第1話 今川さんと織田さん 備考:早速のシリアスです。

 ピコンッという音に、芳子が何気なく枕元のスマホに手を伸ばす。SNSの通知がポップされた。起き抜けのはっきりしない頭でSNSのポップをタップすると、教科書でよく見る織田信長の肖像画―しかしその右手はピースをしているように見える―のアイコンがいきなり飛び出した。

 芳子にこのアイコンの人物を登録した覚えはない。名前の欄には、カタカナでノブナガとある。メッセージは開かずにホーム画面に表示されるメッセージはだけ見ても、不信感しか湧かない。「俺だよ俺、分かる?」とあるが、どう考えても新種の詐欺の様相だ。しかし、好奇心からか、芳子は怪しさしかないアイコンに人差し指を向けて、トンっとディスプレイをたたいた。画面が変化し、次に現れたトーク画面には、また新たにメッサージが届いていた。


『お兄ちゃんだけど、分かる? 今さ、信長さんのところの時代にいるの。そんで、俺が信長さんになってるらしくて。とにかく、助けてくんない』


芳子は小さく目を瞠り、心なしかその口元は宝物を見つけてはしゃぐ少年のように吊り上がっていた。


* * * * *


『なんかめっちゃ強い人攻めて来るっぽいんだけど、今川さん? 今川義明だが義輝だか、それっぽい感じの人が攻めてきてるみたい。城中バタバタしてる。どうすればいいか教えて』


 軽薄な字ずらに、芳子はため息をつきながらも、仕方なく文章作成アプリの画面から検索アプリに切り替える。カチャカチャと目にもとまらぬ速さでキーボードがたたかれていく。


『うわ、おっさんたちみんなヒートしちゃってんだけど、どうすりゃいいの』


 ピコンッという音がして、またメッセージが表示される。「織田信長の歴史」というキーワードで検索した結果を生真面目に上からじっくり読んでいた芳子は、面倒に思って、読むことを放棄しメッセージアプリに雑に文字を打ち込む。


『籠城でもすれば』


 簡潔な返事を打ち込み終わると、芳子は通知をオフに設定し、スマホを机に放りだした。

 一面真っ白な研究室は、360度回ってもそうと分からないほどにものがない。殺伐としているという表現が正しいだろうか、とにかく必要最低限という言葉が似合う内装だ。立方体の箱の形をした室内に、東西南北に一つずつデスクとサイドテーブルが置かれている。しかもすべて壁のほうを向いているのだ。室内に計四つあるデスクはすべて天板が乳白色、脚は黒の長方形。唯一の違いは、北の方角に出入り口、南の方角に天井から床まである大きな窓があるだけだ。配置もすべて同じなので、各々のデスクの判別は非常に困難を極めると思いきや、芳子のデスク以外は何も置いていないので、芳子に関してのみ言えば、非常に見分けが付きやすかった。

コンコンコンと扉をたたく音がして、「先生、入ってよろしいでしょうか」という声が聞こえた。小さくどうぞ、と答えると部屋のドアが静かに空いた。


「先生、こんな時に申し訳ありません。できれば、今年度予算について話し合いの場を設けたいのですが、大丈夫でしょうか」


 入室してきた女の事務員は、恐縮したような、好奇心と同情の間くらいの感情が見て取れる。しかし外見は、いかにも心配している風を装っていた。大学で着飾っても、期待している効果は得られないだろうに、きっちりとメイクしたうえで品のないくらいにアクセサリーで自分を飾り付けている。制服がない職場にはままあることだが、目に突き刺さるピンクに、芳子は顔を背けた。

 それに比べて芳子の服装は極めてシンプル、白一色だ。つまるところの白衣である。しかし、業務規定に服の指定はなく、ただ単に芳子にファッションに関する興味がないためであった。


「かまいません」


 芳子は、そちらには目もむけずにひたすらガラスのようなデザインの、平坦で透明な板に表示されたキーボードを打ち始めた。その顔からは、おおよそ感情というものがうかがえない。


「そうですか、お忙しいところ申し訳ありません。では、日時や概要はここにメモリーチップを置いていきますので、時間が空いた時にでもご覧ください」


 そういって、事務員はメインデスクの横にある何も置いていないサイドテーブルにメモリーチップを一枚置いた。


「では、失礼します」


 事務員は、そそくさと逃げるように部屋から立ち去った。扉が閉まる音はしなかった。おもむろに手を止めて、芳子は背もたれに体重を預け眉間のあたりをもみ始める。外からは、学生の笑い声と近くにさっき来た事務員が話している声がかすかに聞こえた。


「はー、息が詰まる」


 大きなため息とともに、先ほど入ってきた女の事務員の気の抜けた声がドアを通して聞こえてくる。芳子の研究室は、無駄に壁の防音機能が高い割にドアの防音効果は皆無だ。


「林又准教授の所か、確かに入るだけでも気疲れするわ。お疲れ」


 外で待っていたらしい事務員の同僚らしき男性がねぎらう。その声音は、面白がるような感情が入っていた。今どきの言葉で表すならば、草が生える、ダブリューがたくさんつきそうな調子だった。いや、それはもう古い、とこの間芳子は助教授に言われたことを思い出した。


「他人事みたいに。はー、つくづく自分のじゃんけんの弱さを呪うわ」


 私の対応係はじゃんけんで決まっていたのか、と若干の驚きを抱きながら、芳子は意識的にドアの外の音声に耳を傾ける。


「そういえば、林又准教授のお兄さん、失踪したんだってね」


 愉快そうな調子で、同僚の男が口を開く。


「そうそう、だからかなり気を遣ったのに、入室から退室まで終始こっちに視線すら向けなかったのよ。まあ、いつものことだけど。さすがにあの『ロボット』様でも気にはしているのかと思ったけど、気を遣うだけ無駄だった」


 事務員の女はそう言って、また一つため息をついた。


「あの人は、たとえ身内を一気に亡くしても眉一つ動かなそうだな」


 同僚の男は、ばかにするような口調で同調を求める。


「ああ、ありえるわ」


 事務員の女が同調して続ける。


「ていうか、あの部屋ってホントに真っ白。ドアが開いた瞬間に目くらましでもさせられたかと思った。あの人も白いし、見つけにくいったらありやしない。カメレオンでも目指してるのかしら」

「まあな、本当に一昔前の精神病院みたいな内装だよな。あそこの助教さん普通っぽいのに、よく我慢できるなって思う」


 どうやら話題は、芳子から研究室そのものに移るらしい。


「あの人と一緒にいられるってことは、その人もどこかしらおかしいんでしょ」


 女の事務員は声に不機嫌さをにじませて部屋から遠ざかる。「そんなもんか」と男の事務員も同調して、後に続いた。

会話は終了したようで、外からは足音しか聞こえなくなる。芳子は意識を自分のほうに戻し、空白の目立つ文章作成アプリの画面に向き直る。タイトルは、空白。その様式から、論文を書いているのだとわかる。息を一つ吸って吐き出し、芳子はキーボードを打つ手を再開する。

 芳子の背後に陣取っている大きな窓からは、大粒の雨が外の景色を覆い隠すように降っていた。


二時間後、再開してから止まることのなかった芳子の手が止まる。おもむろにデスクの隅に放っておいたスマホを手に取る。ロック画面を見ると、二桁を優に超す件数の通知が届いていた。見るまでもなく、すべてメッセージアプリで、兄からだ。

『ごめん怒った』

『よしこちゃーん』

『お願いだから返事して』

『マジで俺の話聞いて、お願い』

『芳子さーん、お兄ちゃん、ピンチなんだけど。死にそうなんだけど』

 といった調子で永遠と続き、

『ごめんね、忙しかったんだよね。お兄ちゃん急がせちゃって、迷惑だったよね。本当にごめんなさい。マジで許してください。もうせかしたりしないから。大学の忙しい仕事の合間に協力してくれてることは重々承知しておりますので、空いた時にでも返信お願いします。芳子の協力ないと、俺本気で死んじゃうから。マジで。ほんっっっとうに許してください、お願いします。神様仏様芳子様』

 というメッセージに土下座の絵文字が大量に入った形で終わっている。

 普通、こういったメッセージアプリは、相手がいつそのメッセージを転送したか時間が表示されるはずだが、不思議なことに芳子と哲男とのやり取りにだけ表示がない。やはり、時空間が異なっているからなのだろうか。


 一か月前、芳子のもとに不審な送り主から不審なメッセージが届いた。送り主は、芳子の兄、つい先ほど事務員たちの話題に上がっていた張本人である林又哲男だった。失踪した哲男は、林又家では以前から勘当も同然の状態であり、今は名実ともに死んだものとして扱われていた。

 その兄の失踪が警察から知らされて数日、行方不明のはずの哲男から芳子のもとに急に連絡がきた。

 芳子が事情を聴いたところ、付き合っている彼女のうちの一人の家から帰る途中の夜道でいきなり後ろから布らしきもので口元を覆われて、目が覚めた時には風光明媚な田園風景が広がっていたそうだ。

 哲男や芳子の住む岐阜は日本の首都であり、かの有名な織田信長の前進となった土地である。

 織田信長は虚弱であったため、自然の豊かな土地を好み、それは現在にも受け継がれている。諸外国と比べ自然豊かであり、ヨーロッパ諸国やアメリカの文化や技術に流されることもなく、取り入れるべきところは取り入れながらもしっかり日本らしさを残すことに成功している。

 天下統一後、海外との門戸を広く設け、商人や学者たちの活動など個人的な行動を制限することもなくむしろ後押ししたことで、日本はいち早く先進国の仲間入りを果たした。国土が他の先進国より圧倒的に小さいという大きなハンデを抱えながらも、生産力に特化せず品質や技術力で勝負した日本の成長は凄まじいものがあった。

 そんな日本は世界的にも技術大国として認められ、数十年前に行った国家規模でのペーパーレス促進政策の恩恵で、芳子のデスクは比較的綺麗だ。やろうと思えば、昼食も大きく広げて食べられるほどに。芳子が子供のころに見ていた、書類に埋もれる芳子の父のような研究者の図は見る影もない。

 今や、片手に収まるほどの小型のメモリーチップだけで生きていくのには事欠かない。芳子がまだ学生であった時代には広く普及し流行の最先端とされていたスマートフォンも、ディスプレイを空中に配置し人間の動作を瞬時に認識する機能が開発されたことで、小型のメモリーチップに半ばその地位を強奪された体である。

 芳子はディスプレイが空中に表示されるメモリーチップ対応のキーボード「リアクト」やスマートフォンを使っている。

 それらは製造はかろうじて終了されていないものの、修理に出したものならば業者に思いっきり嫌な顔をされるほどには古く時代遅れのものであった。サイドテーブルの引き出しには最近の日にちが刻された修理証明書兼一年の修理保証を示す幾何学模様のカード型チップが入っていた。

 確かに、芳子は比較的不器用な方に分類される。それは、もう使う人間が絶滅危惧種とされるメモリーチップ対応のキーボードを日常遣いしていることからも明らかだ。しかし、さすがの芳子でもスマホを日常遣いするほど不器用でも時代に遅れてはいるわけでもない。誰が使うにしても、明らかにスマホのほうが使い勝手が悪すぎるのだった。




<途中経過>


日時:西暦2020年 6/1(月) 12:30現在


結果検証:初日。デバイスの不具合あり。しかし、対象にそれほどの不信感は与えていない様子。そのまま続行可能と思われる。


考察:当該時間と実験対象である安土桃山時代の時間では、流れる速さに若干の誤差を確認。

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