第52話 恋心
「……大丈夫よ、明日の試験頑張るから! せっかく間に合ったし、精一杯やってみるつもり」
よっぽど勉強ができないと思われているのかもしれない、と若干恥ずかしくなる。
結界の中にずっといて勉強が遅れているのは確かだし、心配させないように一生懸命胸を張ってみせる——と、ハルが前触れもなく仮面を脱ぎ払った。
凛とした強さを宿した星色の瞳がユディを射抜き、なぜだか全身が泡立つ。
魔導師たちが打ち上げる花火の光に反射して、黄金の髪が光をはらんで輝き、彫刻のように美しい顔を縁取っていた。
けれど、こちらを見つめるハルの瞳には、いつもよりずっと鋭い光が浮かんでいて、何だか怖い。
もしかして、何か怒ってる?
しかも、すごく至近距離だ。
「ユディ……本当に何もわかってないね」
あっという間もなかった。
ハルの手がユディの首の後ろに回され、そのままぐいと引き寄せられる。
ハルの薄い唇がユディのそれに素早く重ねられた。
ユディの頭は真っ白になる。
一拍置いて、心臓の鼓動が追いついてきた。
「ハ、ル……!」
真っ赤になったユディは焦って離れようとするが、ハルは両手でユディの顔を包み込み、さらに口づけを落とす。
ハルの手から逃れようと身じろぎするが、ユディの力では鋼のように引き締まった腕は微動だにしない。
頬に触れている手は冷たいのに、ハルの唇はとても熱かった。
「んん……!」
触れるだけの優しい口づけは止まらない。
うるさいくらいの胸の鼓動が全身を震わせた。
「——ぼくが言いたいのは、そんなに簡単にぼくから離れるなってこと」
懇願するようなハルの声。
けれど力は強く、とても逃れることはできない。
優しく降り注ぐキスの雨に溺れそうになりながら、ユディはもう何も言えなかった。
この鼓動が自分のものなのか、それともハルのものなのかわからない。
呼吸が荒くなり、襲いかかる羞恥に目の端に涙が滲んでくる。
「も……、やめ……」
「やめない。ユディがぼくから離れないって言うまで」
震えるユディを見下ろすハルは、これまでに見たことがない表情をしていた。
年下の男の子じゃない。
「男」なんだ——。
ハルのことを好きと自覚した時に、頭でわかってはいた。
けれど、彼の「男」の部分をこれほどまでに強く意識したのは、これが初めてのことだった。
早鐘の様に打つ心臓は痛いほどで、頭の奥がじんと痺れて飲み込まれそうになる。
「な……、ん、で……?」
頼んでも決して止めてくれないキスの合間に、途切れ途切れにやっとのことで問いかける。
なんでこんなこと、するの?
「決まってる——————
きみのことが好きだから」
ハルの言葉が頭に反響する。
青紫の瞳は、涙があと少しで溢れそうなほど潤んでしまっていた。
呼吸が大きく乱れ、苦しい。
ハルも、呼吸が荒くなっていた。
蕾のようなユディの唇は想像していたよりもずっと甘く、強烈な麻薬のように何度も貪らずにはいれなかった。
ようやく唇を離しても、迸る気持ちを抑えることができず、今度はユディの鼻に自分のそれを擦りつける。
そんなこと、今までどんな男にもされたことがないのだろう。
ユディの細い身体がびくんと小さく跳ねた。
敏感に反応するユディに対し、加虐心がむくむくと頭もたげそうになるのを必死で自制する。
優しくして、愛おしみたい。
けれど、同時に虐めて泣かせてしまいたくなる。
相反する二つの気持ちが、愛おしすぎる目の前の少女に真っ直ぐ向けられていた。
「なんで、城から出ていくなんて言った?」
「それは……」
熱いキスの後の、冷たい瞳。
ユディは、ハルが自分に対してすごく怒っているのだとやっと理解した。
自分の気持ちをきちんと話さなくてはと思うのに、言葉が出てこない。
恥ずかしさと、気まずさと、不安とが、パレットの上でぐちゃぐちゃに混ぜられた絵具のようになってユディの心に広がる。
————ああ、言葉が出てこない……。もう、翻訳の方がスラスラ行くのに!
元の原文があるものをただ翻訳するだけなら、簡単だ。
だってそれは自分の言葉じゃないから。
今は何もない、真っ新な状態。
どんな言葉を言うのも、言わないのも、自分次第でしかなかった。
とうとうハルが自虐気味に吐き捨てる。
「……やっぱり怖い? ぼくのこと。突然キスなんかして……嫌だった?」
「違うわ!」
ユディは叫んだ。そんなふうに誤解させたくなかった。
確かに突然あんなに激しく唇を奪われたら、動揺しないわけがない。
けれど、決して……嫌ではなかった。
ハルは恐れている。
自分のことを気味が悪い、忌むべき存在だと思われるのを……。
恥ずかしい気持ちは、要するに自分自身を守る気持ちでしかない。
自分の気持ちより、ハルの気持ちを守ってあげなくては。
勇気を振り絞って、心の中に沈めていた気持ちを紡いでいく。
「わたしが、城を出ようと思ったのは、文官になれなかったらここにいさせてもらうのが悪いって思ったからと……」
ごくりと唾を飲む。そして一気に言った。
「ハルが、ほかの令嬢と縁談するのを見るのが嫌だったから!」
「————え?」
星色の瞳が見開かれる。
羞恥心がユディの全身を駆け抜け、今度は全力で顔を背ける。
————が、無駄な抵抗だった。
元々、ハルの腕の中から逃れられていないのだ。
すぐに捕まって、顎を持ち上げられる。
ハルの目が赤い。焼けるような熱がその瞳に籠っている。
「それって、どういう意味?」
「どうって、そのままの……んっ」
またもや、キス。
しかも、自分で質問しておいて、答えを遮っている。
「もしかして、嫉妬?」
指摘されて、かっと全身が熱くなる。
口元に隠しきれない小さな笑みを浮かべながら、けれど真剣さは変わらず、ハルは何度も口づけを落としてくる。
そして、不意に唇を離す。
「教えて、ユディ」
「だから、その…………」
しどろもどろになりつつも、もう言うしかないと腹をくくる。
「……わ……わたしも……」
鼓動が激し過ぎて、心臓が痛い。
痛くて痛くて破裂しそうだ。
「……わたしも……っ、好きなの! ハルのことが好き。身分だって違うし、ただの友人っ……だし、叶わない恋ってわかってるし、諦めるつもりだったけど、でも好きなの。ほかの令嬢といずれ結婚するハルの姿を見たくないの。だって、わたしもハルのことが好きだから」
言っちゃった……。
緊張の限界点を突き抜けて脱力しそうになった瞬間、ぎゅっと強く抱きしめられる。
ユディの首筋に顔を埋めながら、ハルの身体は震えているみたいだった。
喜んで、くれてる……?
ハルのそんな姿は初めてで、ユディの胸を打つ。
しばらく、ハルは何も言わなかった。
それから顔を上げた。
ハルの星色の瞳のまわりがさっきよりもずっと赤い。
「縁談なんかしないよ。ぼく結婚しないし」
「でも……」
王弟という立場上、そんなことを言えるのだろうか。
ユディの疑問に答えるように、ハルがそっと付け加える。
「結婚しないんじゃなくて、正確にはできない。お妃をもらっても、その……将来、ぼくのように魔力が強すぎる子ができたら……出産の時に命の危険に晒してしまうことになるから」
「あ……」
「本当なら、こうしてきみに触れるのだってやめたほうがいいってわかってる。でも、どうしてもこの気持ちを抑えられなかった……。ごめん」
切ない声で囁きかけられ、ユディの心は震えた。
「安心して。キス以上のことは絶対しない。きみの身体を傷つけるようなことは死んだってごめんだ」
「キス以上って…………あっ!?」
稲妻のように天啓が閃いたのはその時だった。
「セラフィアン様、そういうことっ……!!? 嘘でしょ!?」
「……ユディ?」
ふるふると拳を握るユディを、ハルは呆気に取られて見つめる。
「ハル、リューネシュヴァイク様はお子がいらっしゃったわよね! それも、何人も!」
「え、ああ……うん。お妃も何人もいて、子沢山だったはずだよ」
「王子、王女には強い魔力を発現された方もいるわよね。何しろお父様が煌龍陛下なのだから、そのお子様にも強い魔力が遺伝するはず。お妃様も普通の姫じゃなかっただろうし……」
ドラグニアの歴史書に書かれていた文言を懸命に思い出す。
リューネシュヴァイクの妻たちは、彼とともに魔物と戦った女騎士や女魔導師もいたはずだった。
つまり、彼女たちにも強力な魔力が発現していたということ。
さらに父親は、ドラグニア王家の始祖である煌龍陛下その人なのだ。
「ユディ、どうしたの?」
「誰よりも強大な魔力を持っていたはずの煌龍陛下のお妃様やお子たちが無事でいられたのはなぜかってことよ。お妃様も、お生まれになった王子様や王女様だって、出産の時に次から次へ亡くなったりしてないでしょ? 実はさっき、セラフィアン様がわたしの夢に現れたの」
ユディはセラフィアンとのやり取りの顛末をハルに伝えた。
「ぼくの魔力を抑える禁術が書かれた禁書があるって!?」
「過剰な魔力を抑えて、声も普通になるそうよ。それに、仮面を外して『普通に』生活できるようになるって、つまりそういうことよ、きっと」
夢の中のセラフィアンが何だかにやにやしていたのを思い出す。
あの神様め……。
「要するに、結婚だって子作りだってできるってことだわ」
「子作り……」
目を丸くするハルに、ユディははっと口を押さえた。
もしかして、今すごく大胆かつ恥ずかしいことを堂々と言ってしまっていないだろうか。
慌てふためき、今度こそハルの腕から逃れようとするも————失敗に終わる。
「……新しい禁書探しは、国をあげてやるしかないな」
ユディをその腕に抱くハルの顔は、かつて見たことがないほど真剣だ。
「もしぼくの魔力を封じることができたら————
その時はぼくのお妃になってくれる?」
直球も直球、単刀直入にずばりと訊かれ、ユディは固まった。
「え、一足飛び過ぎ……。へ、返事は、保留で……」
「だーめ。いいって言うまで離してあげない」
「ご、強引よ」
「そうだよ、知らなかった? ユディにはいつも優しくしてあげたいけど、今回ばかりはぼくも余裕ないから。どうしてもきみが欲しいからね。ね、ユディ? ぼくのものになってくれる?」
無理! という言葉がユディの頭を占拠しかけるが、ハルの切ない瞳にじっと見つめられると、彼への恋心が溢れてきてしまう。
「わ……」
「わ?」
目を瞑る。
もう観念するしかなかった。
自分の心は、この恋へ突き進めと言っている。
「わかったわ……」
またもやぎゅっと強く抱きしめられる。
もう、ハルのなすがままだった。
恥ずかしさでぐったりしながらも、嬉しさを隠そうとしないハルの様子に大きく息を吐く。
そうして、ハルはやっと許してくれた。
ユディの身体をそっと離す。
「あっ……まずい」
「え?」
ハルが見ている方向にユディも目をやり————そのままぎくっと固まる。
いつの間にか花火の打ち上げは止み、訓練場にいる魔導師団員全員がこちらに注目していた。
ヴァルターがこめかみを押さえ、ユルゲンがやんやと拍手をしているのがユディたちの所からでもわかった。
……ああ、穴があったら入りたい。
恥ずかしさに悶絶するユディに向かって、ハルが舌を出す。
「見られちゃったか。ってことはフェルにもすぐばれるな……。じゃあ、いいか。もう解禁ってことで」
「何が!?」
「見てて、ユディ。きみが寝てる間に、ぼくも禁書を読み込んだんだよ。これだけは覚えた」
羞恥に身悶えするユディを置いておいて、ハルは手を掲げる。
ひときわ大きな魔法陣が出現する。
それを、勢いよく宙に放った。
夜空に大きく弾けたのは、真っ赤な巨大なハート型。
爆音がどんと胸を打つと、団員たちから一斉に歓声が上がる。
「あ……!!」
「これで、本当にもう手遅れだよ。きみへのぼくの気持ち、王都中に知られちゃった」
パチパチと消えゆく赤い光に照らされて、ユディの顔も同じ色に染まる。
光が消えた後の暗くなった夜空にたゆたう煙は、少し崩れてはいたけれど、まだハートの形のままだった。
「この前、リボン買ってあげられなかったから。これで帳消しにしてくれる?」
「…………!」
城下町でデートした時、ハート柄のリボンには興味を示していなかったようだったのに。
実際は、ハルも気にかけてくれていたのだ。
王弟とユディのラブシーンに加え、突然の愛の告白宣言に団員たちは大いに沸いた。
歓声は収まらず、今度は彼らがこぞってハート型の花火を打ち上げ始める。
ユディとハルへの祝福のつもりなのだろう。
恥ずかしかったけれど、皆の気持ちが伝わってきてユディの胸はいっぱいになってしまう。
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