第29話 ハルの事情
その後もしばらくハルを相手に、魔法陣の「乗っ取り」訓練を続けた。
「うう……もうだめ……集中力がもたないわ」
「無理しないで。ここまでにしておこうか」
書き換えには魔力をほとんど使用しないとはいえ、出現する魔法文字を瞬時に解読するのは、慣れないうえに神経が磨り減る。
実のところ、膝が立たなくなりそうなほど消耗していた。
塔の外壁に背を預けて、思わず座り込んでしまう。
ハルは片手を振り、中空に保持していた魔法陣を消失させると、ユディの隣に腰をおろした。
「ハル、気になってることがあるんだけど」
「どうしたの?」
「その……王城に来てから、なんで今まで会いにきてくれなかったのかなって……」
「ああ……」
ハルは苦虫を嚙み潰したような表情になる。
「ぼくと親しいと、ユディの研修がうまくいかないんじゃないかって思ったから。ぼくの噂、聞かなかった? 呪われた声の王弟とか、本当に先王の子かわからないとか、人間かすらあやしいとか、言われまくってるでしょ。ぼくと親しくしていると、ユディの評判まで悪くなる。表立って仲良くしないほうがいいかなって……」
諦めたような、どこか失望したような疲れた色が、ハルの顔に広がっていく。
ユディはといえば、今朝ジャンが話していた王弟についての噂話を思い出し、憤然と頬を膨らませていた。
「……嫌よ、そんなの。わたしは王弟殿下付きの外交官を目指して、文官になろうと思ってるんですからね! ほかの人の目を気にしてハルと親しくしないなんて本末転倒もいいところだわ!!」
ほとんど叫びに近い声に、ハルは膝を抱えて、しばらくそこに顔を突っ込む。
やがて顔を上げると、そこには満面の笑みがこぼれていた。
「実は、ユディならそう言ってくれるような気がしてた」
「当然よ!」
「とはいえ、さっき中庭からきみを攫っちゃったからね、もうどっちみち手遅れなんだけど」
「みんながハルみたいに目がいいわけじゃないのよ……」
先ほどハルが飛竜で中庭に降り立ったのは、さぞかし目立っていたことだろう。
だが、建物からはかなり距離があったから、ハルはともかくユディのことまでは判別できないだろう。
それに、もし、竜に乗っていったのがユディとハルだとわかってしまったところで、そんなのは些事だと思った。
これまでユディは、ハルの生い立ちや素性からは一歩引いていたところがある。
自分のことでいっぱいいっぱいだったのもあるし、なんとなく触れてはいけないことのように思っていたからだ。
でも、もう遠慮したくなかった。
ハルのことをもっと知りたい。
「ハル……わたしに、もっとあなたのことを教えてくれる?」
「ユディ……」
星色の瞳が見開かれる。
やがて、こくりと頷いた。
「きみが望むなら」
慎重に言葉を選んで、気になっていたことを聞いていく。
「わたし、ハルについてほとんど何も知らないって気がついたの。ほとんどの国民がそうだと思う。なぜ王弟としてお披露目をしないの?」
「この仮面姿じゃあね。民を怖がらせるだけだし、外国の使者を呼んだりしても素顔で話もできないと失礼になっちゃうし。逆に心証悪くなるのがわかってて、意味ないかなって。フェルの顔にも泥を塗ることになる」
「でも、のど飴は? どうして使ってないの?」
ハルには十分な量ののど飴を渡してある。
だが、国王と食事するのに使っただけで、ほかには積極的に使おうとしていないのが気になっていた。
「本当に必要な時に取っておいてる、かな。使いすぎて効果がなくなるのが怖いっていうのもある」
薬の摂取のしすぎ……みたいなことだろうか。
よくわからないが、そういうこともあるかもしれない。
「そもそも、この仮面だってそうなんだよ。一時的なものっていうか、いつ効力がなくなるかわからない」
「どういうこと?」
「ぼくの魔力、だんだん強くなってるんだ。いつまでこの魔封具で抑え込めるかわかんないってこと」
「え……じゃあ抑え込めなくなったら……?」
「さあ、どうするかな」
ハルは肩をすくめた。
ユディは腕につけている守護の腕輪に目を落とす。
ほかの人のために、これを量産することはできない。
媒体となる守護の石が手に入らないし、作れたところで二、三個では話にならない。
もっと、根本的な解決策が必要だ。
王城でハルが置かれた立場がどういうものかわかってくるにつれ、自分にしてあげられることが少なすぎて、気持ちばかりが焦る。
「……書き換えの魔法をもっと練習したら、もしかしたらハルの声を抑えるもっといい方法が見つかるかもしれない。そしたら、わたしが文官になった後にハルのお披露目会を取り仕切ってあげる」
「うん……楽しみにしてるよ」
文官になれたとして、まだまだ先の話だ。
無力な自分が歯がゆい。
「ハルはどうして、城から離れて暮らしてたの?」
「そうだよね、まずそこからだよね……」
ハルは髪を無造作にぐしゃりと掴んだ。
それから、語って聞かせてくれた。
先王ヴィルヘルムの第二王妃レーアが妊娠した際、魔力過多の胎児——ハルを胎内で凍結して、そのまま二十年間もひそかに身籠っていたこと。
出産のときに、亡くなられたこと。
「レーア王妃様……なんてお強い方だったんでしょうね」
「強い人……だったんだろうね。それこそ胎の中に赤ん坊を入れたまま、二十年も過ごせるような人」
「二十年……さぞかしご無念だったでしょうね」
「こんな赤ん坊産まなきゃよかったって?」
自嘲気味に笑うハルに、ユディは静かに首を降った。
「逆よ。お亡くなりになる前に、一目でいいから我が子を見て、その手に抱きたかったはずよ」
レーア王妃は我が子を心から愛していたに違いなかった。
そうでなければ二十年の歳月をかけて胎内で大事に守ったり、命がけで出産などできるわけがない。
ユディの言葉に、ハルは思わず目を臥せる。
これまで飄々として見えたその顔には、初めて辛そうな表情が浮かんでいた。
——自分に何か、ハルを元気づけられることができないだろうか?
そう思ったら自然と手が動いていた。
「……何してるのさ」
「えっと……なでなで?」
ハルの頭を思わず撫でてしまったユディである。
じろりと睨まれてしまい、笑おうと思ったのに、どうしてかどきりとしてしまい言葉が出てこない。
星色の瞳が鋭くユディを見つめる。
「なんで撫でてるの?」
「……えっと……その、慰めてあげたくて」
「ふうん?」
面白くなさそうに、ハルはユディの手首を掴んだ。
どうしよう。
元気付けようとしたのに、逆に不機嫌にさせてしまったみたいだ。
「ぼくのこと、年下だと思って馬鹿にしてる?」
「そんなこと……、っ、きゃあ!」
言い返そうとした言葉はみなまで言えなかった。
頭を触っていた手をぱっと取られ、そのままぐいっと引っ張られる。
バランスを崩して倒れ込むところを、ハルが腕を伸ばして抱き止める。
一瞬のうちに、ハルの腕の中に囚われてしまったユディは身体を強張らせた。
「な……ハル!? こんなところで何するのよ!」
「じゃあどこだったらしていいの?」
ああ言えばこう言う。
男性慣れしていないユディは、それだけで動揺してしまう。
「ユディって、ぼくのこと男だと思ってないでしょ。だから髪にだって躊躇なく触れてくる……。
————そういうのを、無防備っていうんだ」
言うなり、掴んだままのユディの手首を引き寄せ、手の甲に唇を押しあてた。
軽く触れるだけのキスだったが、心臓がどくんと音を立てて跳ね上がる。
「な……ハル!?」
「慰めてくれるならこっちの方がいい」
頬を真っ赤に染めたユディはハルを押しのけようとするが、その身体はびくとも動かない。
もがくユディの目の前に、端正な顔が迫る。
「え……」
ハルの唇が、ユディの頬を優しく
「ハ、ハハ……」
「母の話? もういいよ。ユディに聞いてもらって、なんだかすっきりした」
「じゃなくて!」
焦るユディを、冷たい星の光を放つ瞳が射竦めた。
心臓が早鐘を打ち、身体が動かなくなってしまう。
再度、ハルの顔がユディに近づいてくる……。
————ま、また、キスされる……!?
ぎゅっと目を瞑ったユディだが、予期していた口づけは一向に触れてくる気配はない。
やがて、ポンポンと頭を軽く叩かれる。
片目をそろりと開けると、今さっきまでの怖い雰囲気はどこへやら、笑いを堪えたようなハルの顔。
「ユディ、きみの顔ったら……」
「あ……からかったのね! 酷いわ」
憤慨するユディだったが、ハルににっこりと微笑まれてしまう。
「大丈夫、これ以上は何もしないよ。……今日は」
今日は!?
ということは今日以降にはどうなるのか。
ハルのにこやかな微笑みが急に怖く思えてくる。
いや、これはただの冗談に違いない。そう、冗談。
痛いほど高鳴った胸の鼓動は、まだしばらく収まりそうもなかった。
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