第5話 マムシ封じ

 地球は惰性で回っているらしい。そのせいか、季節のずれをよく感じる。自転が微々たるものであっても遅くなり始めている証拠だろう。芳子は壁しかない前方を見て、そんなことを考えていた。

 7月の中旬だと言うのに照りつける日差し、蝉とプール道具を持った小学生はうるさく、道路のいたる所に朝顔がいろどりを添えていた。

 ようやく哲男の葬儀が終わり、芳子は前のような忙しさに追われることは無くなるのだとほっと一息ついた。しかし、一度仕事が終わればそこにあるのは新たな仕事。芳子は、論文に追われていた。


「助教授、資料」

「今藤村が持ってきます」

「分かりました」

「実験結果来ました!」

「そこに置いておいてください」


 通常、6・7月は大学教員が一番時間のある時期である。理由ば簡単、大きな業務がないからだ。だが、工学部の、芳子の研究室に限っては、今年は例外のようだ。

 Lutricの開発にあたり、大学の行事の関係で企業側への論文提出を先送りにしていた芳子は、藤村のさり気ない気遣いのお陰ですっかりその存在を忘れていた。

 芳子が身内に不幸があったことを考慮して、藤村は暫く論文についての催促はしないようにしていた。そのせいで、藤村までも忘れていたのだ、大きな論文というノルマの存在を。

 右ポケットに僅かな振動を感知し、芳子は周りにわからないようにため息をついた。デスクの下でスマホに電源を入れ、メッセージアプリを開く。


『濃姫さんのお父さんの件、どうなってる? そろそろ直接対決なんだけど』

『その件なら、そう言えば最近母から連絡が来たのですが』

『おう、突然なんの脈絡もない話が来たな』

『脈絡はあるので最後まで聞いてください』

『すみません。どうぞ続けてくだされ』

『母が話していると、どうにも反論する気が削がれるのですが、何故なのかずっと考えていたのです。唐突に思いついたのですが、ようは物理的に相手に時間を与えなければいいと言うことです』

『というと?』


 手元が暗い中で文字を打ち続けていると、必然と前傾姿勢になる。資料を取って戻ってきた藤村が不審に思い、猫背の芳子に話しかける。


「先生、腰でも悪いんですか?」


 メッセージを打つことに集中していた芳子は、藤村の唐突な問いかけに肩をびくりと吊り上げた。芳子は藤村の行動パターンを考え、咄嗟にスマホを自分の足の間に挟み込んだ。


「いえ、そんなことは...」

「あ、先生、今何か隠しましたね」


 藤村は案外と目聡かった。事情が事情だけに説明が難しいので、芳子はできればバレるのは避けたいと思っていた。なんとか誤魔化そうとノープランのまま口を開きかけた。しかし、芳子が喋るよりも早く、藤村の口が開いた。


「さては、激務に追われ過ぎて寝てましたね。確かに、いつもなら休める時期ですものね。この度の事は、私のスケジュール管理ミスですし、いつもはクールな先生がイライラしてストレスも相当溜まっているでしょうし、今日は帰って大丈夫ですよ」

「では、お言葉に甘えます」


 芳子はいつが早いか荷物を手に取り、研究室のドアに向かう。


「遠慮はしないんですね」


 藤村の呟きは聞かなかったことにして、芳子は颯爽と研究室を出た。スマホは、いつの間にか芳子がカバンに入れていた。


 芳子が一人暮らしをしているマンションに着き、鞄を漁って鍵を取り出そうとしていると、探す手にひんやりとした手のひらサイズのデバイスがあたった。芳子はこの時帰路についてから初めて哲男とのやりとりが途中であったことに気がついた。

 ひとまず鍵を開けて部屋の中に入り、リビングにあるソファーにカバンにと自身を預けた。

 急いでスマホのロック画面を表示すると、既におびただしい数の着信があった。最新のものでは、こういった感じだ。


『え、俺マジで何もしてないよね』

『忙しい時期だったの?』

『とにかくよくわかんないけど悪かった! 許してください!』


 芳子としては、なんだかよく分かっていないにも関わらずとにかく謝ると言う行為に物申したいとことではあるが、そんなことを言っている場合ではないことは、重々理解している。

 兎にも角にも、斎藤道三に哲男が殺されては元も子もない。先ほど言い残したことを伝えるため、状況把握も兼ねて哲男に現状の説明を頼んだ。

 芳子の思った以上に、時間は差し迫っていた。


『そう言うわけで、もう行進中なの、斉藤さんのところに! やばくね、ピンチくね? もうどうすればいいのさ。母さんの話、結局何だったの?』


 あそこまでいえば、いくら哲男でも理解できるかもしれないと淡い期待を抱いていた芳子の願望は、あっけなく打ち砕かれた。

 仕方なく、芳子は先程のメッセージを噛み砕いて説明する。


『兄さんは、外面を取り繕うのがお得意ですよね』

『まあ、はい。ソウデスネ』

『とにかく立派なことを豪快かつ真摯に語り続けてください。終始友好的な態度で、美濃の民衆にも親しみやすいよう格好で、砕けた感じでかつ誠実感を全力で醸し出して、美濃のマムシに話す機会を与えずに喋りきってください。ただし、話を遮るのはダメです。先手必勝、挨拶が終わったらすぐに思想でも愛でもいいので語ってください』

『まあ、よく分かんないけど、なんか親しみやすい態度で仲良くしてこいって感じね』


 「了」というスタンプが送られてくるのと共に哲男からの通信は途絶えた。

 芳子は、不安でしかなかった。



『うまくいったよ、さっすが我が妹。素晴らしいブレーンだ』


 哲男の報告によると、斎藤道三は聞いていたほど気難しいタイプの人間ではなかったらしい。哲男(信長)はいたく気に入られたようで、離縁の話どころか同盟の重要性を確かめ合い、婿殿とさえ呼ばれるようになったと言う。史実とかなり異なったことが起こっている。明らかに、芳子の指示を受けて起こった変化ではない。

 具体的に何をしたのか、芳子が哲男に聞くと、予想だにしない答えが返ってきた。


『ああ、まあ取り敢えず、着物が硬っ苦しいな〜って前々から思ってたから、そこから崩してったね。親しみやすいように。あと、俺そんなに豪快さはないから、城にあった鉄砲を、大体500くらい一緒に行進してる人たちに持たせて一緒に歩いてもらった。会談自体は言われた通り、濃姫さんへの、て言うよりは芳子への愛を語って、その次にこれからの世の中をどうすべきか、みたいな事を指示通り永遠と話し続けたよ。流石に喉がカラカラになってきたから辞めていいかな?って思って話を締め括って斉藤さんの方見たら、いきなり笑い出してさ。気に入ったってさ』


(合ってるけど、なんか違う)


 芳子のアドバイスは、完全に哲男のフィルターによって違うものになっていた。



 所変わってあった桃山時代、哲男が斎藤道三と会談して暫く、こんな噂が流れ始めたそうだ。

「織田信長は、相当なうつけものである」

 と。また、斎藤道三のお膝元では、また別な一風変わった噂が流れていた。

「斎藤道三が、自分の息子達はあとうつけものに負けるだろう、と口にした」

 と。




<途中経過>


日時:西暦2020年 7月16日(金) 16:58現在


結果検証:史実に若干の狂いを引き起こした模様。


考察:実世界への影響が懸念される。対象をコントロールするにし切れていない事が原因と思われる。

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