第39話 ロドリー兄弟
ニの区内の貴族の屋敷が立ち並ぶ一画に、スパノー侯爵の瀟洒な豪邸はあった。
近隣の邸宅よりも一際豪華な屋敷内で、シュテファン・ロドリーは、兄のジェラルドとともに侯爵の護衛の任に就いていた。
外庭を見回っていると、散りかけのヴィオランダの花が目に入る。
青紫色の花を眺めながら、同じ色の瞳を持つ幼なじみの少女のことを、つい思い浮かべてしまう。
先日、ユディがエミリヤを長年に渡り虐めていたという衝撃の事実が告げられた。
真面目そうな顔をして、実はとんでもない女だったのだ。
まさかとの思いはあるが、泣きながら虐めについて告白してきたエミリヤの言葉が虚偽だとは到底思えなかった。
ユディとの婚約破棄は、やはり正解だったのだ。
元々ユディと婚約したのは、親同士の意向によるものにすぎない。
社交的な自分と違って、家にこもって読書ばかりしている真面目なユディを一体どう誘っていいかわからず、一か月だけの婚約期間中には、逢い引きどころか手紙のやり取りすらしないままに終わってしまった。
いや、一応、シュテファンなりに歩み寄ろうと努力はしたのだ。
その青紫の瞳を、本ではなくて自分に向けてほしくて、わざと「つまらない本」と馬鹿にしてみたり、本なんか読んでも時間の無駄と言ってみたこともある。
地味な女だが、妻は貞淑であるべきとの価値観を信じるシュテファンにとって、派手な女は遊び相手だけで十分だった。
地味で、適度に教養があり、自分に口答えしない。
そういう意味では、ユディは理想的な相手だったのだ。
だから、行方不明になった兄が見つかった時は、正直複雑な心持ちがした。
これで爵位が自分のものになることはなくなったからだ。
ユディは良き妻になるだろうが、結婚したところで特に利点があるわけではない。
彼女と婚約破棄した時、ふと思った。
もしこの地味な女を本当に手に入れたければ…………いずれ愛人にすればいい。
真面目な少女が床の上ではどのように乱れるのか、それには興味があった。
シュテファンはまだ見習い騎士の身分だ。
実力が伴っているかは別として、彼自身は将来的に叙勲を受けて、正規の騎士として活躍していく自信があった。
だが、爵位を得て、領地とそれに伴う利権を手にするという夢は捨てがたい。
顔と体格に恵まれたシュテファンは、女性によくもてた。
実際は退屈しのぎにご婦人方に遊ばれているだけの場合も多かったが、自分が女性に不自由しないと勘違いしたシュテファンは、今度は彼女たちとの付き合いから得られる利益の方に目が向くようになった。
ご婦人と睦言を交わす中からは享楽は得られるが、爵位や名声は得られない。
いつしか、領地や財産といった愛とは無縁の事柄が、結婚の条件の最重要事項になっていった。
女性は掃いて捨てるほどいる。
それであれば、自分に何か利益をもたらしてくれなければ、付き合う価値などなかった。
それに、付き合いで始めた賭け事はここのところ負け続きだ。
負けを認めたくない、自尊心の高い貴族のお坊っちゃんがいいカモであることに気が付かず、いつしかあちこちから金を借りて首か回らなくなっていた。
金だ、金がいる。
そんな折、ユディの従姉妹のエミリヤが自分に声をかけてきた。
砂糖菓子のようにふわふわした可愛らしい少女が、ユディと婚約破棄した自分を責めてきたのだ。
だが、鈴のように震える声を聞き、潤んだ瞳でじっと見つめられるうちに、すぐにわかった。
——この女は、自分を好いている。
目まぐるしく利害を考えた結果、シュテファンはエミリヤに婚約を申し込んだ。
ユディの父はすでに亡く、エミリヤの叔父が現ハイネ男爵だ。
この女を妻にすれば、男爵位がいずれは転がり込むのだ。
ハイネ村は王都から離れた田舎だが、家屋敷はなかなかだし、実際には王都との二重生活になるはずだから、領地の利回りさえ良ければ、どのような田舎だろうが関係ない。
エミリヤは突然の申し込みに驚いていたが、戸惑いながらも、自分のことを以前より好いていたと告白してきた。
だが、付き合ってみてわかったのだが、エミリヤは我儘で気位が高く、手を出そうとしたら結婚前に身体に触れられるのは絶対に嫌だと拒んできた。
つまらん女だが、まあいい。
遊び相手はいくらでもいる。
そのうち自分のものになるのだから焦る必要はない。
いつの間にか、思考が遠くまで飛びすぎていたらしい。
ヴィオランダの木の下に小柄な少年が立っているのに気がついてはっと身構えた。
「やっと気づいた。護衛のくせに呆けすぎじゃないか?」
「なっ……曲者!」
奇妙な仮面を着けた、見るからに怪しい人物だ。
侵入者だと判断し、シュテファンは剣を抜き放った。
だが、少年は腰に差した剣を抜こうとせず、呆れたように腕を組んだだけだ。
「なるほど、おまえは戦場に出たことがないらしい」
もしもこの場にユディがいたら、これは一体誰だと言ったことだろう。
侮蔑の響きを隠そうともしない、冷気の籠もった声。
普段のハルとはまるで違う、戦士の佇まいだ。
ただならぬ少年の気配に威圧されそうになりながらも、シュテファンは虚勢を張った。
「な、何だと? お前は一体何を言っている!?」
「正規の騎士団員なら、ぼくのことを知らないなんてことないからね。おまえ、見習いだったっけ? もう少し上官について知っておかないとな」
「は……?」
一体何を言っているのか——。
「王弟殿下!? なぜここに?」
異変を察知し、ジェラルドが庭にやって来たのはその時だった。
木の下に佇む王弟に気がつき、その身を硬直させる。
「王弟……だと!?」
シュテファンは驚いて少年をまじまじと見つめた。
仮面の王弟の話はもちろん知っている。
指摘されたとおり、シュテファンはまだ魔物討伐にも出たことがなく、外国の軍勢と戦った経験もないひよっこである。
王弟については先輩たちからその華々しい活躍ぶりを聞いただけで、実際には見たことがなかった。
魔物討伐では騎士団員たちを見事に指揮し、剣でも魔法でも、ずば抜けた腕前——まさに歴戦の猛者だと話から、勝手に国王陛下のような筋骨逞しい若者を想像していたのだ。
まさかこんなに小柄で華奢な少年だとは思いもしなかった。
少年が、ロドリー兄弟に向かって、一歩踏み出した。
二人の騎士よりもずっと小さいのに、放たれる威圧感は手練の戦士のそれだ。
「いいことを教えてやろうか。おまえたちが図書館でやってた試験の不正は検挙されたよ。館長とお仲間のマイルズを捕まえたのはユディだ」
「何……!?」
シュテファンは思わずぽかんとなって、もう少しで剣を取り落とすところだった。
ジェラルドも口をあんぐりと開けている。
その顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。
「だ、騙したのか!?」
「そうだよ。彼女の演技、うまかったろ? 魔導師団副長仕込みだ」
謀られていたことを理解したジェラルドの顔は、事態の深刻さを察して、今度は蒼白になった。
「せっかく魔の森で助けてやったのに、命を大事にしないとは愚かだな」
ハルが剣の柄に手をかけると、びくりと身体を震わせる。
魔の森で見た王弟の剣の腕に、ジェラルドが敵うわけがない。
「冗談だよ。おまえのことは斬る気はない。いい証人になるからね。ぼくが叩きのめしてやらなきゃ気が済まないのはこっちの馬鹿のほうだ」
そう言うと、シュテファンの方に向き直った。
シュテファンは怪訝な顔になる。
会ったこともない王弟に、恨みを抱かれる覚えはない。
「……なぜですか? 俺が、あなたに何をしたと?」
「おまえ、ユディを突き飛ばしたんだろ?」
「は……」
シュテファンは呆気に取られた。
ユディを突き飛ばしたことを、なぜ王弟が知っている?
「シュテファン、それは本当か?」
非難の目を兄に向けられ、シュテファンは居心地が悪くなった。
「だからそれは……ユディがエミリヤを虐めていたと言うから……」
「そんな事実はない」
「だが、実際エミリヤがそう言ったんだ!」
「その子の方が嘘をついてないってどうしてわかる?」
「……ユディがエミリヤを羨んでいたのは事実で……。教科書を破られたと、エミリヤが見せてきたし、食事中にわざとぶつかられたって泣いてて……」
ハルは大げさに溜息をついた。
シュテファンの説明に、ジェラルドでさえ怪訝な表情になっている。
「ありえない。あれだけ本好きなユディが、どうして教科書を破ったりできると思うんだ? それに、ユディとエミリヤは寮で一緒の場所で食事してないって言ってたぞ。ユディは自分で作って部屋で食べてるけど、エミリヤは食堂で食べてるって。別々の場所で食べてるのに、どうやってぶつかるんだよ」
シュテファンの表情が揺らいだ。
ハルの説明は筋が通っている。
料理が得意なユディと違い、エミリヤは料理がからっきしだったはずだ。
だが、認めたくなかった。
「戯言だ! ユディがエミリヤを陥れるためにそんな事を言ったんだろう!」
「ユディは何も言ってない。彼女、おまえに突き飛ばされた時に転んで手首を捻って、すごく腫れてた。それでもおまえやエミリヤを責めるようなことは何一つ言わなかったぞ」
「…………」
もし、エミリヤのあの涙が嘘であったら。
今さらながら、突き飛ばした時のユディの怯えきった顔が思い浮かんだ。
「まあいいよ。じゃあ始めようか? 見習いのひよっこ相手に決闘っていうのも馬鹿らしいけど、けじめはつけなきゃいけない。手加減してやるから剣を構えろ」
「お待ちください、王弟殿下! 弟は未熟な身……! 自分のしでかしたことの重大さがわかっていないのです! どうぞ、ご寛大な処置を!」
「女の子には暴力を振るうのに、騎士同士だと勝負できないのか?」
ジェラルドの叫ぶような懇願に、ハルは痛烈な皮肉で返した。
シュテファンが剣を構え直して前に進み出る。
「ふん、兄上、ご心配は無用! 俺はやります」
ハルに対峙しつつ、シュテファンは自分よりずっと小柄の少年を侮る気持ちを捨てきれずにいた。
確かに多少は使えるようだが、先輩たちの話は大げさすぎるのではないか。
兄が必死の形相で止めに入ろうとするが、シュテファンはむしろ腕試しをしたい気持ちになっていた。
もちろん王弟の命を取ったりはしない。
少しばかり怪我をさせてやるだけだ。
「殿下、こう言っては何ですが、たかが女のためにここまで乗り込んでくるとは、少々大げさすぎませんか?」
「おまえは騎士道精神ってやつを何もわかっていないな。姫を守るために剣を取るのが騎士の夢。か弱い女性に手を上げるような男は、そもそも騎士になれないんだよ」
騎士たる資格なしと断じられ、シュテファンは怒りに顔を染める。
そのまま、勢いに任せて斬り込んだ。
ハルが剣を躱したところに、魔法陣を展開する。
その数、二つ。
「!」
土の魔法が発動し、ハルの足を木の根が絡め取る。
動きを止めたところに、もう一つの魔法陣が発動し、炎の玉が直撃する。
「やった!」
「——何がやったって?」
「なっ!? 馬鹿な!」
確かに炎は少年を直撃したはずだった。
にもかかわらず、まったくの無傷である。
火の粉を振り払い、ハルがシュテファンに近づく。
「騎士同士の決闘で魔法を使うなよ、阿呆」
ハルの剣が音もなく一閃する。
目にも止まらぬ速さで腕と足を数か所切り裂かれ、シュテファンが絶叫を上げる。
「うわあっ! 血、血がっ! 兄上、加勢してください!」
助けを求められ、ジェラルドが青い顔をして首を振る。
騎士同士の一対一の決闘は、親兄弟であっても決して邪魔をすることはできない。
ハルの剣は凄まじい速度で、打ち合うことも叶わない速さだ。
破れかぶれに剣を振り回すが、それで当たるわけがない。
「わかってたことだけど、口ほどにもないな、見習い君」
地面に突き倒され、頭をいやというほど打ち付けてしまう。
起き上がろうとしたところに、ハルの足で胸を踏みつけられた。
自分よりずっと軽いはずなのに、凄まじい重圧を感じる。
軋むような音の後に、骨の折れる音が続く。
肋骨が折れたのだ。
悲鳴が青空の下に響き渡る。
「もういいか……。これ以上やったら死んじゃうな。フェルに怒られる。おい、弟の手当てをしておけよ」
白目を剥いて横たわるシュテファンを冷たく見下ろすと、顔を覆っているジェラルドに向かって指示する。
もう、この兄弟に用はない。
返事を待たず、今度は屋敷に足を向けた。
働き者の王弟には、まだまだ仕事があるのだ。
不正の大元を捕らえるべく、ハルは指を鳴らしながら屋敷に足を踏み入れた。
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