第9話 独身主義

 どうやら、市姫はストライキを起こしたらしい。


『年頃の妹がひきこもりになった時って、兄としてはどう対応するのが正解なの?』


 芳子が朝起きて出勤しようと書斎に置いていたスマホを取りに向かうと、ちょうどバイブレーションが鳴っていた。ロック画面を映すと、そこには着信履歴が嫌というほどに重なっていた。

 右手首に掛かっていた髪ゴムで適当に長い髪を束ね、その手でデスク上のスマホのポップを押した。

 しばらくして、画面が見慣れたメッセージアプリのホーム画面に移行する。芳子は玄関に差し掛かったところでスマホを確認すると、案の定、哲男からの着信だ。

 哲男のアイコンを、鍵をカバンから出す傍らタップすると、内容はまだ市姫を説得できていないと言うものだった。


『何故ひきこもりに?』


 芳子が返信を送ると、すぐに返信があった。


『そりゃあなた、独身主義だからでしょう』

『私の大学の助教授が、大学で心理を専攻していたのですが、その方によると昔に独身が好まれずまた軽視されていたのにはしっかりとした理由があるようです。故に、自然な考えから一生独身はなかなか思いつかないと思います』

『それはもしかしてあれかな? また俺がなんかしたっつう疑いかな?』

『ここまでくれば分かります。特異点ができたときは初めにあなたの行動を検証する必要があると。しかし、これは別です』


 お市は史実でも結婚を拒絶し、一生独身を貫いた。だが、それを貫けた理由には、兄・織田信長が決定的な敗北をしなかった為である。

 ある意味、お市の独身を支えていたのは織田信長と言えるかも知れない。


『ていうかさ、その助教授って藤村さんでしょ? 君ら、工学部じゃありませんでしたっけ』

『私の大学に、成績優秀者なら任意でもう一つ違うジャンルを専攻できる制度があるんです』

『あー、理転したって聞いてビックリしたけど、やっぱり相当頭いいのね』

『人は見た目によらないですよね』

『芳子、それ、本人目の前にして言っちゃダメよ』

『既に言ってます。それで、話が逸れているので戻しますね。市姫が独身でいられたのには、織田信長が勝ち続けている前提が必要なのです』

『まあ、そうなのね?』

『説明が面倒なので省きます。独身のままでいたいと思う心理には様々ありますが、大前提として、自身を守るものとして他人を求めていない事があります』

『ごめん、説明省かれた上に言葉が難しくて頭に入ってこない。もう少し砕けた文章プリーズ』


 芳子の家から大学までは車で20分。一度に並行して動作を行うのが苦手な芳子は、通勤に使う車を自動運転機能が搭載してあるもので選んだ。むしろ、フルオート以外の車はなかなかお目にかからない。カーレースなど、運転することに意味がある時だけだ。

 そんなわけで、地下にある駐車場に着く間も車に乗ってからも、芳子はひたすらマシンガンのように送られてくる哲男からの質問を捌いていた。

 しかし、元来芳子はそれ程親切なタイプではない。気が短いことは、自他共に認めるほどだ。いくら時間があると言っても、質問攻めに芳子は半ば飽きてしまった。


『面倒なので、とりあえず指示に従ってください。市姫が独身を貫いた理由には政略結婚が嫌だと言うものの他に何かあります。聞いてそれを解決してください。以上。今度進展なしに相談してきたら、翌日には兄さんの頭上にコンクリートブロック落とします』


 人差し指を素早く動かして文章を打ち込むと、芳子はスマホの電源をお決まりのように切った。



 8月中旬とはいえ、もうすぐ9月。芳子は院試験関連の仕事と論文が重なり、いつに無く忙しい夏季を過ごした。しかし、9月と言えば、一年に一度巡ってくる、大学教員にとって最も忙しい時期といって過言ではない。理由は、この時期に提出がかかる科研費の申請だ。

 費用の申請書を作るのに何が大変なのか疑問に思うことだろう。だが、大学教員にとっては一大事なのだ。科研費がおちなければ、研究ができない。すなわち、仕事をすることができなくなると言うことだ。その為、大学教員は毎年科研費申請書に並々ならぬ力を入れているのだった。

 芳子は、何事も計画的に行う方で、基本的に期日ギリギリになると言うことはない。早いことに損はないと言う理念のもと、芳子は授業の合間を縫って早くも科研費申請書に着手していた。


 本日最後の講義が終わり、芳子はプロジェクターを片付けていた。

 講義室内は人もまばらで、所々についたままになっているメモリーチップが見える。

 大学の講義は、基本的にタブレット端末で行う。しかし、一部の学生は面倒がってメモリーチップ型通信機に講義内容をノートに纏めるよう指示して寝ている事がある。

 講義中のメモリーチップ型通信機の使用については、講義を行う教員によって制限されたり、されなかったりする。芳子は意外にも後者だった。


「林又先生、昨日の会見観ました。堂々としていてカッコ良かったです」

「有難うございます」


 機材を片付けていると、3人グループの学生が芳子に話しかけてきた。芳子は、いつものように抑揚のない声で応える。

 本日最後の講義は、2年の一般教養の時間だった。そこで、ふと目の前の学生が心理を専攻していたことを名簿を見て思い出す。


「私事で恐縮なのですが、気になっていたことがありまして、心理系なのですが質問してもいいですか」


 ダメ元で尋ねると、学生は快く引き受けた。


「勿論です。私に答えられる範囲だと助かりますが」

「では、自分で自分を養っていける力がないにも関わらず、独身を貫きたい人間の心理とはどう言ったものなのでしょうか」


 学生は、少し考える仕草を見せて、遠慮がちに言葉を発した。


「それは、あり得ないのではないでしょうか? そもそも、人間は群れで生きる生物です。心理として、必ずと言っていいほど集団である認識を求めます。地域コミュニティが存在する点からもそうです。結婚に関しては尚更。独身でいたい理由は様々ですが、そう思うまでには一定の条件が存在します。その最たるものが、先生のおっしった自立性です。それがない状態では、そもそもそんな考えも浮かびにくいと思われます」


 話始めは自信なさげだったが、最後の方になるにつれて言葉は確証を持って紡がれているとわかる話し方になっていた。

 話終わって少し経つと、学生は正気に戻ったようにまたおどおどし始めた。


「すみません。知ってましたよね、こんな知識。聞かれていないのにベラベラ喋ってしまって、すみません」


 芳子には、目の前の学生が何故ここまで恐縮しているのか疑問でならなかった。しかし、感謝こそすれ謝られる理由はないので、芳子は謝り続ける学生を手で制した。


「いや、参考になった。ありがとう」


 芳子は喋っている途中で講義室の入り口に不審者を見つけた。藤村は口角をこれでもかと上げ、自身の指で口角を強調させるジェスチャーをしていた。

 なんとなく意味を察した芳子は、「ありがとう」を言い終わったところで口角を意識して上げた。すると、目の前の学生達は呆気にとられた顔をして、説明をしていた学生の顔からは緊張の色が薄れていた。


 講義室を出ると、先程マスコットのような身振りをしていた藤村が満面の笑みで待ち構えていた。芳子は悪寒を感じ、身を震わせた。


「なんですか、気持ち悪いですよ」


 いつもなら即反論してくるところを、しかし藤村は笑顔のままで口を開いた。


「ふふふ、成長しましたねー」


 薄暗い廊下を、スキップでもするのではないかと言う勢いで藤村は立ち去っていった。




<途中経過>


日時:西暦2020年 8/18(金) 16:43現在


結果検証:特になし。


考察:特になし。

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