第10話 兄妹愛?
両面ガラス張りの廊下を、ローヒールの芳子の靴がコツコツと音を立てる。空は紅く染まり、雲は燃えているように見える。
エレベーターホールに着いて、上がってきたエレベーターに乗った芳子は19階のボタンを押した。
抑揚のないアナウンスに顔を上げると、見慣れた研究室のフロアが芳子の視界に映った。
「林又准教授、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「あ、なんかずっとバイブレーションでデスクが震えてましたよ」
大方スマホに着信でもあったのだろうと当たりをつけた芳子は、デスクチェアに座って置いてあったカバンからスマホを取り出す。
案の定、哲男からであった。
『おっ待たせー。進展ありました!!』
芳子は同じフロアにある貸し出ししている個室に移り、返信を打つ。
『報告を』
返信は、毎度のことですぐに来た。
『おっ、やっと見たか。そんで進展ね。おっほん、お市さんとちゃんと話できました! それだけじゃなくて、引っかかってた本当の理由も、なんとなくだけど分かったっぽい』
『分かったのですか、分からなかったのですか』
『多分こうかなってアタリついた感じ』
『では、市姫が結婚を拒む理由とは』
『なんかね、信長さんが心配なんだと思う。信長つうか俺なんだけど』
『どういう事ですか?』
『信長さんってさ、割と身内に味方いないじゃん? 死んだり殺したり、とにかくそんな感じで、確かによく人間不信ならなかったなぁって感じだけど。割とさ、信じられる人少ないらしいのよ。だから、自分が嫁いだ後が心配なんだって』
『ますます分かりません』
確かに、織田信長は家督を継ぐ時に実の弟と争っているし、その性格から家臣が対立しても止めず、随分殺し合っていたと言い伝えられていた。
だが、芳子にはそれと市姫が結婚を拒む理由がどうしても結びつかない。
『分かりなさいな。あなた、一体どうやって現文のテスト突破してたのよ。もう、だからさ、兄妹愛よ。もし仮に嫁いだら、しかも嫁ぎ先と織田家が対立したら、自分には何もできなくなってしまうって。そうなるくらいなら、武将を目指したいって』
『極論ですね』
『思い切りがいいって言ってあげよう。ついでに、芳子も人のこと言えないから』
『そんな、極論に走るなどという愚行を、私が? 覚えがありません』
『自覚が無かったことが、お兄ちゃん驚きだよ。でもまあ、知らなぬが仏、かな?』
芳子は、最近のやり取りで学習した。こういう時、哲男は何度聞いても詳細は話さない。
『まあいいでしょう。なら、攻めましょう』
『そういうところよ、芳子さん。今ちょと面倒だなって思ったでしょ? 平和的に行こうよ。あと、実際に攻めるの俺だからね、攻めないけど』
『ではどうすると? 関係の正常化なんて、一朝一夕にできるものではないですよ』
『あ、それともう一つ問題。普通に、政略結婚も嫌らしいよ』
芳子のいる場所は、個室とは言いつつ実際は、ただパーテーションで一つの空間を仕切っただけである。
芳子の吐いた重い空気は、隣でコーヒーを飲んでいる職員の食欲にまで及んだ。
『どうするおつもりですか?』
明確な答えは出ないと知っていながら、どうしようも無くて、芳子は特に意味もなくメッセージを送る。
しかし、哲男は芳子の想像を超えてきた。
『ふっふっふ〜、今日の俺は一味違うのだよ、芳子くん。なんとあなたのお兄様、解決策を既に打っております。いやー、俺優秀だわー』
『は?』
『あれ、オコ? オコですか? え、だってもうかなり史実と違うんでしょ。だったらもう好きにしていいかなって、思ったんだけど』
芳子は最初、何また面倒なことしてくれたんだ、と思っていた。しかし、哲男の話を聞いて、確かにそうだと思い直す。
だが芳子は、哲男に任せるのは若干の怖さがあるようで、詳細を尋ねた。
『因みに、何をするおつもりで?』
『何をするおつもりか、よくぞ聞いてくれました! そもそもさ、今の時代って相手の顔も見ずに結婚決める事が多いらしくってさ、それじゃあ皆んな不安になるだろって話。だからさ、デート制にしようと思って』
『デート制とは?』
『マッチングアプリでよくあるじゃん。交際するか決める前に何回か会ってデートしてから決めるってやつ、それです』
『つまり、何度かデートして市姫が気に入れば婚約。気に入らなかったら婚約しないという事ですか?』
芳子の眉間にはかなりの深度を誇るシワが刻まれていた。だが、それを知らない哲男は、ドヤ顔をした熊がサムズアップしているスタンプを芳子に送って寄越した。
『いいわけないでしょう』
『え、なんで?』
『自覚無いのですか? あなたは今、ご自身の手で問題解決を振り出しに戻したのです』
『どこら辺が?』
『市姫が気に入らなかったらどうするつもりですか』
『あ』
はぁ、と言う重い息が再び漏れる。芳子が入った時に「満室」の札が掛かっていた両脇の個室スペースは、いつの間にやら「空室」の札にひっくり返されていた。そんなに時間は経っていないにも関わらず、である。
『まっ、でもさー、そん時はそん時でよくね?』
芳子の中で、ぷつんと何かが切れる音がした。
芳子は口元を僅かに歪めて、スマホに文字を打ち込んでいく。トントンと言う音は、今にも濁点がつきそうだ。
『私、今日の午後の講義で、市姫の独身主義をどうにかできないか心理専攻の学生に聞いてみたのです』
『あれ? このパターン、前にもあったような...』
『独身でいたい理由は様々だそうですが、そう思うまでには一定の条件が存在するらしいです。その最たるものは自立性だとか。兄さん、生前は独身貴族になるんだとか豪語してましたよね』
哲男は、家を出てから女性とだらしない関係は作っていたものの、結婚はしていなかった。
ある時、芳子は気になって聞いてみたところ、「俺は、独身貴族を目指す!」といった答えが返ってきていた。
『あのですね、芳子さん、俺まだ生きてる。そしてこれもなんか覚えあるんだけど...』
『家を思いつきで出て以来、全く自分を制御できなかった兄さんにはもってこいですね、今の状況』
『と、言いますと?』
『自立力を養ういい機会ですよね』
『いや、そんな事ないよ。俺は自立できてるよ。あっ、いや、やっぱり無いです、自立力』
『上洛したら、知らせて下さい』
『いやいやいやいや、無理ゲーだよ。どう考えたって無理がある』
『しかし、兄さんが言ったんじゃないですか、私は史実通りに行っていないと役に立たないって』
『い、言ってないです。全くもって言ってない。神に誓って言ってない』
『自分の発言を13個くらい巻き戻して頑張ってください』
芳子は、スマホを白衣の右ポケットに仕舞い込んでレンタルスペースを出る。
研究室に戻る芳子の顔には、不機嫌さを滲ませながら微笑むと言う高等テクニックが張り付いていた。
<途中経過>
日時:西暦2020年 8/18(金) 16:58現在
結果検証:対応できない問題が多発している。
考察:安土桃山時代の織田家家臣に今後は任せるべきではないかと考える。
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