2.殲滅。そして邂逅②
天国と地獄の存在を、青年は信じていなかった。しかし気づけば、青年はそこにいた。天国か地獄のどちらかと言われれば、おそらく後者になるだろう。
体はない。ただただ暗闇の中に、意識だけが無意味に漂っている。
今自分が認識している黒という色は、本当に黒なのか。──そもそも自分は『そこにいる』と言えるのだろうか。
音を聞く耳もなければ、風を感じる肌もない。光を認識するための目も、蜘蛛の糸を掴むための腕も、当然ない。
あの骸の山の一部になっていた誰かが同じ地獄に落ち、彼を見つけ、彼の存在を確立してくれるなんてことも無く。自意識だけが、残酷に存在していた。
これが地獄だというならば、まだ話によく聞くような針山に落とされた方がマシだと、青年は心底思った。
(俺は、本当に死んじまったのかよ)
そう思いながらも、青年はその事実を拒み続けていた。
ここが地獄なのかとか色々と考えはしたが、死んだというのはどうも腑に落ちない。
脳はないが、意識は消失しないという違和感。死後の世界なんて、真に前人未到の場所だ。この脳──もちろん無いが──をひっくり返されたような吐き気と戦い、無意味な思考を繰り広げ続けることが、地獄で与えられる本当の刑罰なのかもしれない。
そう思えば納得してしまいそうだが、この違和感を受け入れてしまった時。その時が本当の死だと、青年は本能的に思っていた。
(つーか、俺の名前……なんだっけか)
どのくらいこの空間を漂っているのだろう。
時間が経つにつれ、青年の記憶と意識は曖昧に溶けていく。少し前に年齢を思い出せなくなって、たった今、名前も忘れてしまった。
じわじわと浸食してくる【無】の気配。発狂してもおかしくない喪失感と、虚無感、絶望感をたっぷりと味わった青年はやがて──果てしない怒りへと辿り着いた。
(あの程度の傷で、俺が死ぬわけねぇだろ。つか、んで俺がこんなにグダグダうだうだ悩まなきゃいけねぇんだよ。馬鹿な俺が考えられることなんざ限られてるだろーが。そもそも、まだ俺は)
『あいつ』を殺せてねェ────────!
瞬間、青年のないはずの体に鋭い痛みが走った。それは次第に熱を帯ていき、ゆっくりと全身を象るように巡り出す。
手が、足が、目が、胴が、脳が、曖昧だった存在が、痛みと熱を伴って再び構築されていく。
その熱は血液のものだ。血を操る力を持つ彼には、はっきりと理解する事ができた。
原理やら理屈やらはさっぱりだが、とにかく青年は死んでいなかった。曖昧だっただけで、確かに存在していたのだ。
ようやく動かせるようになった手で、青年は自分の赤錆色の短髪に触れる。少し柔らかい芝生のような感触。頭皮の温度。
それらをしっかりと確認すると、青年は髪と同色の目を虚空へ向ける。良いとは決して言えない目つきが、さらに鋭く光った。
「お前。隠れてないで出てきやがれ」
低く唸るような声は、膨大な暗闇を反響し、やがて静寂へと帰る。そして次に、青年と同年──十七歳──ほどに見える人型が、なんの前触れもなく姿を現した。
華奢な人の形をしているという事は理解できるが、どんな顔をしていて、どんな服を着ているかまでは分からない。
一種の亡霊にも見える人型は、静かに手を叩いた。
『さすが、僕が目をつけただけはある。君は大した心の持ち主だよ』
人型の口元が、賞賛するようにも、小馬鹿にするようにも見える形に歪んだ。
楽しげな人型に反して、青年はひどく不愉快そうに唇を噛む。
それは当然のリアクションだろう。実際の時間は知らないが、永遠とも感じる長い時間の中、青年は“存在とはなにか“という哲学的な現実に一人悶々と悩んでいたのだ。それなのに、元凶であろうこいつの態度ときたら。人を馬鹿にするにも程がある。
青年の鋭い睨みをひらりとかわし、人型は一度強くパンッと手を鳴らした。
『やはり君の“血“は、まだあきらめていないようだね。──アル・パーヘリオン』
「あぁ? 何意味わかんねぇこと言ってんだ。つーか、んで俺の名前知ってんだよ」
人型は答えない。青年──アルは盛大な舌打ちをかまし、人型に掴みかかろうと手を伸ばす。しかし腕は人型を見事にすり抜け、手は虚しく空気を握りしめた。
性格だけではなく、肉体も掴めない奴だとは。
アルは深まった眉間のしわを指でほぐすと、深く長いため息を吐く。
その一連の様子を見て、人型はまた愉快そうに笑った。
『んんっ、失礼。君の質問に答えてあげたいのは山々だけど、あいにく悠長に使える時間もないんだ』
物理的に傷んできそうな睨みを受け、人型はわざとらしく咳払いをする。
咳払いを皮切りに、戯けた雰囲気は払拭された。口調こそ穏やかだが、その音の奥に深い焦燥感を感じる。
その真剣な空気を肌で感じ取ったのか、アルは舌打ちをしながらも大人しく話を聞く姿勢をとる。一つ頷き、薄い氷の上を渡って歩くような緊張感のある声で、人型は続けた。
『僕はこの空間で、君の血に眠る意志を試した。全てが曖昧なこの【無】の世界で、君は君であり続けられるかをね。そして君は、見事に己を示してみせた』
人型が俯き、ふと頬を綻ばせた気がする。
それは、ようやく咲いた花が強風に煽られ散っていく様を見ているような、そんな微かな悲哀を感じさせる微笑みだった。
胸がザワザワと騒ぐのを感じる。
(なん、だ。急に目眩が)
微笑みに毒でも含まれていたのかと、錯覚するタイミングだった。
アルの視界が大きくブレ、体が後ろに傾く。熱された鉄板の上に転がされたような熱さが、体内から湧き上がってくる。
『アル・パーヘリオン。どうか、僕との“約束“を忘れないで。そして、君の願いを、ずっと覚えていて』
甲高い耳鳴りの中、人型の声が鮮明に響く。何度も聞いたその言葉が。
脳がかき混ぜられたように回る視界の端で、人型の姿が見えた気がした。どこかで見たような顔立ちで、背丈で、穏やかで悲しそうな微笑みを浮かべていた。
この約束を、内容なんて伝えられていないのに、アルは覚えている。思い出せない、思い出せない、けれど、はっきりと覚えている。
『君の血は、これからも諦めない』
その言葉を最後に、アルの意識は再び沈み込んだ。
茫洋たる白の中で、彼は『殺戮の天使』の姿を幻視した。
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