9.奇縁2

 そして現在。紙袋の守衛を務めているアルは、アイスティーの最後の一口を飲み干した。疲弊した体に、爽やかな香りが染み渡る。グラスの中で、カランと涼やかに氷が鳴った。

 結局、紅茶髪の青年の正体は分からずじまいだった。おおよその検討はついたが、その答えはあまりに非現実的のように思える。

 柔らかな物腰の裏で見え隠れする、まるで捕食者のような鋭さ。機転の利き方。そして、感じた既視感。何度回想してみても、行き着く答えは同じだった。

 テーブルに突っ伏し、重力に逆らわず半開きになった唇の隙間から、アルはくぐもった言葉をこぼす。


「ヨシュア・エトワール、じゃねぇよなぁ……さすがに」


 人類の脅威、『殺戮ドール』。そのプロトタイプであり、『殺戮の天使』の兄にあたる機体の名前は、恐ろしいほどにしっくりくる。アルも赤い雷の一撃を受けた身だ、その確信はなおさら深い。

 しかし、人類の脅威である彼らドールが、天敵である異能力者の先鋭部隊が拠点とし、人類の要と呼ばれるエプレの街に襲撃するでもなくやってくる理由が見当たらなかった。中央政府や主要の研究施設など、重要な施設が集中するこの街のシステムは厳重だ。見つかれば、破壊は免れないだろう。そんなリスクを犯して――


「リスクはなくなった、って事かァ?」


 アルの心臓が深く脈を打つ。柄にもなく思考する脳が、止まった。もしそうだとしたら、人類は大きな打撃を受けることとなるだろう。だがその実。人類の行先なんて、アルにとってはどうでも良い事であった。

 自分の口角が痛いほどに歪んでいるのを感じる。彼は口元を抑えながら上体を起こし乱雑にグラスを手に取ると、中の氷を口に放り噛み砕いた。衝撃で視界と頭が揺れる。

 もしドールがこの街にいる可能性があるのだとして、あの青年がヨシュア・エトワールなのだとしたら。


 絆で結ばれた双星そうせいは、決して離れることはない。

 この街に、片割れは存在する。

 輝かしい白羽を隠した、『殺戮の天使』が。


 口内の氷が溶けてなくなると、目の前が明るくなるのを感じた。まるで光を反射する銀の玉が、目の前に転がり落ちてきたかのように。

 反射的に、アルは窓の外を見た。少しだけ陽が落ちてあらゆる影は長く伸び、衰えることのない人の波が、黄金色の街路樹に見え隠れする。白波が海へととけるように、人と街は大きな海原の如く穏やかに、違和感なく広がっている。


 たった一点を除いて。


 それを見つけた瞬間、アルは勢よく立ち上がった。弾かれた椅子がガタンッと倒れ、大きな音に視線が一斉に彼へ集中する。当の本人は窓の外から目を離すことなく、任されていた紙袋を放ったらかして宿屋の外へ飛び出してしまう。


 まるで人の街に紛れ込んでしまった猪が如く真っ直ぐに通りを駆け、不運にも衝突した人々の悲鳴を聞き流し――途中でぶつかってしまった老婆の体は支えていた――ながら、アルは大通りから外れた道を曲がった。

 人々の騒めきは一気に遠くなり、耳鳴りのような静寂が立ち込める。人がすれ違いざまに体を横にしてやっと通れるような隘路は迷路のように入り組んでいたが、血の記憶から街の構造を参照し、難なく突破。どこから運び入れたのか、壊れて放置されている荷車を更に踏み壊して、豪快に着地する。毀壊音きかいおんは静けさにさざなみを立て、のんびりとしていた猫を叩き起こした。

 広場のように開けたその場所に、窓越しに感じた違和感は、いた。


「見つけた」


 呼吸ひとつの乱れもみせずに、アルは目の前の違和感――小柄で華奢な少女の背中に、真っ直ぐ声を投げかける。おそらく、逃げ出してしまった猫を愛でていたのだろう。名残惜しそうに指先を泳がせながら、少女はまろやかなミルクティー色の長髪を揺らして、緩慢に立ち上がり青年を振り向く。誰だと問うように細められた瞳は、あの青年のような芳しい蜜色をしていた。

 彼女の目を見た瞬間、アルは再度確信を得た。いくら姿を変えようとも、まとう雰囲気を偽ろうとも。病的なまでに魅せられた彼には、わかってしまう。


 ――少女は、『殺戮の天使』そのものだ、と。


 怪訝そうに息――に似せた音声だろう――を吐き、彼女は唇を薄く開く。そこから言の葉が咲く前に、アルは彼女にぐいと近づき、乱暴な手つきでほっそりとした腕を掴んだ。思わず力の込められた指先が濃紺の布地につつまれた柔肌に食いこみ、微かに血のような赤色が滲み出る。

 しかし少女は叫ばない。苦痛の色さえも伺えない。ただただ、不可思議なものを見るように忙しなく睫毛を揺らすばかりだ。

 アルはひくつく口元を片手で覆い隠す。人相の悪い三白眼を潤ませて、彼は低く囁いた。


「地獄の底から迎え殺しに来たぜェ? 天使サマ」


 長い間、獲物を執念く狙っていた蛇が絡みつくように。あるいは、高嶺の花に恋焦がれるただの青年のように。アルは熱のこもった声音で天使の名前を呼ぶ。

 『クローフィー・エトワール』、と。

  少女の片眉が跳ね上がった。蛇に絡まれた彼女は逃れようと身を捩るが、彼はより強く彼女の腕を引き寄せる。近づく距離。少女の鼻先を撫でるように、青年の笑み混じりの吐息がかかった。


「人違いです。貴方のことなんて知りませんし、よりにもよってドールのリーダーの名前を呼ぶなんて、とても失礼じゃないですか」


 今度こそアルの腕を振り払い、少女は一歩退いた。思い出したように困惑と微かな怒りを表情に出しながら、人間であれば当然であろう言動を向ける。その声も無機質的で途切れたものではなく、外遊びとひまわりが似合うような活発な少女のものだ。

 だが、表情の移り変わりといい言葉の語尾といい、いかにも。見る人が見れば分かるほどの、まさに三文芝居という言葉が似合うだろう。

 愉快そうに喉奥を鳴らして、青年は肩をすくめた。


「へェ、演技は案外上手いんだなァ? ククッ、だが違う。違うだろ、クローフィー。お前と俺が会うのは、これでだ」


「は……?」


 振り払われた手で首の後ろを摩りながら、アルはどこか挑発的で意地の悪い笑みを口のすみに浮かべる。防衛的に胸の前で両手を重ねていた少女は、思わぬ方向からくる衝撃に首を傾けた。

 やはり彼女は、台本ありきの三文芝居を繰り広げる事しかできないらしい。アドリブ的なセリフには、全くもって対応できていない。つまるところ彼女の反応が示すものは、自分がドールのリーダーであるという肯定だ。心当たりがなければ、彼の言葉は一蹴して然るべしなのだから。

 己の失言に気付いた少女――クローフィーは演技を続けようとして、やめた。開きかけの唇は音声化された浅いため息を吐く。そして向けられた視線に、アルは背筋に疼きにも似た電流が走るのを感じた。肌は、いつかの猛火に焦がされたかのように熱い。


 もうだいぶ過去の事に感じられる、地獄の通り道のような戦場での一幕が、安穏の街にて再現される。

 どこまでも冷たい蜜色の瞳が、血色の眼差しと重なった。

 燃え盛る火の粉ですら灰色に燻んで見えるほど、鮮やかな赤がアルの脳裏に呼び起こす。


 もう一つの、地獄の姿を。



   ***



 目が溶けだしてしまったような、大粒の涙が幼い輪郭を伝い落ちる。雫は熱い緋色を反射して、少年の冷え切った握り拳の上で弾けた。昨夜の大雨で湿り気を帯びた空気は、爛れるほどの熱気と木や肉の燃える異臭で満たされ、吐き気と悪寒で喘ぐように息をする少年を更に苦しめる。

 体は冷たいのに空気は熱くて、怖いのに目が離せない。相反する感覚が胸中を圧迫し、少年は小さな体を丸めて吐くような体勢で涙をこぼし続けた。

 べちゃり。ジャムをぶちまけたように粘着質な音がした。背中に刃でも突きつけられたように少年は跳ね起き、歪んだ視界を凝らす。そこには、赤黒い塊が伏せっていた。微かに震える塊は、呻きながら少年の方へと這い寄ってくる。

 精神的な嫌悪感を煽るソレから、彼は逃げなかった。なぜか見ているだけで心苦しくなって、切なくなって、思わず力の入っていない手を伸ばした。瞬間、腹底に響く音と共に、塊は風船のように弾けた。赤い水が少年の体を濡らし、粘着質に肌へ張り付く。

 

 それは、ぬるりと温かくて、鉄臭い。


 夢でも、見ているのだと思った。

 視界を歪めていた涙の幕が、とろりと切れて流れ落ちる。

 ほら見ろ今に目覚めるぞと声をあげようとして、少年は呼吸ごと言葉を詰まらせた。


「あっ、ぁ……」


 そこに倒れていたのは、至る所が焼け焦げて、夥しい量の血液を垂れ流す女性


「っぅ、か、母さん……」


 少年の、母親だった。

 彼の名前をやわらかい声音で紡いだ喉は縦にすっぱりと切り裂かれ、器用で優しくしなやかな指は焼け爛れ、愛らしく綻んでいた相合は壮絶な恐怖で歪んでいる。その背中からは、未だに血が細かく吹き出しているのが見えた。

 少年は口の中が酸っぱい砂利を噛んだように痺れ、喉奥がツンと焼ける感覚を覚えた。空っぽの胃の中身を吐き出して、枯れ草から一滴の水を絞り出すようにポツリと母の名前を呼ぶ。

 握りしめた指が手のひらに食いこみ、抉れた肉が血を湛えた。


 呼び声に答える者はない。代わりに、炎に包まれた家屋がほつれるように崩れ落ちて、唸りをあげる炎の奥に微かな歌声が返ってきた。明滅する意識をなんとか保ちながら、少年は前を向き耳を澄ます。

 その声は、静寂と清らかな空気に包まれた泉のように、まろやかで透明で、あまりにもこの場に不釣り合いな少女の声だった。そして彼女の紡ぐ歌は、奇しくも少年の母親がよく歌ってくれた、名前のないささやかな子守唄だった。

 まるで死を悼むように、残酷で優しい子守唄は響く。死者の怨情を代弁するように、炎はくぐもった咆哮をあげた。

 あらゆる衝撃に脳の麻痺した幼い少年は、目の前の光景を地獄の使者が奏でる冒涜的な讃美歌のようだと思う。

 本来悍ましいだけの惨状に――天使は、舞い降りた。


「……人間」


 子守唄を紡いでいた声が、少年に向けられる。崩壊した家屋の前に佇んでいたのは、天の御使を思わせる白髪を熱風に遊ばせた小柄な少女だった。しかし、その相貌は血と煤に塗れ、神聖なものとは到底言い難い。それでもなぜか、少年には彼女が天使に見えていた。

 異常だと理解しながら、彼は彼女に確かな美しさを見出していたのだ。穢れを知らぬ、刃のような。

 少女は手に握る大振りのリボルバーを華奢な指先でくるりと弄び、少年の頭に銃口が向いたところで止め、片腕で構えた。撃鉄を起こさんとかけた親指が、見えない何かに引っ張られているように震えている。


「私が、憎い、か」


 白い睫毛が重なり、開いた。氷輪のように透き通った血色の瞳が、射るように少年を見据える。冴えざえとした月光の矢は凝固した少年の思考を打ち砕き、乱暴に回路を繋ぎ直す。途端に溢れてくるのは、熱くてどろりとした感情の波。

 それは憎悪と呼ぶべきか、憤怒と呼ぶべきか、畏怖と呼ぶべきか、はたまた――――。


 少年は手のひらの肉を爪で裂き、滴る血と共に小石を投げつけた。振りかざされた蟷螂の斧を避けることもせず、少女は静かに銃口を逸らす。パラパラと、無意味な小石は地面に散らばった。


「なら、強くなって、私を討ちに、こい。……もう何も、失いたく、ないの、なら」


 天使は名も知らぬ少年に、慈悲を施した。散々人の命を屠ってきた死の象徴が、生命を刈り取る刃を収めたのだ。

 なぜ、どうして、なんのために。喉の奥が焼けた鉄を注がれたように痛む。今すぐに喉元を引き裂いて、楽になりたい。もはや失うものなんて、爪の先ほども残されていないのに。

 

「お前はぁっ、絶対にッ俺が殺すッ!! 絶対に、殺してやるからなぁぁぁぁぁああああああぁぁあぁあああ!!」


 遠ざかっていく白羽に、殉情じゅんじょうのまま、少年は引き裂くように叫んでいた。

 

 それは憎悪と呼ぶべきか、

 憤怒と呼ぶべきか、

 畏怖と呼ぶべきか。

 はたまた、恋にも似た殺意と呼ぶべきか。


 かくして、少年と天使は一度目の邂逅を終えた。


 青年となったアル・パーヘリオンは、異能力の適合実験に志願する際、こう語った。

 『純愛を叶えるためだ』と。

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