第3話


長いこと手入れされていない煤けた部屋から、圧迫感のある白天井へ。希望のない朝から、同じく希望のない夕へ。疲弊した静けさから、侘しい静けさへ。


ぬるま湯から脚を上げるように、ゆるゆると意識が覚醒する。


(見たことも、聞いたこともない、学園だった。)


深い眠りから浅い眠りへと移行するあいだの淡い夢だ。たいした印象も残さないはずのそれは、凝りとして少年の脳髄に留まったまま。


しかしそれを気にするでも無く、彼は身を起こし――空になった小さなクーラーボックスに、小さく溜め息をついた。


「休憩しようとしていただけなのに、寝入ってしまったな。」


週に二回ある休みを使ってこなしてしまおうと思っていた世界史のテキストのページは、未だ三分の一ほどで止まっている。

勉強中に甘いものを食べないと気力が続かない癖はどうにかしたいものだ、と耽りながら、急な階段を降りて裏口から外へ出た。


少年は歩いて5分ほどの距離にあるコンビニに繁く足を運ぶ。ほぼ毎日、同じ時間にといっても変わりはないだろう。

当然、シフト通り規則的に働く女性の店員からは顔を覚えられており、菓子をレジに持っていった際話しかけられた。


「あら、こんにちは。……こんばんは、かしら」

「こんにちは、店員さん。……どうしたんです? なんだか、元気がないようですけど。」


こてり、と首をかしげて挨拶を訂正する妙齢の女性は、少年の言葉に少し驚いた顔をして、「そうね、」と話し出した。

彼ほど聡い子も中々いない……とひとりごちながら。

 



「『気を付けて』……と、言われても。」


帰り道はこちらの方が楽なんだよなぁ、と口に出さず続けた。コンビニの彼女のいうことには、帰り道の途中にある公園に最近不審者が出ているらしい。


コンビニに続く道は家から二通りあり、ひとつは急勾配、もうひとつは緩かで長い階段だ。

コンビニは家よりずっと低く位置しているので、行きは急勾配でも楽なものだが、帰りは階段でないと辛いのである。


かくして、少年の帰り道は今日も公園を通る階段のほうであった。


(大丈夫、だろう……『公園内』に出てくれるのなら、まあ。)


階段が隣り合っているだけで横切るわけではないのだから……と、足早に公園の前を通りすぎようとした、ときだ。


空の色が橙から赤紫へ変わっていく中で、確りと黒を背負った男の横顔が、見えたのは。



かの女性の思うように、少年は聡く、人の感情に…もと言えば視線に、よく気がつく。

その事で忌まれることも無くはなかったが、概ね気に入られているのは一重に、彼が平等な他人とのつきあい方───悪く言えば、特別関心を向ける相手が居なかったことがゆえであろう。


それを覆したのは、真っ黒な背中。 

自分にはどうしようもなく恐ろしい黒だが、なぜか惹かれる。なぜだろう、と観察(というほど長くはないが)する。


(……そっか、うつくしいんだ、心が)


伸ばされた背筋はそのまま男の中身を表すようで、見つめられたらきっと射ぬかれてしまうだろう。傷負い誰も寄せ付けないが故に艶を帯びた空気、腰におろした剣の、危うさ。


それらに、男を対象者とする邪な視線がねっとりと向けられる。あれは、そんな不躾なものに晒されて良いものではない。直感的に思ったから。


ぴりぴり覇気をとばす眼孔を、光を吸い込んでしまいそうな疲れた瞳を、放っておけなかったのもある。


(どちらにせよ……厄介な拾い物をしたものだ)


表情は心の声に比例せず、大して困った風でもない彼は、掌のシャープペンシルをくるり、弄ぶ。教科書のページに、細い指を滑らせた。





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