第48話 禁書の翻訳士

 翻訳作業に没頭するユディの横顔を、守護精霊のエリーアスは静かに見つめていた。


 結界内は時間の感覚が鈍るので、作業を始めてからどれほど時間が経ったのかわからなくなるが、外の時間で考えると、大体三日程度だろうか。

 食事をしなくても、眠らなくても大丈夫とは言ったが、彼女は本当に菓子や茶にはまったく手をつけず、それどころか休憩すら取らずに、黙々と作業を続けている。


 ユディが禁書の翻訳を始めたというのは、王弟から国王、それに魔導師団長と副長に速やかに伝えられた。

 時折、結界の様子を見に彼らがやって来るのだが、実際に結界の中にまで入ってくるのは王弟だけだ。


 それも、入ってきてもすぐにユディに追い出されてしまっている。

 理由は、集中できないからだそうだ。


 なんでも、文官の採用試験がもうすぐ行われるので、それまでに翻訳を終わらせたいと急いでいるらしいのだが、そもそも禁書なんていう代物(守護精霊の自分が言うのも何だが)を翻訳できて、召喚式魔導羽根ペンを自在に操ることができる人間が、わざわざ試験を受けて城に雇われるというのもおかしな話だとエリーアスは思った。


 それだけの力があれば、最初から下にも置かぬ扱いをするべきではないだろうか。

 

「エリーアス、ちょっといい? ここのところなんだけど……」


 ユディは時折、図書館が建設された当時のことなどをぽつぽつと訊ねてくる。

 その質問がかなり事細かで正確なので驚くことがある。


 当時を生きていた者でないとわからないだろうということを的確に聞いてこれるということは、それだけこの禁書——言うなれば古代文献を読み解いている証拠だとエリーアスは思った。

 王弟を顎で使ったり、集中できないからと追い出したりできるのもすごいと思ったが、彼女の翻訳の力は本物だった。


 守護精霊は、文字が読めない。

 だから、禁書に書かれた禁術がどんなものか、エリーアスは知らない。


 だが、禁書を読み解いた後、その禁術をこの目で見ることができれば、必ずそれとわかると思っていた。

 彼女の翻訳が正確であれば、きっと魔法陣がきちんと発動するはずだ。

 

「……できたわ」


 がたんと音を立てて、ユディが立ち上がったのはその時だ。

 

「えっ! もうですか? 大事な部分だけを先に仕上げたんですね!」

「それが……終わっちゃったわ、全部」

「七日かかるって言っていませんでしたっけ?」

「かかるわよ、普通なら。でもこの結界の中って全然疲れないってことをわかってなかったわ。眠らないで作業できるってこんなにすごいのね。見積もっていたよりずっと早く終わっちゃったのよ。エリーアス、この結界を解いてくれる? さっそく魔法陣の検証をしたいんだけど」


 エリーアスがはい、と元気よく返事をしようとしたところでハルが勢いよく結界内に飛び込んできた。


「おい、待て」

「ひっ! 王弟殿下」

「なんだよ、化け物を見たような声を出すな」

「ハル、もしかしてずっとそこにいてくれたの?」

「うん、ユディが心配で……」


 不機嫌そうな声を出していた王弟が、ユディに話しかけられると急に大人しくなる。

 

「態度が違いすぎる……」

「おい精霊。この結界って、中にいる人間の感覚を狂わせるんだろう」

「ははっ、はい!? いえ、よくわかりません」

「使えない精霊だな……。ユディ、このまま結界を解くと、多分きみ倒れるよ。狂っていた時間の流れがいきなり正常に戻ったら、今まで飲み食いもせず、睡眠もとってなかった分の疲労が急激にきみの身体を襲うはずだ」

「ええっ……それって、もっと時間が経ってたらどうなっちゃってたの?」

「下手したら死ぬだろうね。あと一日経って出てこなかったら、ユルゲンとヴァルターに結界を壊させるところだった」


 ぞっとする話である。

 ハルが不機嫌だった理由がようやくわかって、エリーアスも青い顔になった。


「も、申し訳ありません……精霊と違って、人は食べ物がないとだめなんですね……」

「そこからか……。おまえ、人間の子どもと同化してるんだろ? なんでそんなことも知らないんだよ」


 しょんぼりと下を向くエリーアスに構わず、ハルはユディの側に身体を寄せる。


「どうするの?」

「手を出して。ぼくの気——っていうのかな。魔力みたいな、精気の元を分けてあげるから」


 言われるままに両手を前に出すと、ハルも手を伸ばしてユディの手をぎゅっと握りしめた。

 途端に身体に電流が走った。 


「う……!」

「ちょっと変な感じがするかもしれないけど、すぐだから我慢して。おい、結界を解除しろ」

「は、はい、直ちに!」


 ハルに凄まれて、エリーアスは急いで結界を解き放つ。

 みるみるうちに金色の光が空気に溶けて消えてゆき、代わりにもとの小部屋の風景が戻ってくる。


 まったく気がつかなかったが、結界の周囲にはたくさんの人がいた。  

 見張りの兵士らしき者たちに加えて、ヴァルターやユルゲンの姿まである。


(公衆の面前で、ハルと手を握り合ってる。わたし、何してるのかしら)


 ハルと手を取り合った姿勢のままで恥ずかしいけれど、結界の外に無事出れたことにほっとする。


 しかし次の瞬間、ぐらり、と視界が揺れた。

 激しい目眩に、目が開けていられなくなる。


 さらに、どくん、とユディの胸が跳ねた。

 突き刺すような鋭い痛みが胸に走る。

 前世で味わったのと、同じ種類の痛みだ。


(嘘……し、死んじゃう……!?)


 胸の痛みとそれに勝る恐怖に襲われ、パニックを起こしかけたとき、両手から痺れるような熱い気が身体に流れ込んできた。

 繋いだ手から、ハルの気がユディの身体に注がれているのだ。

 

「ユディ、落ち着いて、ぼくの気を受け入れて」

「あ、あっ……!」


 痛みと、身体に注がれるハルの気とがせめぎ合い、全身が痺れて息ができないほど苦しくなる。

 悶えるように身じろぎするが、両手はがっちり掴まれていてびくともしない。  


「ハル……苦し……」


 足が震え、立っていられなくなりそうだ。

 涙が目の端に滲みかけた頃、ユディはとうとう意識を手放した。

 崩れ落ちる身体を、ハルが受け止める。

 

「翻訳士様……」


 エリーアスが蒼白な顔をして手を伸ばそうとするが、すでにユディはハルの腕に抱き上げられていた。


「精霊、二度目はない。次、ぼくの前でユディを結界に捉えるようなことをしたらおまえの存在を消滅させてやるからな」 


 凍えるような声に、エリーアスは縮こまるばかりだった。

 ヴァルターが遠慮がちに声をかけてくる。


「殿下、ユーディスさんはどうですか?」

「大丈夫だろうけど、とにかくしばらく休ませないと」


 ユルゲンは、机の上から翻訳文を取り上げ、うやうやしく掲げた。


「おお……これがユーディスどのの翻訳した禁書ですか。拝見しても?」

「ああ。ぼくはユディを部屋に連れていく。おまえたちはすぐに禁術の検証に取りかかってくれ。フェルにも報告しておいて」

「承知いたしました」

「しかし、『書き換え』の魔法に禁書の翻訳とは、ユーディスどのは一体何者なのです? 本当に陛下は彼女を文官として採用なさるおつもりなのですか?」


 もはやユディの能力が並外れているのは疑いの余地もない。

 途方もない力を前に、ユルゲンは納得いかないとばかりにハルに詰め寄る。  


「師団長、その話はあとだ。だけど、ユディは魔導師団に入る気がない。文官になれなかったら……城を去るとさ」


 ハルは耳がいい。

 ユディがエリーアスと何気なく喋っていたことは、結界の外にいたハルにすべて聞こえていた。


「なんと! そんなことはだめです! ユーディスさんの能力はすでにフリジアの知るところでしょう。迂闊に城の外に出たりしたら彼女を狙って曲者が大挙してきますよ」

 

 ヴァルターの叫びにハルはため息をついた。


「レイ先輩を始末しておくべきだったな……」


 しかし、それよりも、ユディが城を出ると簡単に決めてしまっていたことのほうがハルの動揺を誘っていた。

 城を去ってしまえば自分に会えなくなるとは、考えてくれなかったということだ。

 彼女にとって自分の存在が何の抑止力にもなっていないことが寂しかったし、苛立ちも覚えた。


 自分は彼女に側にいてほしいのに——。


 冷たい熱を持った声が自然と漏れる。


「ぼくから簡単に離れられると思わないでもらいたいね」


 自分の腕の中でぐったりと目を閉じるユディを、静かに、しかし熱を込めて見下ろした。


 ————これ以上、自分の気持ちを告げないでいれるものだろうか。


 眠るユディの髪に顔を寄せると、甘やかな香りが媚薬のようにハルの鼻孔にいつまでも残った。

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