第2話 研究室 備考:続・シリアス展開。

 数ある出来事の中で、織田信長が最初に世に名前を知らしめることになったのは、かの有名な桶狭間の戦いである。1560年5月、大きな勢力を持っていた今川義元が尾張の地を狙い進軍してきた。

 軍事力はもちろん、ほとんどの側面で劣っていた尾張に勝機はないと思われた。

 しかし西暦1560年5月19日、尾張の国知多郡桶狭間、現在の愛知県で織田信長は下克上を達成する。この時、織田信長は27歳。織田軍4000人に対して、今川軍25000人の大逆境の中、みごと織田軍が勝利をつかんだ。その裏には、もちろん織田信長の家臣集の影があった。

 まず、織田軍は今川軍からの密偵を疑い、古くからの家臣集が怪しい者たちをふるいにかけた。偽の密通を送ることで今川軍を混乱させ、さらに密偵の信用を落とす狙いは完璧な形で成功した。

 次に、斥候を使うなどして兵力を徐々にそいでいき、ついに桶狭間で油断している今川軍に奇襲を仕掛けた。当日は、天気にも恵まれ、まさに織田信長の勝利は天にも裏付けられていたものだった。

― 某日本史解説書より ―

 

 カタカタカタという音をかき消すほどの腹の虫の悲鳴に、芳子は数時間ぶりに顔を上げた。ディスプレイの右端を見ると、夕方の五時を少し回ったところだった。


「あ、昼」


 芳子はしまったという風に声を発し、椅子にのしかかってしばらく巡考した。すこしして、デスクの引き出しから角砂糖を一つ取り出し口に放り、またキーボードをたたき始めた。その時、芳子の明るかった手元に影が落ちた。


「先生、角砂糖は昼食ではないって、私、もう394回ほど申し上げましたよね」


 芳子が手を止めて見上げると、肌つやの良い少しぽっちゃり体系の女性が笑顔で見下ろしていた。芳子は、目に見えて面倒そうな顔を作った。


「助教授、手元が暗くなるのでそこに立たないでください。あと、393回目です」


 芳子が女性のいる方向に体を向けて注意すると、女性はさらに笑みを深めてぽってりとした頬に右手を添えていった。


「今回を入れて394回目ですよ。では、ここをどきますので先生はいい加減私の名前を憶えてください。付け加えて申しますと、食事はきっちりとってください」

「意義を感じません。よって却下します」


 芳子の返答に、目の前の女性、助教授の藤村はわずかに眉間にしわを寄せた。


「私の名前に関してはもう諦めてますのでいいですが、食事はしっかり摂るべきです。作業効率の面からも、メンタル的な意味からも」


 藤村は、最近結婚して子供ができたそうで、こういうことにやたらうるさくなった。芽生えた母性は、芳子も対象外ではないらしい。


「必要ありません。あなたもわかっているでしょう」


 ちょうど今から一年前、「リーン」という栄養補助食品、もとい、食品がアメリカの大型食品メーカーによって開発された。液体のそれは、食事の概念を脅かすものだった。一日五百ミリリットル飲めばその日に必要な栄養分をすべて補ってくれる。味も全五十種類と豊富だ。発売当時、「煩わしい時間からの解放。食事時間に改革を」というキャッチフレーズで大々的に売り出していた。しかし、リーンに製作者が見込むほどの人気は出なかった。日本固有の古きを重んじ、人のかかわりを大事にする精神を、海外の企業側が理解できていなかったのだろう。よって、その需要は、主に日々多忙を極める研究職に偏った。芳子はリーンの数少ない愛用者の一人だった。つまり、リーンを飲んでいる限り芳子に食事をとる必要はない。


「リーンを飲んでいるのは承知していますが、それでも、栄養分を摂取する過程で栄養価をおいしさにして、人間は幸福感を得ているのですよ。一説には、食事の楽しみを失うと結果として自殺を誘発するなんて論文もあるくらいです。そろそろ、食事にシフトしませんか」


 藤村は、幼子を諭すような口ぶりで、細い糸目をさらに細めた。

 リーンはあまりよく思われていない。味が平均的においしくないことが理由の多くとして挙げられるが、もう一つの要因として欲求を満たす機能が備わっていないことがある。リーンの本質としては、正確には、栄養分を補うのではなく必要な元素を体に摂取させるというほうが正しい。通称飲む注射。もちろん、蔑む意味で使用されている。一般大衆の主張は、「リーンは食品ではなく化学薬品だ」というものだ。

 芳子は、表面上ちゃんと話を聞いているように見せ、このまま話を聞いているのとコンビニで適当に食品を買ってくるのではどちらが早いかを計算する。


(助教授のお小言は基本的に長い。産休明けからは特にそうだった。今年に入ってからお小言は6回目。

 1回目が今回と同じく食事関連で62分。

 2回目と3回目は経費の予算案の催促と期限が遅れたことでそれぞれ13分と45分。

 4回目はメモリーチップの整理整頓をしていなかったことで36分。

 5回目は糖分の過剰摂取による血糖スパイクで具合を悪くした上にそのまま仕事を続行して自宅で倒れたことで78分。

 すべてを平均すれば46.8分、大まかに食事のことについてのお小言をくくると二回のデータしかないが平均値は70分。可能性として46分以上、70分間前後になることが考えられる。

 それに比べて食料を買ってくる最短ルートは、この大学の地下11階にあるコンビニエンスストアに行くか大学の敷地内にあるスーパーマーケットに足を運ぶかだ。通常時ならば研究室が9階にあるので外に出たほうが早いのだが…)


 芳子は藤村がしゃべっているのをよそに、藤村に気付かれないように視線だけ窓に向ける。あいにくと、雨は容赦なく窓を叩きつけている。


(晴天時であれば、地下のコンビニに人が集中する。エレベーターが各駅停車のように止まり続けるので結果的に時間が遅くなる。しかし、雨天時はそうではないらしく、災害時用に地上の音が地下まで響くような設計がなされている大学内は、雨天時に特に地下がうるさい。鼓膜を破るような騒音ではないが、ある一定の音量で雨が吹き付ける音がするので、こういう日に人はほとんど近寄らない。よって、直線距離では最短の地下のコンビニエンスストアのほうが時間を要さない。

 9階から地下11階まで降りるのに約10秒、エレベーターホールからコンビニエンスストアまでは90秒程度、合計して約100秒だ。

 総じて、このまま助教授に自説を論ずるより、彼女の言葉に素直に従ったほうが早い)


芳子は、この場は折れることが最善という結論に達した。

意識を藤村に向け直し、口を開く。


「いわれてみればそうですね。では、適当に下で買ってくるので、いい加減そこをどけてください」


 芳子は読み慣れないセリフを読むような口調で話を切り、足早に研究室の出口に向かう。藤村は芳子のいつにない聞き分けの良さに、納得できていなお顔で芳子を見送る。芳子はそんな藤村の視線を受けつつ、デスクから離れる時にそれと分からないようにスマホをつかみ取り、右のポケットに突っ込んで研究室を出た。


 足早にエレベーターに乗り込み一息ついたころには、もう地下11階に到達していた。エレベーターを降りると、人気はなく雨がトタン製の屋根を叩いているような音がフロア中にこだましていた。うるさいというほどではないが、ヒーリングミュージックにしては音が大きく雑音もひどい。カツカツという芳子の靴音と金属音が鳴り響いている中を、芳子は無心で突き抜ける。

 オレンジ色の明度の低い間接照明が足元を照らす。薄暗い廊下をひたすら直進すると、進行方向の右手に明るみが現れた。両壁のガラスに外の風景がプロジェクションマッピングされているゾーンを抜けて温かみのあるオレンジ色と黄色を基調としたコンビニエンスストアの中に入る。

 昼時を十分に過ぎたせいか、品物は補充も完璧に済み整然と並んでいた。芳子は、とにかく早く食べ終わり消化にいいものをと店内を見回していると、ドリンクコーナーに差し掛かった。そこにはリーンも陳列していて、ついそちらに手が伸びる。しかし、藤村が最近さらにしつこくなっているのを感じている芳子は素直に作物を摂取することを選んだ。

 サンドウィッチコーナーに寄って適当にバラエティーパックを手に取り、道なりに店内を進んでいくと、菓子類の商品棚で足が止まる。芳子はこのところ角砂糖、黒砂糖、中双糖、三温糖、粉砂糖、一周回って角砂糖とそろそろ砂糖のループに飽きていたところだった。藤村に感化されたということではないが、芳子にも多少藤村の言い分は理解できた。しかし、それは嗜好品に関してのみだった。

 コーナーをサラッと見流していくと、グミのパッケージが目についた。「すっぱいグミ」と淡い黄色で印字され、レモンに顔のついた未確認生命体がムンクの叫びの体勢をとっている。

 芳子は元来、甘味を好んで食べる。だからと言って、砂糖ばかりをノルマのようにループしていたことには理由がある。こういう製菓商品のパッケージから、味を推測するのに芳子はとても時間を要するからだ。芳子には、「すっぱい」という基準が示されていないこと、試食した人間のデータがないことなどの不安要素が耐え難いのだった。例えばチョコレート。菓子に限らずとも、開発者や試食した人間の健康状態によって、味覚はいかようにも変わる。たとえ無作為に100人の一般人を選んで試食を行ったところで、その集団が疲労蓄積率の高かった場合には、どんなに甘く味付けした菓子でも「甘さ控えめ」と判断されてしまうのだ。芳子はそんなことをぐるぐると考え込み、結局は黒砂糖のバーコードをレジに差し出した。


 哲男から着信が来ていることに気が付いたのは、地下11階のコンビニフロアからエレベーターホールに戻った時だった。


『考えてみれば、籠城って負けるよね。え、信長さんどうしたの? 籠城してたら勝てないでしょうに。え、詰んでんじゃねえの、俺。やば、芳子、この後どうすればいいの? つうかお前、籠城って適当に言ったとかじゃないよな?』


 哲男は、ばかな割には勘がいい。野生の勘ととでもいうのか。芳子が面倒になって適当に返答したことが早くもバレたらしい。どうやら事態は急を要する。しかし、芳子のスマホはあいにくと回線が入っていない。インターネットにつなげる機能はいれていなかったのだ。したがって、今すぐ史実や解決法を調べることは困難だ。

 どうしようかと芳子が考えあぐねていると、後ろから「わっ」という声がした。振り返ると藤村が背後に陣取っていた。大方、芳子がちゃんとした食べ物を買ってくるか心配になって追いかけてきたのだろう。しかし、フロアにいるのは視認二人。芳子と藤村だけである。だが、藤村が声を発するまで足音は一向にしなかった。


「あれ、反応薄いですね。もっと驚いてくださいよ」


 藤村は、すねた様に口を尖らせた。


「これでも十分驚いています。驚きました、あなたのような体型の人でも隠密技術は会得できるのですね」


 「あなたのような体型」のところで藤村は笑顔をひきつらせた。しかし苦言を呈することはなく、右のこぶしを握り締めながら表情をひきつらせて「ガマン、ガマン、ガマン」と小声で呟いている。一方、武術を習っていた経験上、背後を取られることはまずなかった芳子はかなり驚いていた。表情に出ないだけで。


「隠密なんて大げさな。6月ですからね、雨音で足音がかき消されたんでしょう。珍しいですね、先生が背後の人に気付かないなんて」


 ガラスの壁紙には、すごい勢いで雨が降っているところが表示されていた。構造上、地上の音を反響しやすく、地下10階を過ぎても雨音はしっかりと聞こえていたのが敗因らしい。

 ピコンッと音がして、哲男の着信を知らせた。


『マジでどうすればいいの。教えて、芳子ちゃん。外黒い雨雲立ち込めてきてるし、出陣するにも大変そうだしさ、なんか今川さん余裕こいて勝利の宴してるらしいし。もうどうすればいいのか…』


 芳子はハッと何かに気付いた様子で、メッセージアプリに短く指示文を打ち込む。


『少数精鋭で出陣。夜のうち。あとから小隊ごとに増援に来るように指示。雨が本格的に降り始めたらいる人数で敵に突進。足音が雨音で消される』


 送信ボタンを押してすぐに、『了解』という文字とともに、犬が敬礼しているスタンプが送られてきた。




<途中経過>


日時:2020年 6/1(月) 20:46現在


結果検証:対象は無事最初の難関を突破した模様。しかし、対象の人間性により、織田信長に史実にない性格が追加されている。また、織田信長が矢面に立っていることで歴史に多少の変動あり。サンプルの回収が早まる可能性が出てきた。


考察:時間の誤差検証の為、詳細なデータが必要。対象に疑念を持たせないためにも、通話を避け、文字のみでの交流に限定すべき

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