第22話 文官のお仕事体験
ユディの日常は一気に忙しくなった。
フェルディナンドの言葉通り、王立学院からは文官を目指す優秀な生徒たちが登城し、あちこちで手伝いに駆り出されていた。
研修期間は、一月ほどだ。
それが終わると、すぐに今年の採用試験がある。
小鳥寮では、文官を目指す生徒のための研修制度があるなどということは微塵も聞いたことがなかったが、小鳥寮から文官を目指す生徒自体いなかったことを考えると、仕方ないだろう。
もっとも、国政に関わるべく希望に燃えてやってきた若者たちは、世の中はそれほど甘くないという現実に直面していた。
すぐに重要な仕事を任せてもらえると思っていた彼らは、実際にはちょっとした会議の準備から、経理書類の数字の確認まで、ありとあらゆる細々した仕事を頼まれている。
さながら大企業の学生インターンというところだ。
文官になれるのは貴族の男子生徒ばかりと聞いていたので自分はさぞかし浮くだろうとユディは覚悟していたのだが、慣れない仕事に奔走する男子生徒たちはぽっと現れた女子を気にかけている余裕すらなかった。
それどころか頭数が増えたことを喜ぶほどで、ユディの存在は特に取り沙汰されることなく、すんなりと仕事に加わることができた。
ユディを研修生に加えるという連絡は、王城から学院側にしてくれたらしい。
実家のハイネ家にも、同じ連絡が行っているはずだ。
叔父はさぞかし驚いたことだろう。
だが、マクミラン伯爵との縁談がこれで立ち消えになるとは考えにくい。
研修生になるなど許した覚えはないと、叔父がユディを連れ戻しに王都までやってくる可能性も否定できなかった。
ユディとしては、できることなら、一度小鳥寮に戻って寮母さんやラウリ先生に挨拶をしたかった。
お手伝いをしている王立図書館にも何も連絡しないまま身を隠してしまった。
プロポーズまでしてくれたレイ先輩にも何も言わずに来てしまったのも、気になっている。
だが、城下に戻ればいつハイネ家の者に出くわすかわからない。
見つかったら面倒なことになるに決まっている。
ユディとしては、しばらく王城から出る気はなかった。
それに、エミリヤとシュテファンにもしも会ったらと思うと……身が震えた。
ドレスを着たのは、結局、国王に拝謁したときのただの一度きりとなった。
汚れた制服をきれいに洗濯して、いつも通りにそれを身に着けることにしたからだ。
ドレスは素敵だが、ひらひらした服では実務に不便なだけである。
ただ、おさげはやめることにした。
研修生となっても、女官たちはなぜかユディの女子力を磨きたがり、風呂上がりに必ず髪に香油を振ってくれるので、長い黒髪は艶を増し、おさげにせずともさらりとまとまるのだ。
王城内には研修生用の仕事部屋が用意されていて、ユディは毎朝、滞在している部屋から「出勤」しているのだが、衣食住の心配がないというだけでも、生活面ではすこぶる順調と言えた。
「ユディ、この書類確認してくれるか? 合計の数字が合わないってヴェリエ卿から返ってきちまった」
「はい、すぐ見ますね。あ、あと明日の昼の会議は軽食を手配しておきましたから。人数は十名から十五名に変更でしたよね?」
「悪い、助かる……」
ヘトヘトと椅子に座り込むのは、一つ年上の男子生徒、ジャンだった。
前情報とは裏腹に、研修生は平民出身者や貧乏貴族が多かった。
ジャンはユディと同じような男爵家の出身で、王立学院の男子寮から毎朝登城している。
ユディは書類をめくり、見当をつけたところから効率よく確認を進める。
間違いはすぐに見つかった。
単純な計算ミスで、大きな問題に発展することはなさそうだ。
全体をざっと計算し直し、書類に付箋をつけて返すと、ジャンは目を見張った。
「ユディはどうしてそんなに書類仕事が早いんだ!? 俺だってわりと細かい作業が得意な方だと思ってたのに……」
「実家の手伝いをしてたから。単なる慣れですよ」
「だとしても、すごいぜ。契約書なんかもスラスラ読めるし、俺たち研修生の中で一番仕事ができるのって、もしかしてユディなんじゃ……」
「まさか!」
ユディは首を振った。
男子生徒のように、王立学院で専門的な勉強をしたことがないユディである。
確かに実務には慣れているかもしれないが、それだけである。
……今の時点では。
国王との謁見の後、ユディは猛勉強を始めていた。
もともとの予定では、今年は採用試験を受けるつもりはなかった。
来年まで、一年かけてじっくり勉強しようと思っていたのだ。
だが、もはやユディには時間がない。
ぐずぐずしていたら、マクミラン伯爵に嫁がされてしまう。
普通は、採用試験は、学院の卒業直前に受験する。
けれど、歳が若くても合格すれば、いつでも見習いとして働き始めることができるのが、文官採用試験の特徴だ。
採用になっても、見習い期間中は、学校と両立するのが通例だが、ユディの場合、叔父がいつ乗り込んでくるかわからないので、もし合格できたら退学するしかないだろう。
さらに、ドラセス語の習得にも励んでいる。
王宮の書庫には、本当にドラセス語の本がたくさんあった。
まさかハルが王城に住んでいるとは思わなかったため話半分に聞いていたが、以前言っていた「うちにあるかも」は掛け値なしの話だったのだ。
特別に許可をもらって書庫の希少本の棚の鍵を手に入れたユディは、とうとう念願のドラセス語の書物に触れられるようになったのである。
しかし、読める者がいないというだけあって、辞書もない。
見たこともない文字で綴られた古代の書物を前にして、最初の数時間は、ただ呆然とするのみだった。
古代語というのは、現在のドラグニア語と何か似通ったところかあるのかと思ったが、それもない。
ユディの知っている周辺諸国のどの言語ともまったく違う、奇妙な言語体系に思えた。
そのままいくつかの書物をただ眺めているうちに、とある言語が頭に思い浮かんだ。
「これ、魔法言語に似てるんだわ」
よくよく見ていくと、魔法陣に描かれる魔法言語と、目の前の書物に書かれている文字に、特徴的な共通点がある。
すぐに文字の形が似ているものを拾い上げて、紙に書きつけていく。
遥か昔に神々が使っていたというドラセス語と、神の力とも言える魔法を使用するための魔法言語に共通点があるというのは、考えてみれば納得できる話である。
魔法言語とドラグニア語の対訳については、魔導師団で日々研究されているので、書きつけたものを辞書や解説本を参考にしながら、少しずつ読み解いていった。
地道な作業だが、ユディには苦にならない。
夜遅くまで書物を読みふけり、ドラセス語の書きつけはいつしかかなりの分量になっていた。
ただ、翻訳を依頼された禁書のありかについては、依然杳として知れなかった。
王城の書庫にあるのではと、一縷の望みをかけていたのだが、司書にそれとなく聞いてみても、怪訝な顔をされるだけだった。
魔導師団にも顔を出している。
ヴァルターの計らいで、基礎から少しずつ魔法を学び始めているのだ。
それというのも、「書き換え」の魔法は相変わらず不安定で、思ったようには発動しないからだ。
魔法への理解が足りないことが不発の理由の一つだということで、ユディはヴァルターに弟子入りしたような形で特別に授業をしてもらっている。
午前中は文官の研修、午後には魔導師団で魔法の修行、夕方からは書庫に入り浸って専門知識の勉強に、夜にはドラセス語の解読。
ユディの一日は多忙を極めていた。
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