幕間:ハルとセラフィアン

「せらふぃあん、あれはなに?」

 

 夕暮れの中、家路を急ぐ人々を指差して幼いハルは問う。

 地平線に吸い込まれる直前の、ゆらりと肥大した太陽の光を浴びて、小さな村の家々は真っ赤に染まっている。


「おとうさーん! おかあさーん!」


 幼い子供が父母を呼ぶ声が空に響く。

 はいはいと応える両親の姿が、そこだけ明るく光っているみたいで、ハルは目を細めた。


「あれはね、家族っていうんですよ」


 セラフィアンがそう教えてくれる。

 白い髪をなびかせたハルの養い親は、人間ではない証の紅い瞳をハルに向ける。 


「じゃあ、せらふぃあんはぼくのかぞく?」


 そう訊ねると、セラフィアンはにっこりと笑う。


「ええ」

「……そっか」


 それならいい。


 たとえ、あの子供のように父や母と呼べる人がいなくても、何の問題もない。


 物心ついた時から、自分が「普通の人間」ではないことはわかっていた。

 ドラグニアの王族であること、出生の際の不幸な出来事など、セラフィアンは包み隠さずハルに伝えていたからだ。


 子供相手にも容赦なく真実を伝えるセラフィアンだったが、ハルはこの奇妙な養い親が好きだった。

 口は悪くとも決して嘘のないセラフィアンが、ハルの命を救い、護り育てているのがわかっていた。

 

 森の中の小屋に住まい、薪を割り、火種から火をおこし、川の水を汲み、野菜の苗を育て、獣を罠にかけて食料にする——そんな自給自足の生活を粛々と過ごした。


 魔法を使えば何でも楽にできるのはわかっていたが、ハルの魔力はあまりにも強く、コントロールが難しい。

 生活をするのにはもっぱら生身の力を使った。


「今度また、村に行きましょう」

「なにかかうの?」 

「ええ。塩や豆、砂糖もいりますね。そろそろ冬支度をしませんと」


 暖炉の火を反射した紅い瞳が、逆にちょっと薄くなり、橙色になって輝くのを見るのが、ハルは好きだった。


「ぼくもいっていい?」


 セラフィアンが頷くのを確認すると、ハルはほっとした。


 ハルの声には魔力が籠もっていて、聞く者の気分を悪くさせたり、場合によっては昏倒させてしまう。


 セラフィアンだけが使える不思議な術で、ほんの少しの間だけそれを抑えておけるのだ。

 人里に下りて、人間たちを観察するのは興味深かった。


 だが、セラフィアンの術もだんだん効く時間が短くなっている。

 年齢とともに、ハルの魔力が増大してきているのだ。


 セラフィアンは積極的にハルに剣術や魔法を教えた。

 それには、ハルの体内の魔力をどんどん放出させる意味もあった。


 セラフィアンは、たまに龍の姿に戻った。

 山の様な巨大な背に小さなハルを乗せ、遠くまで旅した。

 

 人とほとんど交わることはなかったハルは、人間に関する知識はもっぱら書物から仕入れた。

 慎ましい山小屋に住んでいても、セラフィアンは本だけはかなり潤沢に揃えてくれた。


 魔導書だけでなく、政治、経済、軍事にまつわる知識のほか、外国語も教えてくれた。

 ドラグニア語、フリジア語、ウェスリア語、ガルーニャ語、その他いくつかを覚えたハルは、渇いた大地が水を吸い込むかの如く、様々な本からあらゆる知識を吸収した。


※※※


 時は流れ、ハルは十五になった。


 ある日、セラフィアンがしばらくふらりといなくなり、帰ってきたときには銀色に輝く仮面を手にしていた。


「ハルトムート、これを着けて王都に行きなさい」


 自分の声に宿る魔力を抑えることができる魔封具だというそれを手渡されたハルは、戸惑いの表情を隠せなかった。


「……どうして、王都に行かなきゃいけないんだ?」

「おまえの兄、フェルディナンドがいるからです。これから先、彼にはおまえの助けが、そしておまえにも彼の助けが必要になるはずです」


 なんとなくわかるような、それでも曖昧過ぎる養い親の言葉に、ハルは肩をすくめた。


「兄ねえ……。どんなやつ?」

「善き男です。王都で何があろうと、彼はおまえの味方になります」


 セラフィアンはもうハルを王都に行かせることを決めてしまっている。

 こういう時の彼には何を言っても無駄だと、ハルはよく知っていた。


「セラフィアンはどうするの?」

「私はしばらく旅に出ます。やることがあるのでね。たまには王城にも様子を見に寄りますから。フェルディナンドにはすでに話はつけてあります」


 ここ数日いなかったのは、王都に行っていたのだろう。

 これまでずっと一緒だった養い親と離れるのに若干の不安がなかったわけではないが、自分はもう十五。

 泣き言を言うわけにはいかなかった。

 それに、異母兄弟にあたる国王フェルディナンドには興味があった。


「これを渡しておきます。もし王都で大事な人ができたら、ここぞという時にあげなさいね」

「それってどんな時だよ? これ、女物に見えるんだけど」


 セラフィアンがハルの手に押し付けたのは、細い白銀の鎖だった。

 紅玉が一つだけついていて、長さからして首にかけられるようになっている。


「おや、私は養い子を女性嫌いに育てた覚えはありませんよ。宝飾品を贈るというのは愛の告白の時に決まってるじゃないですか。王都でどんな出会いがあるかわからないんですよ? 贈り物の一つでも用意しておきませんとね」

「女の子ね……あんまり興味ないけど、まあ、一応もらっとく」


 セラフィアンは「情けない」と首を振っている。

 この養い親は、本当にずけずけ物を言うのだ。

 つられて、ハルも自然と歯に衣着せぬ物言いが染みついてしまった。


 セラフィアンの深紅の瞳を想起させる、とろりとした美しい紅玉を摘んで持つと、片眉を上げた。


 ドラグニアでは、赤は愛を意味する。

 恋人や伴侶へ贈り物をするときには、赤が定番だ。


 こんな華奢な首飾りが似合うような、可憐で素敵な女の子に出会うことなどあるだろうか?

 そもそも、誰かに対して愛を感じることなどあるのだろうか。


 半年後に運命の出会いが待ち受けていることも知らず、その時のハルは、懐疑的にそう思うだけだった。

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