第35話 それぞれのお家事情
「こちらがユーディス・ハイネ嬢の養い親、ガストン・ハイネに関する報告書になります」
ヴァルターから報告書を受け取ると、ハルは素早くそれに目を走らせた。
国王の執務室に置かれた円卓の向こう側にはフェルディナンドがおり、続く二本目の報告書に目を通している。
そちらはユディの元婚約者シュテファンの実家、ロドリー子爵家についての調査結果だ。
すべてに目を通した後、国王は簡潔に要約した。
「なるほど、ユーディス嬢とシュテファン・ロドリーを結婚させようとしたのは、そもそもこやつの浮気癖と浪費癖が原因なのだな」
「左様でございます」
先だってユディが王城に住まうようになって以来、フェルディナンドはユディの実家であるハイネ男爵家と、元婚約者の実家であるロドリー子爵家を徹底的に調査させていた。
その結果明らかになったのは、次男であるシュテファンの凄まじいまでの女癖の悪さと金遣いの荒さだった。
「どうも既婚者相手に火遊びが過ぎるようですね。まあ、遊んでいるというより遊ばれているんでしょうが……。調べがついただけでも、トライユ伯爵夫人、ミレー男爵夫人、それにそれらの屋敷の侍女などにも手を出しています」
報告書をフェルディナンドと交換して読み終えたハルも呆れたように言った。
「浪費癖は賭け事か。暇を持て余した貴族ってすぐ賭け事に嵌るんだな。それにしてもこれは酷い。あちこちに借金して、かなりの額になってる」
「元々ロドリー家としては、エミリヤ・ハイネとの縁談を進めて、シュテファンをハイネ男爵家に婿入りさせたかったようだな。ロドリー家としては厄介払いというところか」
素行の悪い次男坊をハイネ家に押し付ける算段だったのだろう。
それが、兄のジェラルドが行方不明になったことで計画が狂った。
放蕩息子が子爵家を継ぐことになったからだ。
「これを読むと、ユディの実務能力に目をつけていたってことか?」
「そのようですね。ハイネ男爵領の領地経営において、こちらがユーディスさんが担当していた仕事です」
追加資料として卓に置かれたのは、ずらりと数字が並ぶ財務諸表。
毎年、貴族から国王へ毎年提出が義務付けられているものだ。
それに、外国との取引の際の契約書やその翻訳、領内の農地管理表、住民情報といった数多の書類作成は、叔父がユディに手伝わせていたものだ。
ロドリー子爵としては、出来の悪い次男が家を継いで身代を食い潰しては敵わないと思ったのだろう。
しっかり者のユディをシュテファンの監視役にあてがうつもりだったのだ。
「ハイネ男爵と懇意にしていたロドリー子爵は、ユーディスさんの実務能力が優れているのを見抜いていたのでしょうね。ハイネ男爵の方はユーディスさんを過小評価しているので、嫁ぎ先が決まるならとすぐ了承したようですが」
「とんだ不良物件をつかまされるところだったわけだな」
「ええ。ジェラルドが戻ったことで、ロドリー子爵は胸を撫でおろしているでしょうね。おまけに、エミリヤがシュテファンとの婚約を自ら望んだので、図らずも当初の計画通りになったわけです」
「エミリヤは男を見る目がないな。じゃあ、ユディは嫌な思いはしたけど、結果的にはシュテファンとの婚約がだめになってよかったってことだ」
それなのにエミリヤは自分から駄目な男の元へ飛び込んだのだ。
むろん、同情には値しないが……。
「ガストン・ハイネ男爵がユディのお父さんから爵位を譲り受けたことについては、不審な点はないの?」
「これといってないな。手続きは正式に行われている」
真面目なユディを見ていれば、どんな両親だったのかなんとなくわかる。
不誠実な人間にころりと騙されるほど、愚直で善き人間だったのだろう。
「こちらがハイネ男爵領の最新の会計収支になります」
新たな資料を提出されると、ハルとフェルディナンドは同時に眉をひそめた。
「なんだこれ。火の車じゃないか」
「どういうわけだ? あの地域はここのところ豊作が続いて、台所事情は良いはずだがな」
「新規の商売に手をつけて失敗したようです。外国から安く商品を仕入れようと巨額の資金を投じたのに、取引相手に騙されて、商品が届かなかったようですな」
「売買契約は交わしたのだろう? その時点で気づかないとは……」
「こちらですね。かなり不備の多い内容で、万が一商品が入ってこなくても賠償請求できないようになっています」
ヴァルターの手にあるのは、ユディとハルが初めてヴィオランダの木の下で出会った時に風に飛ばされた、件の契約書だった。
ユディは契約書のチェックをした際に叔父に契約書の不審な点について進言していたのだが、新事業は儲かるとばかり思い込んでいた叔父に聞き入れられることはなかった。
結果として、大きな損失を出すこととなった。
ヴァルターの報告によると、ロドリー家の台所事情も近頃は芳しくない。
ハイネ家とロドリー家は、お互いがお互いの財を当てにしている状態なのだ。
そんなところにユディを関わらせなくて良かったと、ハルは心中で溜息を吐いた。
「ユディの新しい縁談相手は、金持ちなのか」
「マクミラン伯爵ですね。ええ、かなり裕福なようです」
「こうなってはハイネ男爵としては、ユーディス孃を金持ち相手に嫁がせて、その見返りに経済的援助を頼むつもりなのだろうな。それにしても、四十も年上の男に嫁がせようとは惨い」
「そんなことさせるもんか」
憤然となったハルだが、フェルディナンドは落ち着き払った態度で、さらりと爆弾発言を放った。
「だがどうする? お前がユーディス孃を王弟妃に迎えるとでも?」
ハルは一瞬言葉を失い、やがて苦悩するようにぽつりと告げた。
「ぼくは……結婚はしない。というより、できない」
「どうしてだ? お前は彼女を好いているものとばかり思っていたがな」
予想に反して、ハルは肯定も否定もしなかった。
本当はすでに、ユディに対する自身の気持ちを自覚していたけれど、想いを告げることは……できない。
「ハルトムート殿下、なぜですか? 殿下のお心を知れば、ユーディスさんは決して無下にはなさりませんよ」
これまでは決して人を側に近づけなかった孤高の王弟の変化は、国王をはじめとしてハルを知る者たちの驚きとなっていた。
ユディの世話を甲斐甲斐しく焼いているハルの姿は、本人は隠しているつもりなのか定かではないが、傍から見たらその好意は滲み出ているどころか噴出している。
ユディの方はいざ知らず、ハルにとってユディは特別な存在であることは明らかだった。
「万が一、ユディがぼくの気持ちを受け入れてくれたとして……」
ハルは首を一つ振ると大きく息を吐いた。
「想いを遂げて子ができたらどうする? ぼくの子なんて、どれほどの魔力を持って生まれてくることか……。愛した妃を死なせてしまうかもしれないのに、結婚なんてできないだろ?」
フェルディナンドとヴァルターははっと息を飲んだ。
同時にこの少年の心の傷の深さを思い知る。
レーア王妃は、結果的にハルを身籠ったことで亡くなったのだ。
それが、彼の恋愛観に大きな影を落としている。
「先祖返り」の血を色濃く受け継ぐハルである。
ほとんど魔力のないユディであっても、あまりにも強すぎる魔力を持つ子が胎内に宿ったとしたら、おそらく無事では済むまい。
それがわかっているから、ハルとしては踏みとどまるしかない。
「だが、想うことだけなら許される————と思いたいな」
愛する少女を想う切ない響きが、その声には込められていた。
ハルはふっと息を吐くと、何かを思い出したように妙にそわそわした様子になる。
「報告書はこれだけだね。じゃあぼくは行くよ」
不審な振る舞いにフェルディナンドが疑問を呈した。
「ハルトムート、どこへ行く?」
「別に、どこでもいいだろ」
「陛下、ハルトムート殿下はユーディスさんとデートのお約束があるんです。お忍びで城下町に行って、あれこれ店を見るんだそうですよ」
「言うなよ!!」
仮面に隠れて顔は見えないが、首筋が赤らんでいるようだった。
「なるほど、何やら浮かれていたのはそういう訳だったか。よし、ならば!」
先ほどまでの重苦しい雰囲気を払拭するかのようにフェルディナンドは勢いよく立ち上がると、自ら執務室を出ていって、隣室に控えていた側仕えに何事かを耳打ちする。
若い側仕えは、心得たとばかりにどこかへ走って行った。
「ハルトムート、出納係のところへ寄っていけ。女性に決して財布を出させてはならんぞ。……大金貨一枚あればよいか?」
フェルディナンドが出納係への書き付けを用意しようとして、ヴァルターが目を剥く。
「お待ちを。そもそも何をお買いになるつもりですか!?」
「えーっと、刺繍糸とレースと本」
「店中の刺繍糸を買い占める気ですか!? 大金貨では額面が大きすぎます。できるだけ細かいお金を出納係にもらうようにしてください」
「けど、レースなんかはそれこそ目玉が飛び出るほど高いものもある! ってユディが言ってたぞ」
「だとしても限度があります!」
大金貨一枚あれば、平民の家庭であれば一年間食べていけるのだ。
レースがいくら高いといっても、城下町にある一般市民向けの店で手に入るものの値段などたかが知れている。
人里離れて暮らしていたハルの金銭感覚は、もしやそれほど養われていないのでは、とヴァルターは急に不安になった。
それに、城下町に出るとなると懸念もある。
「殿下、ユーディスさんがハイネ家の者に見つかったらまずいことになるのでは?」
「ああ、それについては細作から連絡があったな。ハイネ家の者たちはまだ王都にいるそうだ」
王立学院に放った細作たちはいまだ健在だ。
エミリヤやシュテファンの挙動を逐一報告させているほか、ハイネ家からの使いの動きを知らせるよう命じてある。
「ハイネ家からの使いは城に来たのか?」
「来たけど、門前払いを食わせてやった」
「ユーディスさんは文官研修生として正式に城に迎えられていますからね。勝手に連れ出すことはできません」
文官研修生だからといって、実家に引き渡せないということもないのだが、ユディに関してはどこまでも特別扱いなのである。
そこへ、先ほどの側仕えが急いで戻ってきた。
「陛下、こちらです」
「おお、これはいい。見ろ、ハルトムート」
「おい……なんだよこれ!」
差し出されたのは、騎士団の制服。
王弟専用のきらびやかな意匠で、大きな腕章やら胸元の装飾やらがじゃらじゃらと輝いている。
「デートだというから急いで持って来させた。これを着て行け」
「行けるか! お忍びで行くんだぞ」
「お前は市民に顔が知られていないのだから大丈夫だろう?」
「だからって、こんなきらきらしいの着てったら目立ちまくるだろうが」
ヴァルターは例によってこめかみを押さえた。
王弟殿下が金銭感覚を養う必要があるというなら、国王陛下は常識を……、いや、何も思うまい。
そうして心を無にするヴァルターは優秀な臣下なのであった。
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