第47話 見積りは大事です

「じゃあ始めるわ。悪いけど、しばらく話しかけないでね」


 ユディはそう断っておいて、結界内に持ち込んだ机の上に本を載せて開いた。


 まずは全体的な構成を確認する。

 前世で自宅に届いたレプリカ本では、この辺りまではさらりと見た覚えがあるのだが、すでにその記憶は断片的にしか覚えていない。


 今度こそ、きちんと内容を検分する。 

 内容は大きく二部に分かれており、第一部にはこの本が執筆された当時の時代背景などが書かれている。

 前世で、架空の世界の歴史についての内容だと思ったのはこれだ。


 実際にこの世界に生きる住人となったユディには、この本が歴史的価値の高い、貴重な書物だということがわかる。

 もう少し踏み込んで読み進めると、どうやら、なぜこの本が禁書とされたのかという、その理由について書かれているようだった。


 さらに第二部は、肝心の「禁じられた魔導書」の部分になる。

 前世では見たことのない内容だ。

 レプリカ本だったため、これらの頁は除かれていたのだろう。


 魔導書の箇所には、禁じられた魔法陣がずばり載っているかと思ったら、そうではなかった。

 具体的な魔法陣の描き方についてすら記載はない。


 気になる箇所だけ拾い読みしていくと、ある一つの魔術についての考え方や属性の組み合わせ方などが説明的に書かれていることがわかってくる。

 つまり、この本を読んで理解し、さらに自分なりの解釈で、その魔法陣を描いてみて、発動するかどうか試してみる必要があるのだ。


(考えてみたらそうよね。魔法陣がそのまま載っていたら、翻訳なんて必要ないもの。本の正確な内容がわからないことには、魔導書としての意味をなさないようになってるんだわ)


 その魔術が一体何なのか非常に気になったが、じっくり翻訳してみないことにはわかりそうもなかった。


 それに、翻訳する前段階の作業がまだ終わっていない。 

 はやる気持ちを抑えて、一旦一番最初の頁に戻る。


 まずは「見積り」——つまり、文字数を数える。

 どんな内容の原稿が、どのくらいの分量あって、一頁をどれくらいのスピードで翻訳できるのかを確認してから進めるのだ。

 何も考えずにどんどん翻訳したりしたら、最初はよくても途中で「あとどれくらいで終わるのか?」というのがわからなくなってしまう。


 一頁のうち、まずは上から何列あるか数える。

 その後、一番長い行と、平均的な長さの行と、一番短い行の文字数を全部数える。

 それらが何列あるか掛けていけば、一頁の文字数がわかる。


 後は、文字がたくさんある頁と、少ない頁は別々に数えて、似たような文字数の頁だけを束ねていけば、より正確な文字数がわかる。

 全体の文字数が出たら、今度は優先的に訳す部分を決めて、そこの文字数だけを算出する。


 それに、自分がどのくらいのスピードで訳せそうかを考えて計算すれば、翻訳がどれくらいで終わるかわかるという寸法だ。


(パソコンが欲しいわね。ワードカウント機能が懐かしいわ……)


 羊皮紙の手書き原稿など、当たり前だが前世では扱ったことがなかった。  

 幸いなことに、見かけの分厚さとは異なり、文字数はそれほど多くない。


「それでも、全体を翻訳するなら七日。大事そうな部分だけならニ、三日ってところかしらね」

  

 翻訳自体は一行も進んでいないが、まずは概算で翻訳作業の筋道を立てないことには話にならない。  

 目処がついたところで顔を上げると、ユディの机の側で、腕を組んで立つハルの姿があった。


「ユディ、そんなにかかったら間に合わないよ」

「ハル! いたなら声かけてくれたらよかったのに」

「集中してるところを邪魔したくなくて」


 いつからいたのだろう。  

 横顔をずっと見られていたと思うと少々気恥ずかしかったが、平静を装う。


「どうやってこの中に入ってこれたの?」

「あいつを捕まえて脅したら入れてくれた」

  

 ハルが顎で指し示した方には、エリーアスがぐったりとして座り込んでいた。

 一体何をしたのかはわからないが、ハルが結界の中に入れたというのは安心感が大きく増す。


「間に合わないってどういうこと?」

「それが、文官の採用試験の日程が決まったって」

「えっ! いつ?」

「ちょうど七日後。さっき公布が出た」


 ユディは青くなった。

 よくよく考えたら、今日は魔導師団の研修期間の最終日なのだ。


 文官の研修生としての研修期間は先日終わっている。

 いつ採用試験が行われてもおかしくはないのはわかっていたが、スパノー侯爵の不正の後始末などもあるはずだから、もっと先延ばしにされるかと思っていた。


 大事な部分だけを優先的に訳したとしてもニ、三日かかると概算したが、それだけで本当にきちんとした魔法陣が描けるようになるかはやってみないとわからない。

 やはり全体を翻訳してから、魔術の検証も行っていくほうがいいが、高度な魔術の内容検証など自分には無理である。

 ハルか、ヴァルターか、事によってはユルゲンの力を借りなければならない。


 ユディは一つ息を吐いて、心を決めた。


「……仕方ないわ。もし間に合わなかったら、採用試験は諦める」

「ユディ!」 

「この依頼はセラフィアン様からなのよ。途中で放り出すわけにはいかないわ」

「間に合わなかったら? 文官になるのはやめて、魔導師団に入る?」


 その問いには答えず、白い紙にさらさらと何事かを書きつけると、ハルに手渡す。


「試験を簡単に諦めるつもりはないわよ。間に合うよう動くわ。ハル、王立学院に行って、ラウリ先生から推薦状を受け取ってきてくれない? 今朝、依頼していた推薦状が書きあがったって手紙が来ていたから、それを持って行って。事情を話せば渡してくれると思うわ」

「ラウリ先生? フェルのとぼくの推薦状は?」

「国王陛下と王弟殿下の推薦状なんて出したら担当官が卒倒しちゃうわよ」


 不服そうにするハルをなんとかなだめ、お使いを頼む。

 よくよく考えたら王弟を顎でこき使うなんて、大変に恐れ多い所業をしているのだが、緊急事態だから仕方ないと割り切ることにした。


 ヴェリエから推薦状を受け取った後、ユディは王立学院のマナー講師、ラウリ先生に手紙を出していた。

 ユディはあくまでも、小鳥寮生として文官採用試験を受ける。

 だから、自分をよく知っているラウリ先生にぜひ推薦してもらいたい——そう手紙にしたためた。


 ラウリ先生は学院から突然姿を消したユディの身を案じてくれていた。

 王城からの連絡で、文官の研修生をしていることは耳に届いていたが、ユディからの直接の便りを非常に喜んでくれて、推薦状の執筆も快諾してくれたのだった。


 結界の外にハルが出ていくのを見届けると、聞こえるかどうかわからないくらいの小さな声で、そっと謝罪の言葉を口にした。


「……ごめんね、ハル」


 ハルがいなくなった途端、エリーアスが側に寄ってくる。


「翻訳士様……」

「そんな顔しないで。大丈夫、翻訳はきちんとやるわよ。これがお城での最後の仕事になるかもしれないんだから」


 心配そうにする守護精霊に微笑んでみせた。


「どういうことですか?」

「もし文官になれなかったら…………お城を出ていこうと思ってるから」


 ハルには言っていないが、文官採用試験に合格できなかったら魔導師団には入らず、城を去るつもりでいた。

 叔父に逆らったため、生活費や学費を仕送りしてくれることはないだろうから、学院に戻ることはもはや叶わないが、いつまでも国王陛下の恩情に甘えているわけにはいかないし、今度こそ市井に身を投じる覚悟だった。

 

 その決意の理由は単純。


 ……嫉妬だった。


 ハルは王弟として、いずれどこかの誰かと結婚する。

 お披露目が済んでしまえば、婚約だけならすぐにでも縁談が舞い込むだろう。

 スパノー侯爵でなくとも、有力な貴族が押し寄せて、深窓の令嬢との縁談をどんどん進めようとするはずだ。


 それを見たくなかったのだ。

 文官になれたとしたら、仕事にまい進することで、もしかしたらハルを忘れることができるかもしれない。

 けれど、そうでなかったらハルの側にいることは逆に辛い。


 ————ああ、わたし、ハルのこと好きなんだわ。


 いつからだろう、この気持ちを自覚したのは。

 ヴィオランダの木の下で初めて出会った時? 

 図書館で再会した時? 

 王立学院から去って、尼になろうとしたところを迎えに来てくれた時?

 飛竜の背に乗せてもらった時?

 頬にキスされた時?

 城下町でデートした時?


 思い起こせば、いつでもハルは自分を助けに来てくれた。


 身分違いなのはわかっている。

 友人以上の関係を望むつもりもない。

 ただ、彼が未来の妃を迎えた時に、その側で悶々とした邪な気持ちを持ち続けていたら、彼にも、相手の女性にも失礼になってしまう。


 いや、違う。

 ただ、嫌なのだ。

 醜い嫉妬にまみれるのが耐えられないのだ。


 けれど、城を去ったら、もうハルに会えない……。それだけが辛かった。


 だが、今それについて考えていても仕方がない。


「さて、それじゃ、始めますか」


 机に向かうと、大きく深呼吸をする。


 準備は整った。

 ユディは迷うことなく、古代の文字の海に飛び込んでいった。

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