第4話 信長公記 備考:重大ニュース(衝撃の事実)

 大学のライブラリは、人がまばらだった。静まり返るホール内を、低いヒールの音が響き渡る。芳子のシミ一つない白衣に同化する程白い肌は、しかし、美白というよりは青白いという表現が正しい。無表情に人を寄せ付けない雰囲気で、歩く姿までもが周囲の学生や職員を委縮させる。顔立ちは派手ではないが、化粧していないからこそ引き立つ地の顔の良さ、だがその顔から一切の感情は見えない。研究者らしい過労の証である隈だけが唯一の緩衝材だ。

 芳子は奥へ奥へと進み、最奥から二つ手前のコーナーでヒールの音が止む。棚の側面には「歴史」と印字されたプラスチックの小さな看板が張り付けられていた。棚に挟まれた通路に足を進めると、視界がどんどん暗くなっていく。空間内に埃が充満して、芳子は思わずせき込んだ。

 埃で先が見えない中を進み、安土桃山時代の「本」が置いてある棚の前で立ち止まる。埃をかぶった「本」の背表紙をなぞり、見えにくい文字を何とか読もうと試みる。4冊目に差し掛かったところで目当ての本を見つけ、辞書のように厚い煤けた濃い緑の歴史書を手に取る。


「信長公記…、これか」


 人気のない空間にぼそりとつぶやきが漏れる。手に取った本を脇に抱え、これ以上埃を巻き上げないように慎重に歩みを進める。本棚の間を抜けたところで、芳子は白衣の埃を適当に払い、再びコツコツという音を立てて歩き出した。

 信長公記とは太田牛一という織田家家臣の一人によって書き記された、いわば織田信長の一代記だ。太田牛一は織田信長の活躍に憧れて織田家の家臣となり、政治を担当する傍ら、信長公記を執筆していた。現代社会において、紙媒体の本というのはなかなか珍しい。貴重だというのもあるが、情報を書き記すのに特に紙である必要がないことが大きな理由だ。したがって、紙の本はめったに見かけることもなく、かつ使わない。

 ついでに言うならば、信長公記は「のぶながこうき」ではなく、「しんちょうこうき」と読む。


 研究室に戻ると、いつの間にかいなくなっていた研究者達は戻って、多少の賑わいを取り戻していた。芳子がドアを開けて中に入ると藤村がこちらをすごい勢いで振り向いた。


「先生、待ってましたよ。もう、ご機嫌が悪そうだったので一時退避しましたが、確認事項が山ほどあったんですよ。機嫌は…治まったようですね、安心しました」


 藤村は安堵の表情を浮かべた。心なしか研究室全員の顔も、まるで地獄から一転天国に召されたかのような安心しきった表情だった。

 この短時間で彼・彼女等に何があったのかなんとなく気になった芳子は、デスクについて話し始めた藤村を遮り理由を尋ねた。


「何かあったんですか? 皆さん、ばかっぽい、いえ呆けた顔をしてらっしゃるように見えるのですが」

「訂正したということはまだ多少の優しさが残っているということで、そこに関しては安心すべきでしょうか。しかし、言い直したにもかかわらず与えるダメージに変わりがないように思えるのですが」

「訂正しようとしただけでも進歩したほうだと思いましょう、林又先生の社交性の低さは大学中に知れ渡っているほどですから。私自身、気にならなくなってきました」


 藤村とは別の助教授の言葉に、研究室にいる職員のほとんどが小さくうなずく。芳子が怪訝な顔をしているのにいち早く気づき、助教授の一人が口を開く。


「そんなことより質問の答えを、と言いたそうな感じですよ。藤村さん」

「ああ、そういえば質問なさってましたね。すみません脱線して。そうですね、先生の異常に悪い機嫌が少し回復したからでしょうか」


 頭の上に疑問符が浮かびそうな顔をしている芳子に、藤村が話を続ける。


「何があったか知りませんけど、いきなりイライラし始めたじゃないですか。もう、息がしずらいったらなかったんですよ。空気が重くなって、パウリ効果並みの異常現象ですよ。胃がキリキリ痛みまして医務室に胃薬を求める患者が殺到しました。かくいう私も。実験器具は割ってもいいですけど、空気は壊さないでください」


 藤村は腰に手を当て、子供を叱るように芳子を窘める。


「それはすみません。自覚がありませんでした、と言っても言い訳にしかなりませんが、以後気を付けます」


 藤村が話している途中に話の大筋を理解した芳子は、藤村が話し終える頃合いを見計らって、デスクに体を向け論文を書き始めたところで手短に謝罪の言葉を述べた。

 しばらく藤村が背後で頬を膨らませていたが、少しして諦念のため息をつき、自分のデスクに戻っていった。

 静けさの戻った研究室で、カタカタとボードを叩く音をBGMに芳子は哲男とのやり取りの続きを思い出す。


『あのー、そのね、奥さんがいるんですよ俺』

『濃姫ですね』

『なんで知ってんの?!』


 通知を知らせる音の代わりに、バイブレーションが手元をしきりに揺らす。


『一般常識の範囲です』

『うそ、俺知らなかったんだけど』

『…日本史、選択してましたよね?』


 芳子は高校が理系選択で、選択教科は理科が物理と科学、社会が地理と現代社会だ。対して哲男は文系、選択教科は理科が基礎科学、社会が日本史だった。芳子は当然のように思えるかもしれないが、日本では文転や理転は比較的しやすい教育制度になっている。そうでなくとも、現在の学問は要素還元主義から全体論への移行が完了し、簡単に言えば専門家よりすべてを把握し対応できるオールラウンダーへの需要が高まったことにより文系と理系を明確に隔てる壁は既に壊されていた。そのため、工学部の教授クラスであっても高校が文系クラスでだったという人は少なくない。かくいう芳子の上司がそうだ。

 それはそうと、文系が日本史をやっていないなどということはないはずだ。いくら哲男が高校時点でぐれていたとしても。


『やった、やったけど、みんなそんなもんじゃねえの?』

『想像以上に馬鹿になりましたね、兄さん』

『それな、自分でも感じてた』


 グダグダと雑談が続きそうな気配を感じて、芳子は哲男に本題を促した。


『それで、とても不本意ですが私はあなたの恋バナなるものを聞かなければならないんですよね? 大方濃姫に惚れたんでしょう。とっとと話してさっさと振られてください』


 送信してから少し巡考し、続けて新たなメッセージを打ち込んだ。


『いえ、やはりうまくいったほうがいいかもしれません』

『あれ、珍しい。芳子が優しい』


 メッセージとともに「お兄ちゃんうれしい!」と書いてある吹き出しマークでハートを抱きしめて身もだえるクマのスタンプが送られてきた。

 芳子は明確に舌打ちをし、その音は思いのほか室内に響いていた。ちなみに、この時点ですでにほとんどの職員がストレスの限界を迎え、ひっそりと研究室から脱走していた。


『そういうことにしておいてください。それで、時期的に斎藤道三の件ですね?』

『ピンポーン』

『手っ取り早く、子供作ったらどうですか?』

『へ?!』

『いつの時代も、孫は可愛いものだと思いますし。いざというときに人質になりますし』


 哲男の反感を買いそうなことを送っている自覚はあるが、この方法が一番適切で面倒が起こらない方法なのだ。誰にとっても。

 しかし芳子の予想は外れ、哲男の返答は意外なものだった。


『ん? もう一人作れってこと?』

『手を出すのが早いですね』

『違う! 誤解だ。じゃなくて、俺がこっちに来る前にもうすでにいたの。ホントの話』


 芳子が知っている織田信長の子孫は濃姫と子供ではなかった。ということは、歴史書に記されていない子孫がいたということになる。

 芳子が感心しているうちに、また新たにメッセージが送られてきた。


『ていうか、濃姫さんには申し訳ないけど、ちょっと濃姫さんに恋愛感情は無理かなっと』


 芳子は哲男のことを女ならだれでも恋愛感情を持てる正真正銘のチャラ男だと認識していたため、この言葉には目を瞠った。


『そんなにタイプじゃなかったんですか?』


 まあ、昔の美意識と今のそれは全く違うと聞いたことがあったので、それもそうかもと芳子は一人で納得した。しかし、これも違った。


『違う違う、濃姫さんフツーに美人だよ。欲を言えばもう少しグラマスなほうが…。いやともかく、そこが問題じゃないんだよ』

『濃姫が運命の人だったって話では?』

『そうなんだけどそうではないというか、なんというか、その』

『面倒になったので電源切っていいですか?』

『わかった! 話す、話しますからそれだけは止めて』


 話を異常に引っ張る哲男に、またしても苛立ちを隠さず研究室に放出した芳子は、最後の砦であった藤村もこの時点で医務室送りにしていた。


『クリソツなの』

『は?』


 ここで、芳子の頭には二つの疑問が浮上していた。そもそも「クリソツ」とはどういう意味なのか。そして、それがなぜ恋愛対象に入らない云々に関係するのか。それらの疑問は、次の哲男からのメッセージですべて解消された。


『濃姫さん、めっっっちゃくちゃ芳子に激似なの』

『でしょうね。あと、とてもという意味を表す言葉が重複してます。どっちかにしてください』

『えっ!? 反応うっす』


 濃姫と芳子の容姿が少なからず似ていることを、芳子は知っていたわけではない。しかし、織田信長に濃姫との子供がいたと聞いた時から予想はしていたのだった。なぜならば、


『まさか知らないわけではないですよね? 家、つまり林又家は、織田家の子孫にあたるってこと』

『いや、初耳だよ!』


 この後、哲男が終始興奮気味にメッセージを送り続けてきたので、芳子は断ることなくスマホの電源を落とした。ブロックすることは、断腸の思いで踏みとどまったようだ。


 こういう経緯で、芳子は斎藤道三について調べる運びとなったのであった。


 哲男が生家がどこの流れを汲んでいるか知らなかったのには、おそらく忘れた以前に理由がある。芳子も今しがた気付いて信憑性がはっきりしたところであったが、おそらく、林又家のルーツはなぜか歴史書に乗らなかった織田信長の第一子だろう。

 林又家には、代々受け継がれている家宝がある。それが、林又家を織田家の子孫と証明する唯一の証拠であった。実物を見たことはないが、そこにはしっかりと織田家の家紋が刻されているらしい。証拠となるものがそれしか見当たらなかったため、哲男は当時その話をされていたとしてもそれほど信じてはいなかったのであろう。


(これは、期待以上のが得られそうだ)


 デスクの傍らに置いていた、古ぼけた信長公記の表紙をひと撫でし、芳子は口元をほころばせた。

 外は6月にしては珍しく、昼頃まで容赦なく降っていた雨脚を押しのけて、気持ちよく晴れ渡っていた。




<途中経過>


日時:西暦2020年 6/18(木)


結果検証:18日目。実験の進捗に問題はない。織田信長と濃姫の子がいたことが判明。また、今までの時間経過から、当該時間より安土桃山時代の時間の流れのほうが早く進んでいると考えられる。


考察:現在明かされている以外にも、織田信長の血筋が存在する可能性が浮上。時間に関しては、考えていたより短いスパンで実験を終えられると考えられる。

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