第44話 禁書の隠し場所

「レイ先輩……!」

「あー、なんだ、起きてたのかよ。もう少し寝ててもよかったのに」


 頭を掻きながらごく普通の口調でそう言われると、これはすべて何かの間違いだったのではないだろうかと思えてくる。

 だが、久しぶりに見たレイの顔は、印象ががらりと変わっていた。


 人のよさそうな笑顔の裏に、猛毒の大蛇を飼っているような、そんな危険の色が見え隠れしている。

 得体のしれない何かと対峙している感覚に襲われ、自然と身体が震えた。


 レイはユディたちにゆっくりと近づくと、にやりと口元を緩めた。


「ユディも人が悪いよなー。こーんなすごい魔法を使えるなんて一言も教えてくれないんだから」 


 言うなり、握った手のひらを開いて見せてくる。

 そこには、オレンジ色の小さな物体がころんと乗っていた。

 ハルにあげたのと同じ——のど飴だった。


「あっ……それ……」

「ユディたちが作業部屋を使った後に、偶然見つけたんだ。おっどろいたぜー」


 ユディははっとして口を開けた。


 本棚の隙間にうっかり落としてしまったものだ。

 後で拾いに行った時にはすでになくなっていたことを思い出す。

 てっきり掃除されてしまったのかと思っていたが、まさかレイの手に渡っていたとは……。


「水臭いよなぁ。知ってたら、俺の仕事ももっと早く終わったのに」

「仕事?」

「——禁書集め、だよ」

「え!?」


 隣国のフリジアが禁術や禁書を集めていると、ユルゲン師団長が以前教えてくれたが、なぜレイがそんなことをしているのだろうか。


 そういえば、ハルがレイと初めて会った時、彼のドラグニア語には訛りがないと言っていた。

 綺麗すぎる、と。

 確かに、レイの話し方は砕けてはいるが、一つ一つの発音は非常に正確かつはっきりとしている。


 ユディも外国語を複数操る。

 特に、ドラグニアと国境を接するフリジアやウェスリアの言葉であれば、生粋のフリジア人やウェスリア人とも変わらないほど流暢に操ることができる。


 ただ、一口に外国語といっても、それらの言語には地域や階級などによっても様々な訛りがある。

 ユディも流石にそこまで真似できるわけではない。

 外国人が外国語を学ぶ時には、大抵は一般的な文法に、無難な単語を選択して、できるだけ訛りのない綺麗な外国語にしようとするものだ。


 レイも、もしかしたら、同じ……?

 思考が目まぐるしく奔流し、ついに一つの考えが口をついて出た。


「ドラグニア人じゃない……? レイ先輩は、フリジア人……? フリジアの細作!?」


 パチパチパチ、と乾いた拍手がわざとらしく響いた。


「ご明察! ユディはやっぱり賢いな。こりゃ結婚後も楽しみだよ。俺、馬鹿が嫌いだからさぁ」

「結婚……て、誰が!?」

「俺と。ユディが」


 自分を指差した後、ユディを指差す。


「……あぅっ、何するんですか!?」


 レイはユディの腕を乱暴に掴んで立たせると、そのままその腕の中に納めてしまった。

 顎をつかみ、上を向かせるとそのまま唇を落とそうとする。


 悪寒が全身を貫く。

 ユディは慌てて顔を背けようとするが、がっちりとつかまれていてそうもいかない。

 ばたばたと暴れる。


「い、やっ……! やめて、レイ先輩!」

「照れるなって。これから夫婦になるんだぜ? フリジアに着くまで、毎晩かわいがってやることになるんだから」

「夫婦になんてなりません!」

「この前ちゃんと申し込んだろー? 返事はまだだったけどな!」

「お断りします!」

「酷いなー。ま、嫌だって言ってももう遅いんだけどな。大体ユディが悪いんだぜ? 『祈りの間』についてだって散々手がかりをやって、せっかくこちら側に呼びこもうとしてやってたのに。よりによって不正を暴いちまうしさー。あれにはびっくりしたぜ」


 苦々しい響きがレイの声に籠もる。

 こちら側、という言葉が妙にユディの頭に残った。


「不正について知ってたんですね? 『祈りの間』のことをわざと話題に出して、わたしをおびき寄せようとしたんですか?」


 レイはそれには答えず、ただ口元を歪めた。


「……目的は何ですか!?」


 ユディは、レイが自分を本気で好いているなどとは考えなかった。

 くつくつと楽しそうに笑うところを見ると、それで正解だったようだ。


 レイは笑いを収めて冷たい目になると、ユディをどんと突き飛ばす。

 勢いよく床に倒れ込んでしまい、したたかに腰を打ち付けたが、レイにくっつかれているよりはマシだった。

 触れられたところが呪いを持ったかのように、ぞわぞわとユディの胸を騒がせる。

 

 ————ハルに触れられた時とは、全然違う。


 ハルに抱きしめられても、どきどきはするけれど、こんなふうにぞわっと気持ち悪くなることはない。

 こんな時ではあるが、レイへの嫌悪感とともに、普段自分がハルにどれだけ心を許しているか、改めて気付かされる。


「ほんっと、いいよ、ユディは。新婚の夫婦物ってことにして、フリジアへの国境を越えようと思ってね。けどその前に……」


 レイは素早い動きでエミリヤの側に回り込むと、腕をつかんで立たせた。


「きゃあ! 何をしますの、この無礼者!」


 それまで呆気に取られていたエミリヤだったが、流石に状況がわかってきたようだ。

 バタバタと抵抗する彼女の首に、流れるような動きでレイが短剣を突きつける。


「ひぃっ!」 

「やめて、レイ先輩!」

「こないだここで面白いもん使ったよなぁ、ユディ? あれね、俺もいいなーって目をつけてたんだよ。ほら、こんな時にも使える」


 片手でエミリヤの首に短剣を押し当てながら、もう片方の手で何かを取り出した。


「……魔の森の花!?」


 禍々しく紅い一輪の花がレイの手に握られると、嫌がるエミリヤの顔にむりやり押し付けられる。


 ユディが使った魔道具とは異なり、一輪だけの花の芳香は室内に広がることなく、エミリヤのみに効力を発揮していく。


「嫌、やめなさい、やめ……!」


 顔を背けていたエミリヤだったが、徐々に力が抜けていくのが見ていてわかる。

 やがて、すすり泣きが聞こえてきた。  


「……ごめ……なさい、お姉さま……。ずっと、うらやましくて……お姉……が……」

「エミリヤ! レイ先輩、やめてください!」


 いても立ってもいられずレイを制止するが、かつての面倒見のいい気さくな先輩は、くすくすと悪魔の笑いを浮かべている。


「まあまあ、聞いてやりな。従妹ちゃんの言い分をさ」

 

 涙がエミリヤの瞳からとめどなく流れる。


「お姉……何でもっ……、できる……。家の仕事も、お父さまはお姉さまを頼りにしていて……私はただのお飾り。ハイネ村の皆も、ハイネ家の本当のお嬢様はお姉さまだと思っている。爵位目当てのお父さまやお母さま、その娘の私は、いつまでも……よそ者」

「そんな……そんなことないわ!」


 エミリヤは美人で、気立てがよく、強力な魔力があり、優秀なのだとずっと思ってきたのだ。

 宙ぶらりんの自分とは違うと。

 そのエミリヤが、まさかユディをうらやんでいるなんて、これっぽちも思わなかった。


「エミリヤはわたしにいつも親切にしてくれたじゃないの……」

  

 幼い頃からエミリヤはユディを気にかけてくれていた。

 その姿が嘘だとは信じたくなかった。

 だが、虚ろだったエミリヤの目がかっと開かれる。

 

「お姉さまに優しくしたのは、そうすれば自分の評判が上がるからよ。宙ぶらりんの可哀想なユーディスにも親切な、心優しいエミリヤお嬢様なのよ、わたしはぁっ!!」

「エミ……!」


 突然の激高にユディの心に恐怖が突き刺さる。


「シュテファンのこともぉっ…、私の方が先に憧れていたのにっ……お姉さまと、婚約っ……!! わかっていたの、もしも私が自分の気持ちを言えば、お姉さまはシュテファンを譲ってくれるって。でも、そんなのおかしい! 惨めで可哀想なお姉さまのはずなのに、なぜ私がおこぼれに預かるように、男を譲ってもらわなきゃならないのぉ! 私、私の方が美しい! 私の方が優れている! おかしいわ、おかしいぃぃぃ!!」

 

 魔の森の花の強烈過ぎる効果に、ユディは恐ろしくて言葉を発せなかった。

 先日、この花を使った時にはここまで激烈な反応を示した者はいなかったのに、エミリヤにはよっぽど心の中に溜め込むものがあったのかもしれない。


「それでユディを陥れて、笑い者にしようと思ったってわけか? 砂糖菓子と見せかけて、とんだ毒花だなぁ、従妹ちゃんは」

「そう……そうよ。お姉さまより私がシュテファンにふさわしいから……。でも、シュテファンは、酷い男だった……。私と婚約しても、お姉さまを諦めていなかったし、ほかにもたくさん女の人がいて……。うっ、うっ……」


 後はただ泣き崩れるだけだった。

 両親ともに揃っていて、蝶よ花よと育てられて、何が不満だったというのだろう。


 自分なんかを気にかけて、すべてを台無しにしているエミリヤがどうしても哀れに思えて、胸が締め付けられた。

 ユディの青紫の瞳にも涙が滲みそうになる。


「従妹ちゃんの一家が男爵領を横取りしたのは本当の話なんだろ? それで文句言われてもなぁ……。ってことで、死んどこうか?」

「レイ先輩!」

 

 ユディはぎょっとした。

 エミリヤはほとんど呆然自失状態で、短剣を構えるレイの言葉が耳に入っていないようだった。


「なんだよ、庇うのかい?」

「当たり前です! いくら嫌な思いをしたからって、殺すとかそんなこと思うわけない」

「ふうん。ま、ユディならそう言うだろうってのは折り込み済みだけどな。さて、それじゃあここからが本題なんだけど、ここの部屋って何かおかしくないか?」 

「部屋……?」


 エミリヤに短剣を突きつけながら、レイは首を回した。

  

 急な話題転換に戸惑いつつも、ユディもゆっくりと、目だけを動かしてそれにならう。

 部屋がおかしいと言われても、何がどうおかしいのかユディにはわからない。


「わからないか? じゃあ、天窓と、祭壇と、壁と、扉の位置をもう一度見てみろよ」

「…………? あ……、左右対称じゃ、ない……?」


 広い空間なのでわかりづらいのだが、よく観察すると、「祈りの間」は奇妙に歪んでいるのだ。

 前世で言う教会のように、扉を開いて入ってきたら、左右対称に長椅子が並べられていて、前方には祭壇があって、上には天窓があるという構造が本来のものであるはずなのに、左側部分が妙に狭くなっている。

 ユディの指摘に、レイは満足そうに頷いた。


「そこの壁が妙に狭いんだよな。でも、そこの部分にはきちんと空間があるはずなんだ。外から見るとわかりづらくなってるんだけどな。これを見つけるの、苦労したんだぜー、ほんと。で……すばり、そこに、何があると思う?」


 確かに外から見たところで、ただの壁にしか見えないだろう。

 扉も窓も何もない、ただの壁に覆われているだけなのだから。

 

「四方を壁に囲まれた部屋……マイルズさんが言っていた幽霊の話が本当だった……?」


 図書館建設中に、誤って閉じ込められた子どもの幽霊が出るという部屋。


 だが、そもそも幽霊話は『祈りの間』が不正の現場であることを隠すためにマイルズが吐いた嘘なのではなかったか。

 ユディの脳裏に、不意に例の噂話がよぎった。


 ————図書館のどこかに、禁書が保管されている、秘密の部屋があるらしい————。


「もしかして、ここに禁書が……?」

「やっぱりその噂知ってたんだな。ユディも禁書を探して図書館で働き始めた口かー。な、やっぱり俺たちって本好きで気が合うだろ?」


 プロポーズの時に「ユディも俺も本好きだしな」と言われたことを思い出したが、それは意味が違う——。


 だが、それを言う前にレイが大きく腕を振った。

 途端に、壁全体が光り輝き出す。

 

「魔法陣……!?」

「ユディなら、この封印、解けるよな?」


 目の前に出現した、壁全体を覆いつくすほどの巨大な魔法陣にユディは目を奪われていた。

 これまでに見たこともないほど複雑な文様をしている。


 大きさも、難易度も、桁違いなのは一目でわかった。

 首を横に振ろうとしてレイの方を向いたが、紺色の瞳にはかつてなく真剣な光が宿っている。


「色々試してみたけど、この封印はちょっとやそっとじゃ解除できる代物じゃない。せっかく苦労して図書館に潜り込んだっていうのに、参ってたんだぜ。このままじゃフリジアに手土産なしで帰ることになるからな。そんな時、あの飴玉を拾ったんだ。解読してみたら、中の魔法陣があり得ないくらい書き換えられてる。こりゃあ天恵だと思ったよ」


 ユディはごくりと喉を鳴らした。

 

「最初はユディのだなんてわからなかった。なんだこれって感じでさ。まさか、魔法陣を書き換えるなんて芸当をユディができるなんて思わないからさ」


 レイはいかにも可笑しそうだ。


「けど、ユディが王城に行っちまったことで、もしかしたらと思った。最初は半信半疑だったんだぜ? でも、その後で色々聞いたからさ……。魔導師団にも顔を出してる、とか」

「なんでレイ先輩がそこまで知ってるんですか……」


 ぞくりと背筋が凍るようだった。

 レイの情報網はどうなっているのだろう。


「極めつきは、さっきの模擬戦だ。もう確信したね。ユディなら、この魔法陣を書き換えて封印を解くことができるだろうって。さ、従妹ちゃんの命が惜しかったら、やってみせろよ」


 レイは、ユディがまさに禁書を探すためにこの世界に転生してきたなどということは知らない。

 偶然落とした飴玉から、少しずつユディの秘密を手繰り寄せて、ここまで推論したという事実が驚異だった。


「本気じゃないって思ってんのか? んじゃ、従妹ちゃんの指のニ、三本飛ばして……」

「やめて、レイ先輩! やる……やりますから! エミリヤを傷つけないで、お願い!」


 たまらず、ユディは叫ぶ。

 今更ながらレイがエミリヤもわざわざ一緒に連れて来たことに合点がいった。

 彼女の命を盾にされたら、言うことを聞くしかない。

 ユディの性格からして、エミリヤを置いて一人逃げることもできないことも予想済みなのだろう。


 一挙手一投足を、紺色の瞳が追っているのを感じながら、羽根ペンを召喚する。


 ペンを胸の前に掲げた時、不思議な感覚がユディを襲った。

 まるでずっと前からどうすればいいのか知っていたみたいだ。


「——禁じられた書物への道よ、我が前に開け——」


 初めての呪文が勝手に口をついて出た。


 羽根ペンの先端に小さな魔法陣が出現する。

 「開け」という文言だけの、これ以上ないくらい単純な構造のそれは、みるみるうちに壁の魔法陣と同じ大きさまで拡大していき、やがて壁を覆い尽くした。


 魔力がないはずの自分から、あり得ないほどの力が放出されていくのをユディはただ見つめた。

 違う、自分の力ではない。

 自分の体内ではなく、羽根ペンそのものから魔力が出ていることにユディは気がついた。


 これが「鍵」の力……。

 これは、この力は、神様の……?


 きっと——今この瞬間のために自分はこの世界に転生したのだ。

 誰に教えられたわけではないが、そう感じた。


 ぱあんと大きな破裂音が響き、壁から魔法陣が消滅する。

 驚いて目を見開くユディの前に、入り口がぽっかりと口を開けていた。


「壁の中に……部屋……!」


 まさに秘密の小部屋だ。  

 部屋の真ん中には台座があり、その上には一冊の本が鎮座していた。


 ハードカバーに金のエンボス加工。

 ユディの前世——山西悠里が、神様に翻訳を依頼された、あの本だった。

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