第3話 姑問題とヒステリック 備考:やっとコメディー?

 織田信長は、権力を持つ者としては珍しく欲の薄い人だった。生まれつき体が弱かったことも幸いし、聖君と言われるほどにその生涯を清く正しく生き抜いた。

 そんな生涯の中で、唯一の女性トラブルと言えば、通称美濃のマムシ(毒蛇)こと斎藤道三の娘・濃姫との離縁騒動であった。

 世は戦国時代、各地の大名が覇権争いに躍起になっている中で、当然欲や豪気が良しとされていた。当時覇王の呼び声高かった今川義元を破ったことで、一躍覇権争いの有望株にその名を連ねることとなったのだが、注目を集めたことでさらに織田信長という人間を知らしめることとなってしまった。気が弱く、軟弱で、周りに流されてばかりいるという噂はたちまち美濃(現在の岐阜県)にも届いた。

 斎藤道三は自分の子供たちの中でも特に濃姫を可愛がっており、噂の真偽を確かめるために織田信長を呼びつけるが、終始頼りない様子で家臣に頼り切っている姿に幻滅した斎藤道三は、濃姫と織田信長の離縁を申し入れ、同盟の解消も宣告してきた。

 大活躍から一転、またもやピンチに陥った織田信長は、仲がこじれているとひそかに噂にあった斎藤道三の息子・斎藤義龍とひそかに通じ、斎藤家を内部から崩壊させた。その後、斎藤義龍と織田家家臣の中で軋轢ができ、決裂。結果として、美濃の斎藤家を乗っ取った形になった。


― 某日本史解説書より ―



 ピコンッと音が鳴って、哲男からのメッセージ受信を知らせる。毎度のことだが、哲男からのSOSだった。もう見慣れたこのパターンに、芳子の体もすっかり順応してしまい、考える前に手がキーボードに向かう。いざデスクに向き合ってボードに手をセットしてからスマホを覗き込んだ。ポップには「大事件!」としか映っていなかったので、詳細が気になる。重大事件があっては困る。音声認識でメッセージアプリを開いたところで、芳子は思わず唖然とした。


『大事件!

 妹よ、お兄ちゃんはついに運命の人に出会

 ったぞ』


「あ゛?」


 芳子は、思わずといったように腹の底から声を発した。次の瞬間、視線がこちらに向くのを察知して、芳子は咄嗟にスマホを引き出しに投げ入れる。


「じゅ、准教授。どうか、されました?」


 常では言うことが憚れるようなこともはきはきと容赦なく言い放つ藤村が、珍しく機嫌をうかがうような態度を見せてきた。こういうのもいいかもしれないと思った芳子は、しかし、研究室全体の視線を集めていることに気付き一つ咳払いをした。


「何でもありません。私事ですのでお気になさらず」


 デスクに向き直り、穴を空ける勢いで向けられる視線を背後に感じながら、目の前のディスプレイに意識を集中して10割増しのスピードでボードを叩く。

 しばらくすると、そわそわしたような視線もなくなり、いつも通りのカタカタという音だけが室内に充満する。

 芳子は、静かにメインデスクの引き出しからスマホを取り出す。


『キャパオーバーでおかしくでもなりました

 か?』


 芳子がスマホをリアクトに繋げ返事を送信すると、すぐさま新着のメッセージが届いた。


『ひどくね』

『芳子さん、なんか最近お兄ちゃんへの態度が雑になってませんか?いや、もう完全面倒臭がってるでしょ。ホントもう、ひしひしと感じる』

『最初はさ、色々心配して聞いてくれてさ、気にかけてくれてるって感じて嬉しかったのに』

『芳子ちゃん冷たい!』


 ピコンッという音が、立て続けに鳴り響く。よしこの眉間には、更に皺が寄る。


『辞めていい?』


 芳子の指によって、ボードが普通にはない音を立てる。先ほどからため息の数が増えた芳子を、同じ研究室で作業をする研究員は固唾を飲んで見守る。彼らには、芳子のこめかみに青筋でも見えるらしい。


『ついに抜いたな、伝家の宝刀。ずるいぞーそういうの』


 藤村は予算関係の書類を芳子に出そうと暫く芳子の背後をうろうろしていたが、終いには諦めて研究室に唯一ある窓から晴れ渡った空を眺めていた。そんなことをついぞ知らない芳子は、ボードを叩くだけでは飽き足らず、デスクに人差し指を向けて、トントントンと一定のリズムを刻み始める。


『そういう物言い、やめてもらっていいですか。何歳だと思ってるんですか。そういう態度を巷ではうざいと言うらしいです。そろそろ精神年齢と実年齢が伴わないと痛い人になりますよ。重大事件だと聞かされて真剣に聞こうと思った私の気持ちを考えてください。何馬鹿なこと言ってるんですか。私は今まであなたの交際相手について何か言ったことがありますか?私との連絡は助けが必要な時だけにしてくださいと再三申し上げているのですが。とにかく、その話をこれ以上発展させるなら、それ相応の対応を取らせていただきます』

『相応の対応、とは?』

『個人識別番号の再発行をしてきます』

『すいませんでした!!!』


 哲男の次のメッセージには、土下座マークがこれでもかというほどに付けられていた。芳子の溜飲も少しは下がったようで、険しかった表情が徐々にではあるが緩和してきている。


 情報社会であるこの世の中で、個人識別番号はかなりの重要度を占める。戸籍の管理はもちろん所属や保険、資格に至るまですべてのものを保障する材料になる。大まかに言えばその人が生きる権利全般を証明するものだ。もちろんメモリーチップなどの通信機器も例外ではなく、個人識別番号がその人はその人たらしめるものとなる。つまり個人識別番号が変わった場合、相手から知らされることがない限りはその相手とは永久に連絡が取れないことになる。今芳子が個人識別番号を変えてなおかつ教えることがなければ、哲男は二度と芳子と連絡をとることができなくなるのだ。


『だってさ、芳子、今川さんの時適当だったしさ。確かに俺の妹は優秀だから、まあ適当に考えたところで、結局は勝てるんでしょうけど。けど!俺、下手したら死ぬ所だったんだよ』

『それに関しては既に謝ったじゃないですか』

『そうだけどさぁ、なんていうかさぁ、冷たくない?俺割と災難な目に合いまくってると思うんだけど、それに関する哀れみの気持ちはないの?』


 一時は止んだデスクを指で叩く仕草が、再開した上にスピードが速くなった。芳子が返信を打ち込んでいるうちに、また新たなメッセージが届く。


『てゆうわけで、たまにはお兄さんの恋バナなんて聞いて差し上げてもいいのでは?』


 芳子は小さく舌を口内に打ちつけた。



検索アプリを手早く起動させて、右端に虫眼鏡のシルエットがある箱の中に、「織田信長 斎藤道三との仲違い 経緯」と単語を簡潔に打ち込み、虫眼鏡の部分を矢印を操作して照準を合わせクリックしようとする。


「はあ」


 芳子は、エンターキーの上に添えてあった手をキーから退け、ため息を一つついた。芳子一人が使うには少し広いと思われる室内には、かすかなため息が響いている。椅子を回し、視界からリアクトを外し、クッション性のいいデスクチェアに体を預ける。天井をむきながら眉間の間をしばらくもんでいた芳子は、何かを思いついたように跳ね上がるようにして椅子を降りた。


「ライブラリに行こう」


 誰もいない研究室で決心するように小さくつぶやき、スマホを放り出して研究室を出ようとした。

 ピーッピーッピーッ

 研究室のドアの前に立ってセンサフュージョンの認証を待っていたところで、白衣のポケットの中から音が鳴り始めた。鳴っていたのは芳子の発明した最新型メモリーチップで、現在世に出回っているメモリーチップのほとんどは、これの原型にあたるもので教授と芳子を含めた准教授数名によって開発されたものだ。芳子が使っているものはテスト段階に入り、もうすぐ商品化される予定の最新のもの。しかも、これは紛れもなく芳子が主体となって開発したもので、名前も芳子がつけた。とはいうものの、実際には面倒だった芳子が「MANPOWER」とつけようとして藤村を始めとする職員とスポンサーから「ド直球すぎる」とのご指摘を受け、結局藤村のアイディアが採用され「Lutric」となった。このLutricは適応力に長け、所有者の状況を睡眠時間や質、摂った食事や予定などから正確に把握し、着信時の通知をTPOを考えて行わない、所有者の読書履歴やインターネットの閲覧履歴から必要な情報を割り出しトップ画面に表示するなどの、所謂「空気の読める」メモリーチップなのだ。

 そんなLutricが疲れを見せる芳子に割と大音量で通知してきたことはすなわち、かなり重要度が高い連絡だということを示す。Lutricの中央をタップして、浮かび上がった名前はというと芳子の母からだった。


「はい、どうかしました」


 デスクに戻って研究室のデスクチェアに腰を掛け、緩慢な動きで空中にある通話ボタンに手をかざす。


「どうもしてはいないわ。ただ、今どうしてるかなって思ってねえ。研究、うまくいってるのかしら」


 電話口の穏やかな声に、芳子は不愛想に返す。


「はい。で、何か用ですか」

「用がなきゃ電話しちゃダメなのかしら。とはいっても、今日はちゃんと用事があるのだけどね。あなたが一年に一回でもこっちに来てくれれば、電話なんてしないわよ」


 芳子の母は旧家のお嬢様で基本的におっとりしているため、話していると時間の経過を把握し損ねる。


「しかしねぇ、なぜ六十過ぎても娘の生存確認をしなければならないのか、普通逆じゃないかしら」

「それが用ですか? なら忙しいから切っていいでしょうか」


 お小言の予感がして、思わずため息が出る。しばらくして芳子は自分がため息をついたことに気づいて、母がさっきから無言の理由を理解した。ああ、これは久しぶりに来るな、と芳子が思った矢先のことだ。


「あなた、人と話している最中にため息をつくとは何事です、みっともない。林又家の恥になるでしょう。はあ、所詮哲男と変らないのかしら。もう、あの男と小さいころから一緒だったから悪影響を受けたのね。せっかく芳子は哲男のように道を外れないで立派な大学に入って研究者になったっていうのに。死んでからも芳子に悪いことをさせるなんて、害虫以外の何物でもない。もっと早くに追い出しておくべきだったんだわ。小学生の頃にゲームなんてものにはまりだした時点で排除しておくべきだった。高校に入ってすぐにいきなりいうことを聞かなくなったかと思えば、高校にもまともに通わないなんて。おまけに髪の色を変え始めて前髪も下ろして着る服も奇抜なものばかり、頭が悪い人たちの典型じゃないの。そんなはしたない格好で、林又の名前で入った高校に通うなんて、許されるはずがない。身内に申し訳が立たないから、仕方なく退学させて部屋に閉じ込めておいたっていうのに、あの男は脱走したのよ。ちゃんと更生できるように、精神科のお医者様をおうちにお呼びしたところだったのに。先生にご足労までかけたのに、部屋にいないのよ。まったく、最初から病院に入院させるべきだったのよ。わたくし、あの人に申し上げたのに、あの人ったら世間体が悪いなんておっしゃって、わたくしの提案をお認めにならなかったの。でも、結局わたくしの方が正しかったのよ。あなたの兄が社会に貢献できないようなものになったらあなたの将来にも影響すると思って、やはり最初から入院させるべきだったのよ。わたくしの言葉に従っていれば哲男も言うことを聞くいい子に戻って、貴女がため息なんてはしたないことをすることはなかったんだわ。ごめんなさい芳子、お母様は必死に頑張ったのよ。でも、どうしようもなかったのよ。あの人は息子や娘の未来より世間体なんて気にするんですよ、哲男にも使いをやって説得したのに全く話を聞こうとしなかったらしいの。だからもうお母様は困ってしまって、分かるでしょ。もうこうなったら縁を切るしかないと思って、戸籍から除外する手続きをしようとしたらあの人に止められて、メモリーチップが送られてきて、そこには法律なんてものが書いてあったのよ。実子を戸籍から除外してはいけない法律がずいぶん前からあったんですって。どこの家の総理大臣がそんなこと許したのか、本当に考えなしで愚かな行動だわ。それにしたってあの人、法律を破っても隠蔽すればいいだけの話を、今は情報技術が進化して悪事が隠蔽できないシステムになっているから駄目だなんておっしゃるの。やだわ、戸籍から排除することが悪事なんておっしゃるの、おかしいわよね。だからもうどうすることもできなくて、だからあの男が死んだって聞いてほっとしてたのに、芳子まで悪い子になってしまうなんて。安心して、すぐに入院しましょうね。ちゃんと治しましょう。大学のお仕事は、お休みのお電話を入れなければね。善は急げだわ、今すぐにでも…」


 鼓膜が破れそうな、かつ聞こえるぎりぎりで間違えばモスキート音にでもなりそうなキーキー声が、延々と言葉を紡ぐ。Lutricは音量の調整機能があるはずなのに、対応できていないようだ。これは改善点に入れておくべきだな、と芳子は頭の中のto doリストに新たに書き入れる。その間にも、一度始まった芳子の母親のヒステリックはなかなか終わりが見えない。


「落ち着いてください、お母様。最近、研究が立て込んでいて疲れすぎてしまったのです。それに、あの男のこともあって仕事がしずらくなっているのです。とは言え、通話中にため息は失礼な態度でした。申し訳ありません」


 芳子は感情の読み取れない声で抑揚なく母を諫める。Lutricからは母の興奮した声が途切れ、切れた息がぜーぜーと聞こえる。


「ごめんなさい。そうよね、焦りすぎてしまったわ。そうよ、哲男の葬儀も芳子ちゃんが取り仕切ってるんですもの、疲れるわよね。忙しいときにごめんなさい」


 吹き消されたろうそくのように勢いは止み、一転芳子の母は大人しくなった。


「お邪魔しては悪いもの、今日はもう切るわね。お仕事頑張って」


 芳子の母はすっかり落ち着きを取り戻し、最後にはお嬢様らしいおっとりした話し方に戻った。

 静かになった研究室で、また一つため息をついて、芳子は大学のライブラリに向かった。




<途中経過>


日時:2020年 6月18日(木) 13:25分現在


結果検証:特になし。


考察:特になし。

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