とクローフィーとの距離を詰める。その分、彼女は後退した。
光の側にいた青年は、影に足を踏み入れる。少女は大きく後ろに下がった。その時、踵が硬いものに触れる。彼女は振り返るまでもなく悟る、背後はすでに行き止まりだと。
素早く横に逸れ、アルの横をすり抜けようとするクローフィーの耳を、筋肉質な腕が掠めた。離れようとする彼女を、彼は自分の腕の中に閉じ込める。すっぽりと籠の中に収まってしまう彼女は、戦場で見るよりもずっと小さくて頼りなく、こんなにも愛おしい。
二〇センチメートルほど小さなクローフィーを見下ろして、アルは凶悪に笑った。彼女の耳元に唇を寄せて、彼は低く囁く。
「なァ、天使サマ。俺にも、失いたくないモンができたんだぜェ」
クローフィーは怪訝そうに眉根を寄せた。そしてアルを退けようと、片肘が壁にぶつかるギリギリまで体を捩り、渾身の一撃を
放たれた打撃は、華奢な腕からは想像もできない力で無防備な鳩尾に食い込んだ。常人ならば、よくても気絶だろう。しかし、アルは動かない。特殊な神経伝達物質が作用しているのか、ものともしていないようだ。クローフィーは、思わず眉を微かだが跳ね上げ動揺を示す。
彼女が腕を引っ込めてしまう前に、アルは乱暴な手つきで掴んだ。抵抗するクローフィーの腕が、強い力に軋む。指先が言うことを聞かないほど、彼の力は強い。
無理やり壁に押し付けられた彼女の腕が、目の荒い石に傷つき、鮮血――のような赤色――が肌を滑り、衣服にじっとりと赤いシミを作った。
「クローフィー、お前だ。俺が、お前を
「……戯言、を」
熱のこめられた囁きを、クローフィーは一蹴する。鋭く細められた瞳を見つめ、アルは満足そうに頬を歪めた。
――その赤の艶めきは、いつ見たとしても美しい。
うっとりと視線を潤ませるアル後ろで、タンッと、軽やかな音が鳴った。残響が沈むより、アルが振り向くより早く、音の正体は彼のすぐ後ろにまで迫る。
「レディを誘うにしては、強引すぎるんじゃないんでしょうか」
その声の持ち主に、アルは覚えがあった。あの時の、ネージュが万引きを働いた屋台で出会った、紅茶色の髪をした青年――つまり、アルが予想した通りの
柔らかな声音とは裏腹に、荒っぽい力でクローフィーから彼を引き剥がすと、ヨシュアは立ち塞がるようにクローフィーの前に立つ。まるで雛を護る親鳥のように、警戒心――ここまでくると、もはや殺意だろうか――を剥き出す青年。
少しよろめきながら後ろに下がり、アルは肩をすくめた。
「ナンパなんて、今時流行らないですよ」
「ハッ、言うぜお兄様。こっちは本気だっての」
クローフィーを気遣うように後ろを向いたところ、服を汚す赤色が視界に入ったらしい。顔色をころりと変えて、ヨシュアは彼女に走り寄った。
「クローフィー、どうしたんですか、この傷は。もしやあの男につけられたのですか? それは死罪に値しますね。少し待っていてください、すぐに僕があの男の首を落としますから」
変装が既に暴かれている事を察しているのか、堂々と妹の名前を呼ぶヨシュアに、アルは一周まわった清々しさをおぼえていた。ルッケディーグでの戦いの時もそうだ。彼は完膚なきまでにアルを無視して、一目散にクローフィーの元へ向かっていった。彼はそういう兄だ。俗にいう、シスターコンプレックスというやつだろう。
今度こそ懐に手を伸ばそうとするヨシュアを、クローフィーが止めた。まるで幼女のように彼の服の袖をきゅっと引っ張り、被りを振る。制止の意を汲み取り、ヨシュアは困惑したように視線を彷徨わせたが、徐に
思わぬ彼女の行動に、アルも片眉を跳ね上げた。ここでもまた、クローフィーはアルを見逃すと言うのだろうか。
もはや慈悲をかけた事すら、覚えていないというのに。一体なぜ、何のために。
「人間」
またぐちゃぐちゃと黒いものに侵され始めた思考を、幼くも透き通った声が穿った。血のついた部分をなんとなく擦りながら、彼女は真っ直ぐにアルを見つめる。
「私は、全てを壊す。お前も、この街も、必ず」
――有象無象の残骸と果てることになる。
それだけを言い残して、彼女は踵を返す。その横に、ヨシュアも並んだ。
「くくっ、初恋は叶わねぇって、こういう事かよ」
遠ざかっていく背中を、アルはただただ眺めていた。しかしこの初恋を諦める気など、彼にはさらさらない。あっていいはずがない。
なぜならアル・パーヘリオンは、純愛を叶えるため、異能力者になることを志願したのだから。
広場には既に光と影の境界はなく、辺りは薄暗い闇に包まれ始める。広場に一つだけ設置された街灯が、心許ない光を灯す。か弱いその明かりを見上げていると、不思議と昂っていた心臓は落ち着きを取り戻し出した。
手のひらを胸に押し当てて一つ大きな深呼吸をするアルは、息を吐ききった時、一つの重要な事を思い出した。
「やっべぇ、紙袋置いてきちまった!」
どっと冷や汗が流れる。衝動で飛び出してしまったため、アメリアから預かった紙袋はまだ食堂の中だ。彼女の悲しむ顔は、なんとなく見たくはない。
慌ただしく走り出したアルの後ろで、最初に追い払われた猫なのだろうか。迷惑そうに、ニャァと鳴いた。
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