3.目覚め
どくり、どくりと、心臓の動きに合わせて、血液が全身を巡っていくのを感じる。体の熱が意識を外側へ押し出し、起きろと急かしてくる。
その流れに逆らうことなく、アルはゆっくりと目を開けた。
等間隔に聞こえてくる高い電子音。まだ薄ぼんやりとして見えるが、全体的に白で統一された部屋。そして鼻をつく、微かな薬品の匂い。
まだ意識が覚醒しきれていなくとも分かる。ここは、どこかの医療施設だ。
運がいいと言うべきか、悪運が強いと言うべきか、青年はあの地獄から奇跡の生還を遂げたらしい。他に生還者はいないかと薄目で室内を見渡してみるが、周囲のベッドはがらんどうで、人の気配はなかった。
特段、その事実に思うことはなかった。ただ、体中が柔らかな鉛に包まれたように重い。
ギギギと音を立てそうに軋む関節を動かして、アルは自分の掌を宙にかざした。水中にいる錯覚を起こしそうな視界が、徐々に水面へと浮上していく。手の輪郭が、だんだんと鮮明に見えてくる。
まだ重い眼球を動かし、澄んだ視界で、周囲の景色を改めて見回した。瞬間、アルは激しい眩暈に襲われた。白独特の部屋の眩しさにやられたのではない。完全に覚醒した意識が最初に見せたものは、一切の視覚情報を無視したものだったからだ。
アルは再び、鮮明に幻視する。
吹き荒れる熱風に取り巻かれ、白い髪を乱れさせながら、燃える街を見下ろす少女の後ろ姿。そう、血塗れた赤の鎌を携え、戦場には不釣り合いのゴシックドレスを優雅に着こなす、『殺戮の天使』の姿を。
青年は、瓦礫と死体に混じって、無様に転がっていたあの時を思い出した。殺してやると叫んだ喉が、熱く痛む。
不意に少女の体が大きくぶれ、深く沈んだ赤の目が、死の象徴が、アルを射抜いた。
幻と知りながらも、その殺気にあてられた青年は、跳ね上がるように体を起こす。
「いっ、てぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
体を包む鉛が、急速に熱されたような激痛に、青年は思わず涙目になりながら蹲った。
獣の咆哮と聞き違えてもおかしくない渾身の絶叫が、室内を通り越して周囲に響き渡った。幻は、痛みを持って現実から消え去っていく。
処置のため上裸にされた不健康そうな色合いの体には、これでもかという程の包帯が巻かれており、右腕はギプスで固定されている。頭にも当然の如く包帯が巻かれ、顔には分厚いガーゼが張り付いていた。
見るからに痛々しい青年の姿。実際問題、痛いってもんじゃない。それが青年の本音だった。
不本意に流れてくる涙を拭いながら蹲るアルを支えるように、不意に誰かの手が逞しい肩を包んだ。半ば反射で視線を上にあげると、心配そうに眉尻を下げながら青年を見下ろす、白衣をまとった長身の男がいるではないか。
思わずアルはギョッとした。
「安静に」
アルの大声を聞いて駆けつけたのだろうが、全く気配がしなかった。
今は怪我人といえど、戦闘しか能がないようなアルさえも感じ取れないほどの、完璧な隠密行動。もちろん本人にそのつもりはないだろうが、それは一種のサプライズのようにも思えた。
なんとか元気そうなアルの姿を見て、男は埃を吹くように安堵の息を吐く。
「目が覚めたみたいで、安心した。大声が聞こえた時は、すごく焦ったけどね」
白衣の男は肩をすくめた。頭の高い位置で一つに結えられた黒髪が、動作に合わせてさらりと揺れる。
よく見ればそれはただの黒ではなく、蛍光灯の明かりを反射して、紫や緑、黄色などの複雑な色味を見せていた。カラスの翼のようだと、アルは思った。
出来栄えのいい大粒のグレープのような目を細め、微笑む姿はどこか艶やかで、口元にある黒子がそれをさらに際立たせている。男は、もしもアルが人間に興味のある女性だったなら、一目惚れ間違いなしに整った容姿をしていた。
ゆっくりと体を起こし、アルはまだ自由の効く左手で男の手を払う。
「そりゃどーも。はぁ、ったく。驚かせやがって」
「あぁ、うん、驚かせたなら申し訳ない。……でも、凄まじい回復力だね。心臓に傷がついていたし、目覚めるのはもう少し先だと思ってた」
何が驚きの原因だったかは分からないが、とりあえずといった様子で男は謝ると、振り払われた手を嫌な顔を一つせずに引っ込め、アルの近くにある椅子に腰をかけた。
男はふと、空っぽのベッドを眺める。
その横顔には疲労が滲んでいた。きっと彼は最後まで、負傷者を死の道から現実へ引き戻そうと、尽力していたのであろう。黒い薄手の手袋に包まれた両手は、悔しさを表すようにきつく結ばれている。
男が口を開かなければ、心電計の音しか聞こえない妙な静寂は、青年以外に生存者はいないという残酷な現実を、男に容赦なく突きつける。男にとっての救いといえば、アルが生きていたこと他ならなかった。
「僕はルクス・アトランティア。先鋭部隊ネメセイアの、医療班班長を勤めている。どうぞ」
よろしくねと、ルクスは手を差し出しかけて止めた。
そもそもの原因として、四大都市の一つである、『自由都市ルッケディーグ』が滅んだのは、ルクス含む救援部隊の到着が──物資に問題が発生したゆえ──遅れたことにもある。その事実に、ルクスは深い責任を感じているのだ。
一度姿勢を正し、深く息を吸うと、ルクスはアルに深々と頭を下げた。
「アル。君たちの救援に間にあわなかったこと、本当に申し訳なかった」
重くしんみりとしたルクスの態度に、アルは頭を掻く。面倒臭いな、とでも言いたげに。
「ルッケディーグは、襲撃予測地点から外れてたんだろ? こっちの隊の奴らも、気ぃ抜いちまってたし。壊滅して当たり前だ」
「それでも」と言葉をつづけようとするルクスを見て、アルは深く眉間に皺を寄せる。舌打ちをおまけにつけて、不機嫌を包み隠さずにルクスへ伝えた。
なんともあっけらかんとした態度に、逆にルクスの精神的バイタルが低下してしまいそうだった。それは、自分が悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなった、と言うわけではない。
アルは人の死に慣れ過ぎている。そのせいか否か、他人に無関心すぎる。それが、悲しかったのだ。
明日死ぬかもしれないという緊張感の中、毎日のように、新聞やテレビには地獄が映る。そんな殺伐した現状において、死に慣れるのは異常であると断言はできない。
しかし、人間としては異常だ。ましてや彼は異能力者であるとはいえ、まだ齢十七──本来ならば、学校に通い、友を作り、勉学に勤しんでいるであろう──の青年だ。
この価値観を抱かせてしまった酷薄な現実に、ルクスはひどい吐き気を覚える。医師として、この現実は許し難いものだった。
──そして、この現実を変えられないちっぽけな自分にも、ルクスは腹が立って仕方がなかった。
「本当に、そう思う?」
「あぁ」
即座に返ってくる、短い肯定。
今すぐにでもカウンセリングを始めたいところだが、ルクスにはまだ彼に確認すべきことが残っている。
グッとカウンセリング衝動を抑えると、ルクスは胸ポケットから木製のボールペンを取り出した。
「気を取り直して」
「気を落としてたのは、お前だけだろーが」
鋭いツッコミに、思わず苦笑を返す。
ここまでいい反応ができるのは、アルの体調は悪くはないという証明であるため、嬉しいことには嬉しが、少し切ないと言うのがルクスの本音だった。
口には出さず、再び気を取り直して、ルクスは軽い問診を始めた。
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