第16話 幽霊との遭遇

 痛む手首を気にしながら、ユディは図書館にたどり着いた。

 あまり目立ちたくないので、知り合いの職員たちの目に止まらぬよう、目当ての本を探す。

 

「あったわ、これね。『ドラグニア王国 王族年鑑』」 


 初代ドラグニア国王リューネシュバイクから、現国王フェルディナンドまでの、十七代に渡るドラグニアの全国王の名前や系譜の書かれた本である。


 ユディは本を持って、人目につかないようこっそりと地下の閉架書庫に降りると、慎重に現国王フェルディナンドの頁を開いた。

 

 国民に愛されるドラグニア王族の年鑑は、人気のある本だ。

 外見上の特徴も、髪や瞳の色から、身長や体型なども載っているのが興味深い。

 さらに、本物とどれほど似ているのかはわからないが、姿絵も付いている。


 ユディは貴族が好きではないし、王族に対しても興味を持ってこなかったのだが、今日は別だ。


「焦げ茶の髪に瞳……巨躯の獅子を思わせる立派な御姿……」

 

 震える指で次の頁をめくる。

 そこには現国王の王弟の項目が、新たに書き加えられたばかりのようだった。


 紙の印刷技術が発達しているドラグニアだが、それでも前世のように気軽に印刷機を動かすことはできない。  

 重要な項目に変更があった場合、印刷が間に合わず、手書きで差し込みの頁を入れることもある。 


(王弟ハルトムート……。先王とレーア王妃との間に生まれた……現国王とは異母兄弟。諸事情により王宮を離れていたが、昨年王宮に戻る……。そうだわ、確か学院でも一時話題になっていた。急に王弟が王宮に戻ったとかって……病弱だから人前に出られないとかで、国民にはお披露目も済んでいないのよね……。外見の項目は空欄で、姿絵もなし)


 懸命に文字を追う。

 腫れている手首は、利き腕の右手だ。

 反対の手でぎこちなく本を支えながら、なんとか集中する。


(王弟ハルトムート……ハル……なの?)


 痛みで思考がまとまらないまま、さらにパラパラと頁をめくる。

 

「リューネシュバイクも姿絵はなし……。そうよね、伝説の人物なんだもの。黄金の髪に星色の瞳をしていたと伝えられている、か……」


 彫刻のようなハルの端正な顔が思い浮かぶ。

 そういえば、ハルも並外れて美しい金髪に星のような銀色の瞳をしている。


(リューネシュバイクの外見上の特徴と同じ……? いえ、きっと偶然よね。あら、これは……?)


 ユディの指が、ある項目でぴたりと止まる。

 ありえない人物の姿絵がそこにあった。 


(この姿絵……神様!?)


 ユディの前世、山西悠里をこの世界に転生させた妖精——もとい神様の姿がそこに描かれていた。

 間違いようもない、真っ白な髪に深紅の瞳。

 

(ドラグニアの国王が神様? 名前は……『セラフィアン』! 嘘、なんで……?)


 ユディは今度こそ腰を抜かさんばかりに驚いた。

 セラフィアンは遥か昔に生きた龍で、リューネシュヴァイクと同様、伝説の存在だ。

 

(龍としての姿は……大きな翼を持つ銀色の龍……。人としての姿は、雪のごとく白い髪に、紅き瞳。龍は人化できるんだわ)


 王族年鑑に載っているのがなぜだかわからなかったけれど、よくよく見ると最後の付録のような頁で、王族とは分けられている。

 これまで王国の危機に現れ、王族や国民に助言を下したとされる、神のような、いと高き存在——。

 

「何してるんだ、ユディ?」

  

 急に声をかけられ、危うく飛び上がりそうになる。  

 気配もさせず後ろにいたのは、レイだった。


「こんな奥まった所で何やってるんだ?」 

「いえ、ちょっと……」 

「おいおい、その荷物どうした? まさか家出でもしたんじゃないだろうな」


 茶化して言うレイだが、思わず押し黙ってしまう。

 図らずも本当のことを言い当ててしまったレイは顔色を変えた。


「えー! マジかよ! 家出するなんて、何考えてるんだ!?」

「大きな声を出さないでください! 縁談が決まったんです。四十歳年上の男性と」

「それで逃げるって?」


 ユディは無言で肯定を表した。

 レイは大きく溜息をつくと、寝癖のついた錆色の髪をぐしゃぐしゃとやる。


「……今夜一晩だけなら、作業部屋の鍵を貸してやるよ。警備の人には話しておくから」

「レイ先輩……」


 匿ってくれるなんて思っていなかったユディは心底びっくりした。 


「けどな、明日には家に戻れよ。縁談が嫌だって言っても仕方ないだろ? ユディは一応貴族なんだし」

「明日には神殿に行きます」

「なんでだよ。尼にでもなるのか?」

「ほかに考えつかなくて……」

「マジかよ! はぁ……じゃあ、ユディを正式に図書館で雇ってくれるよう、俺が館長に掛け合ってやるからさ。マイルズにも手伝ってもらって、な? 早まるなよ」

「でも、すぐに実家から迎えが来てしまうんです。連れて帰られたら、もう……」


 焦りが先に立って、頭がぐちゃぐちゃになってくる。


「落ち着けって……」


 不意に肩を掴まれた。  

 顔を上げると、大きな眼鏡の奥の紺色の瞳がユディを捉えていた。


「なあ、俺がユディと結婚しようか?」

「えっ……ええ!?」

「そしたら実家に戻らなくて済むだろ? 図書館職員の妻じゃ、贅沢はさせてやれないけどな。学校は辞めてもらうことになるけど、図書館で夫婦共働きってのも悪くないだろ」

「レイ先輩……」

「自分で言っててなかなかいい話だと思うぜ。ユディも俺も本好きだしな」


 おどけているが、紺色の瞳には真剣な光が宿っている。

 ユディは心臓がどきりと打つのを感じた。


「まあ、考えとけよ。もう閉館時間になるしな。ユディは作業部屋に隠れてろ。夜に何か食べる物持ってきてやるから、よかったらその時に返事してくれよ」


 少し照れたように寝癖頭を掻きながら、レイは行ってしまう。

 ユディはしばし呆然となった。

 

(レイ先輩と、結婚——?)


 思っても見なかった申し出に、ついその場に立ち尽くしそうになるが、そうもしていられない。

 ユディは鞄と王族年鑑を抱え、作業部屋に身を滑りこませた。


「誰か掃除してくれたのかしら」


 先日、ハルと一緒に来たときには、作業部屋には所狭しと本が積み上げられていた。

 本棚にも修繕予定の本が詰め込まれていたのに、今は空っぽだった。


 そういえば、のど飴を本棚の隙間に転がしてしまったことを思い出す。

 掃除のためか、本棚は奥に動かされ、床はきれいに掃かれた後だった。

 のど飴は影も形もない。


「捨てられちゃったのね。それはそれで仕方ないわね」 


 誰かに拾われたとしても、あんなちっぽけな飴玉の魔法陣が書き換えられているなどと気がつく人はいないはずだ。


 ——疲れた。

 もう立っていられない。


 椅子に座ると、倦怠感がどっと押し寄せてきた。

 長袖をそっとめくると、腫れ上がった手首が目に入る。


 痛み止めの薬もなければ、ユディには回復魔法の心得もない。

 どうすることもできなくて、机に突っ伏して、しばしの間、目を閉じる。


(ハル……)


 とりとめのない考えが心に湧き上がり、また消えていく。


 ハルは、本当は何者なのだろう。

 実家は商家だと言っていたが、それは仮の姿なのかもしれない。


(本当は、王弟ハルトムート……?)


 友人になれたと思っていたけれど、それはユディの一方通行だったのだろうか。

 思えば、ユディの気持ちはいつも独りよがりだったのかもしれない。


 シュテファンとの婚約も、彼にとっては大した価値のないことだった。

 エミリヤとの関係も、仲が良いと思っていたのはユディの方だけだった。


 そこまで考えて、レイの突然のプロポーズを思い出す。


(レイ先輩があんなこと言うなんて、きっとわたしに同情してくれたのよね。厚意に甘えて、迷惑かけちゃいけない。やっぱり、少し休んだら龍の神殿に行きましょう)


 エミリヤとシュテファンがユディにした仕打ちについて、レイには何も言わなかった。


 だが、彼らがユディの行き先の心当たりとして図書館を挙げるだろうということはわかっている。

 いつまでもここにいては、ハイネ村からの使いがユディを見つけるのも時間の問題だろう。


(ハル、あなたが何者だって構わないのに……。龍の神殿に行く前に、もう一度会いたかった……)


 悄然とした気持ちに沈みながら、疲労の波に揺られて、ユディはいつの間にかまどろんでいた。


※※※


 涼しい風が頬に当たり、ユディは目を開けた。

 鍵をかけていたはずなのに、いつの間にか、作業部屋の扉が大きく開かれている。


「やだ……寝ちゃったのね」

  

 作業部屋は魔石ランプの灯りがついているが、扉の外はすでに真っ暗である。

 光が漏れていてはまずいと、扉を閉めようと近づくと、どこからかガリガリという音が聞こえてきた。 


「…………? 何かしら、この音……?」


 ユディは、作業机用の魔石ランプを手燭がわりに持つと、扉の外に出ていって、周囲を見渡した。

 灯りの消えた閉架書庫は、真っ黒な本棚が壁のように乱立し、どことなく不気味な雰囲気だ。


 閉館後の夜の図書館である。

 警備員は外門にいるはずだ。

 館内には、ユディ以外は、誰もいないはずだった。

 

 その時だった。  

 どこからともなく子どものすすり泣くような声が聞こえてくる。


「……出して……ここから……出して……」

「!!」


 ユディは血の気が引く音とともに後ずさった。

 近くにあった書棚に背をぶつけてしまう。

 先日、マイルズが話していた怪談通りの現象である。


 図書館建設中に、どこかの部屋に閉じ込められて忘れられたという子どもの幽霊。

 件の部屋の周囲では、何かをガリガリと引っ掻くような奇妙な音と、すすり泣くような子どもの声が聞こえるというものだ。


 もともと怖い話の苦手なユディである。

 突然の事態に、完璧に固まってしまった。

 追い打ちをかけるように、目の前にゆらりと白いもやのような人型が現れる。

 

(ゆ、幽霊……!)


 恐怖に身動きできないでいるユディの耳に、凛とした声が響いた。


「ユディ!」


 暗がりで、姿はよく見えない。


 だが、間違いようがなかった。

 声の持ち主は、もう一度会いたいと、一目会いたいと思っていたその人。


 暗闇の中から、待ち望んでいた少年——ハルが現れた。

 風のような素早さでユディの元に駆け寄ると、白いもやから庇うように前に立った。


「ハル……どうしてここに……?」

「話は後。こいつを何とかしよう」


 細身で小柄なのに、ハルの身体は精錬された鋼のように引き締まっていた。

 逞しい少年に後ろ手に庇われて、自分でも驚くほどほっとするのを感じる。 


「あ! ハル、魔法はだめよ! 図書館では火気厳禁、魔法厳禁よ!」


 手を前にかざし、魔法を発動させようとしていたハルを、咄嗟に制した。

 勢いを削がれて、仮面の少年は呆れたようにユディを見やる。


「そんなこと言ってる場合? 魔物だったらどうするのさ」

 

 真面目か! と思いつつも、ハルは目の前の幽霊に魔物の気配は感じていなかった。

 何というか、悪い感じがしないのだ。


「おまえは何だ?」


 静かにそう問いかける。

 ユディも、落ち着きを取り戻していた。

 冷静に観察すると、確かに白いもやは子どもくらいの大きさに思えた。


 ハルの質問に、幽霊は腕をすーっと上げた。

 一本指が上に向けて立てられている。


「……『祈りの間』……」


 そう言い残すと、途端にもやはふっと霧散した。

 ユディは倒れそうなほど怖かったが、ハルの声は平静そのものだった。


「『祈りの間』って、レイ先輩が言っていた、貴族連中が受験祈願するっていう例のところ?」

「ええ……。そこに何かあるのかしら」

「今から行ってみてもいいけど、どうせ真っ暗だし、昼間に出直したほうがいい。それに……きみに話があるんだ」


 ハルはユディに向き直った。

 仄暗い魔石ランプの灯りのもと、仮面の奥から、真剣な眼差しが向けられているのをユディは感じていた。

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