第18話 そして、お城へ
「誤解が解けてよかった。じゃあ、龍の神殿に連れて行ってくれる?」
「いいけど……どこの?」
「どこのでもいいわ」
ハルは首を傾げた。
「神殿でお祈りでもするの?」
「ううん。尼になるの」
「なんでまた突然!?」
「縁談が決まって……」
「何!?」
馬車の中なのにも関わらず、ハルは思わず立ち上がりかけた。
「誰との縁談だって!?」
「マクミラン伯爵っていう、四十も年上の方の後妻にって……。もう家からの使いの者がこちらに向かってるみたいで、すぐ逃げないと。見つかったらその人と結婚させられちゃう」
「そうだったのか。マクミランね……」
ハルの凍てついた声色に、馬車の中の温度が急激に冷える。
「レイ先輩が同情してくれて、色々と提案してくれたけど、やっぱり迷惑かけるわけにいかないから」
「先輩が何だって?」
「縁談を断るために結婚しようって」
「なにい!?」
そういえば、レイはもう一度夜に来てくれると言っていた。
その時に返事を聞かせてほしい、とも。
幽霊騒ぎで出てきてしまったが、図書館に戻るべきだろうか。
「そうだわ、レイ先輩と約束があったんだった。申し訳ないけれど、もう一度図書館に戻ってくれる?」
「だめ」
「え?」
「だめったらだめ!」
「ええー? どうしたのよ、一体」
「あの先輩は、だめ」
ハルは拳を握りしめる。
だが、今しも放たれようとしていた言葉は、そのまま心の中に沈められてしまった。
「いや……。そうだ、文官になるっていうのはどうしたのさ。諦めるの?」
「そうね……。エミリヤが勧めてくれたんだけど、どうやら本心からの言葉じゃなかったみたい。それに、受験のための推薦状も、どの先生にも書いてもらえなかったの。過去問題も、小鳥寮生には必要ないって言われて手に入れられなかった。さすがにここまでだと、諦め気分になってくるわ」
「だけどユディの気持ちはどうなのさ? 受けたいの、受けたくないの?」
「正直、わからなくなってる」
「そっか……」
ハルは、少しの間考えるような様子を見せる。
それから、ユディに向き直った。
「ユディ、ぼくと一緒に来ない?」
「ハルと一緒に……?」
「そう。王城にしばらく滞在して、文官の仕事を見学してみたら? ぼくの方も、ユディの書き換えの魔法にすごく興味があるし、正直、声のことがあるから来てくれたら助かる」
王城に滞在!
おそれ多い発言にユディは縮み上がる。
「もちろん、ずっといなきゃいけないわけじゃない。あくまで、身の振り方が決まるまでだ。きみの魔法はやっぱり普通じゃないよ。城には魔導師もたくさんいるから、魔法の基本も教われるし、研究も進むと思う。ユディの『書き換え』で、どんなことができるのか、もっと知りたくない?」
「それはそうだけど……」
「ぼくはね、ずっと城にいるつもりはないんだ。今は事情があってルールシュにいるけど、本当は外国をあちこち見て回りたいって思ってる」
「え?」
突然の話に、ユディは目をしばたたかせた。
ハルが何を言わんとしているか、よくわからない。
「王弟なのに、お城にいなくていいの?」
「だからさ。城と国民に縛られている王の代わりに、見聞を広めに行くの。ユディ、文官になって、王弟付きの外交官をするのはどう? 外国語に堪能なんでしょ? 声のことも、ユディがいてくれたらなんとかなるし」
「外交官に……」
まさにエミリヤと話していた、夢のような話だ。
「もちろん今すぐに外遊ってわけにはいかないけど。ぼくもまだ城でやることが残ってるし、ユディも文官になりたいなら、公正に試験を受けてもらうことになる。勉強もたくさんしないといけない。でも、ぼくはユディならできるんじゃないかって思ってる」
心地の良い声が、ユディの心に静かに響いていく。
「——と、ここまではぼくの希望。今度はユディが話す番だよ」
星色の瞳が優しくユディを見つめる。
「ユディのこれからやりたいことは何? 文官を目指すのであれば、『なりゆきで』じゃ無理だよ」
ユディはどきりとした。
最初は、エミリヤに無理やり勧められた形で受験しようと思ったのだ。
まさに「なりゆきで」だ。
自分でもそう思っていたし、心のどこかでそれを言い訳にしていた。
無理やり勧められたから。
人に向いていると言われたから。
自分でこうと決めて、絶対にやり遂げようと決意したわけではない。
ハルには、ユディの中途半端な決意を見抜かれていたのだ。
これまで、本当に心からやりたいことに向かって、わき目もふらずに懸命に努力したことがあっただろうか?
何事にも中途半端な、「宙ぶらりん」のユーディス・ハイネ。
もう、変わらなければならなかった。
「わたしの、本当にやりたいことは……」
自分で自分に問いかけてみる。
前世では、山西悠里は翻訳者だった。
思えば、翻訳者になったのは、得意な語学を活かせるなら、何でもいいという部分もあった。
語学を活かすのであれば、ほかの道だってあったのだ。
外資系企業で働く道や、日本の会社で外国語の事務をするという選択肢だってあった。
だけど、悠里はそのどれも選ばなかった。
それは、やっぱり翻訳が好きだからだ。
文字の海に飛び込んで、その意味を探る。
目的に合わせてわかりやすく翻訳した文書が、誰かの役に立つ——。
人の仕事や、楽しみのための仕事。
どこかの誰かが、この世界とほかの誰かとわかり合うための、ほんの少しの手助け。
「やりたいことは……それしかできないからじゃなくて……得意だからでもなくて……」
レイは、図書館で夫婦共働きをしようと誘ってくれたけれど、図書館で働くことがユディの最終目的だったわけではない。
この世界に転生した元々の理由は、禁書を翻訳するという、神からの依頼を遂行するためだ。
それは、やはり翻訳が好きだと、未知の文字の世界に飛び込みたいと思うユディの希望と合致していた。
転生してから、この世界でも語学を勉強したのは、「新しい世界のことを知りたかった」からだ。
ハルと一緒に、あちこち旅してみたい。
知らない国の文化に触れてみたい。
それはきっと、いつか出会うはずの禁書を翻訳する助けになるはずだ。
それに……できることなら、ハルの手助けをしてあげたかった。
神から授けられた書き換えの魔法がどの程度役に立つかは正直わからない。
けれど、魔力に満ちた声に苦労するハルを、少しは助けてあげられそうだ。
そのために——文官になりたい。
もう、中途半端は——「宙ぶらりん」はやめる。
ユディは、顔を上げる。
青紫の瞳には意志の光が宿っていた。
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