第15話 ユディの出奔

 自室に戻ったユディは、とにかく気分を変えたくて、制服を脱ぎ普段着に着替えた。 

 洗面所では、鏡に映った自身の姿を見ないようにした。

   

 これ以上惨めな気持ちになりたくなかったのだ。

 髪も服も薄汚れて、おまけにひどい顔をしているのがわかっていたから……。

 

 午後の授業には、もう間に合わない。

 ユディはソファに腰掛け、叔父からの手紙をのろのろと開いた。


 その内容は、絶望的な気持ちに拍車をかけるのに十分な内容だった。


「……縁談が、決まった……」

  

 シュテファンから婚約破棄されて、まだほんの少ししか経っていないのに、もう次の縁談を見つけてきたらしい。


 相手はマクミラン伯爵という、ユディより四十歳も年上の男性だ。

 ちょうど後妻を探していたのだという。


 ユディの脳裏に、脂ぎった中年の顔が思い浮かぶ。  

 確か、一度どこかで叔父に紹介されたことがあった気がする。


 まさか、こうなることを見越して会わせていた……? 

 真偽のほどはわからないが、こうならないといいと思うことに限って現実のものとなるのはなぜだろう。


「……一度見合いの席を設けるので、すぐにハイネ村に戻るように。王都に使いの者を出したので、馬車が到着したら折り返し乗って帰ってこいって……、強引すぎよ、叔父様」


 手紙の日付を確認すると五日前だった。

 ハイネ村から王都までは早馬で三日。


 手紙を出してからすぐに使いの馬車を手配したと仮定するなら、もうすぐ王都に着いてしまう。 


「……逃げるしかない」

 

 王都には、そこここに龍神を祀る神殿がある。

 当座はそのうちの一つに、身を寄せさせてもらおう。


 尼になるならなるで、仕方ない。

 それでも、叔父に無理やり修道院に連れていかれるよりは、自分で選んでそうしたかった。


 もっと早くこうすべきだったのかもしれない。  

 手早く荷造りをすると、図書館で借りてきた本が目に留まる。


 十冊借りた本は、この一冊を残して全部読み終わっていた。

 だが、もう自分で返却することはできそうもない。

 寮母さんにでも頼んで返しておいてもらうしかなかった。

 

「この本だけはまだ途中までしか読んでなかったわ。さっさと読んでしまえばよかった……」   


 手にしたのは、まだ冒頭しか読んでいない『ドラグニア建国史』だった。


 最後にパラパラとページをめくると、「風の魔法」と書かれた、小さな四角に囲まれた部分があるのに気がついた。

 本文とは関係なく、ちょっとしたコラムのようになっている。


 ——ドラグニアの魔導師には際立った才能のある者が多いが、その中でも風の魔法は特筆に値する。何者にも縛られない、自由で気ままな風を操れるのは、龍の血がその身に流れる王族に特に多く、直系の血筋であれば、その身を宙に浮かせ、風に乗って飛ぶことも造作なくできるであろう……。

 

 読むうちに、ユディの表情は驚きと混乱の入り混じったものに変わる。

 

(ハル……飛んでいたわよね……?)

  

 わけがわからなくなり、固まってしまう。


 風の魔法を自在に操る少年。

 その声を聞いた者の体調にまで悪影響を与えてしまうほどの、壮絶な魔力の持ち主。


 ……まるで初代国王、煌龍リューネシュバイクが用いたという、龍の咆哮のような……。

 この国で龍の血を引くのは、王族——。  


 思考が波のように押し寄せ、ユディを満たしていった。


「まさか……」


 どれくらいそうしていただろうか。

 早く動かなきゃと思うのに、身体が痺れたように動かなくなっていた。


 傾いた陽の光が部屋に差し込み、家具の影を延ばしはじめていた。

 そこに、ノックの音が響く。


「!」


 心臓が跳ねる。

 

(もしや、もう迎えが来てしまった……!?)


「ユーディスさん、ラウリ先生が見えてますよ。授業にいらっしゃらなかったから、心配で来てくださったそうです」


 ドアの外からかけられた声は、寮母さんのものだった。

 ラウリ先生は、ユディが午後に出席するはずだった、マナー講習の担当教師である。


 これまで先生が寮に訪ねてなど、一度もなかったことで少々面食らった。

 もしかしたら、小鳥寮の外での騒動を聞きつけて、心配して来たのかもしれない。


 とりあえず、ハイネ村からの迎えでなかったことにほっと胸を撫でおろし、すぐにドアを開けようとして、ぎょっと立ち止まった。


 手の甲が真っ赤に腫れ上がっていたからだ。


 シュテファンに突き飛ばされて地面に手をついたときに手首を捻ったと思ったのだが、捻挫か何かになっているようだった。

 これでは寮母さんにも、ラウリ先生に心配をかけてしまう。 


「寮母さん、ラウリ先生……。ご心配おかけして申し訳ありません。その……風邪をひいてしまったんです。伝染るといけないので、ドアは開けないでおきます」

 

 うまい言い訳が思いつかず、苦し紛れにそう言った。  


「そうですか……。今は風邪で辛いときでしょうが、どうぞ負けないで……。私はまた来ますからね。ユーディスさん、どうぞお大事に」


 いつもは厳しい先生の、事情を悟ったような、気遣いのこもった言葉に思わずじんとしてしまう。

 できることならこのドアを開けて、辛い心のうちを吐露してしまいたかった。


「ユディさん、お夕飯に何か作って持ってきますからね」


 ラウリ先生の声にも、寮母さんの声にも、心配そうな声色がありありと聞き取れた。  

 さきほどエミリヤとシュテファンとの間に起こったことは、寮中どころではなく、学院中に広まっているのかもしれない。


 二人が行ってしまったのを確認すると、ユディは物音を立てないようにして、荷造りに取りかかった。


 長袖を羽織り、右手首の腫れを隠す。

 反対の手首には、父の形見の腕輪を嵌めた。

 汚れた制服も、図書館の本も、鞄に詰めておいた。


 そうして人目につかないように部屋を出ると、こっそりと台所へまわり、勝手口から寮を後にする。


 ユディが向かった先は、王立図書館。


 神殿に行く前に、どうしても確かめなくてはならないことがあった。 


※※※

  

 鞄を抱えたユディが勝手口から出ていくと、二人の人物が動きを見せた。


 まず、小鳥寮で最近働きはじめた掃除婦が、一日の仕事が終わったと、気分転換に散歩に出かけていった。

 その際、偶然にも散歩コースがユディの向かった先と同じ方向だった。


 もう一人は、小鳥寮の前の通りにいた野菜の行商人だ。

 こちらも、最近小鳥寮に売りに来るようになったばかりの行商人である。


 おもむろに荷台を動かしはじめると、まずは市場に戻り、品物を補充してから、夕方の行商に出かけた。


 一番の上客は王城だ。 

 行商人は慣れた様子で御用達商人用の勝手口にまわり、いつものように料理人や下働きの下男と会話を交わし、商品を渡し、代金を受け取る。


 すると中から魔導師らしい男が出てきて、行商人と立ち話を始めた。

 魔導師団でも頼みたいものがあるからと、その場でしばし話し込む。

 その後、何事もなかったかのように、行商人は王城を後にした。


 魔導師の方は、詰所とは別の方向に歩みを進める。

 足を向けたのはルールシュ城の最奥、王弟ハルトムートの住居である「飛竜の塔」であった。


 漆黒の魔導師のローブに身を包んでいるのはヴァルター。

 さきほどの行商人は、国王が放った細作である。


 小鳥寮に新しく出入りするようになった、野菜売りの行商人も、寮の掃除婦も、修理工も、皆フェルディナンドの手の者だ。

 ユディとハルが知り合ってからすぐに手を回していたのだから、用意周到と言うべきである。


 細作を放つことに最初は難色を示したハルだったが、ユディの護衛も兼ねているからということで、しぶしぶ了承したのだった。

 ただし、有事の際の報告は国王ではなく、一番先にハルにする、というのがハルが出した条件だった。


 今日は偶然にも、国王が飛竜の塔を訪れている時に報告がやってきた。

 こうして、ユディの身に起こった不幸な出来事は、ただちにハルにも、国王にも知られるところとなった。


「なんだって、ユディが……!?」


 ユディの出奔の報を受け、ハルは驚きに言葉を失った。

 さらに、その直前に起こった騒動についての顛末を聞くにつれ、顔色が変わる。


「公衆の面前で元婚約者の男に突き飛ばされた?」

「はい。元婚約者のシュテファン・ロドリーはユーディス嬢の従妹のエミリヤ・ハイネという少女と新たに婚約。彼女がユーディス嬢に長らく虐められていたと主張したそうです。ロドリー騎士見習いがそれに激昂、ユーディス嬢を突き飛ばした——」


 言い終わる前に、ヴァルターはどきりとして顔を上げた。  

 目に見えぬ怒りの闘気が、仮面の王弟から立ち昇っているのを感じたからだ。


「フェル。その男、斬っていいか?」

    

 肝がぞくりと冷えるような、冷徹な声だ。

 

「まあ待て。ヴァルター、その者らの主張は虚偽であると言えるのか?」


 フェルディナンドが苦笑しながらヴァルターを促す。

 ハルとユディが図書館で会う日にヴァルターが同行し、ユディの本名が「ユーディス・ハイネ」と判明すると、国王はただちにユディの身元を調べあげるよう命じていた。


「はい。王立学院にも、ハイネ村にも人を送ってありますが、ユーディス嬢がエミリヤ嬢を虐めていたなどとという事実は確認されておりません。どちらかというと、ユーディス嬢の叔父、現ハイネ男爵一家に、ユーディス嬢はあまりいい扱いを受けていなかったようだと、当時の使用人が話しておりましたが」

  

 フェルディナンドは首を傾げた。


「ふーむ。エミリヤ嬢はユーディス嬢に何らかの確執があり、彼女を陥れたか……? そのあたりはわからんな」

「ユディの行き先は?」

「もう一人の細作に追わせています。先ほど報告が入ったところによると、王立図書館に向かったようです」

  

 ハルは身を翻した。


「行ってくる」

「待て、ハルトムート」

「何だよ、フェル。止めても行くよ」

「そうではない。もちろんユーディス嬢を迎えに行くのは賛成だ。だが、迎えに行ってその後どうする気だ? 城に連れてくるのか?」


 王城に連れてくるのであれば、身分を詐称したことをユディに告白しなくてはいけない。


「まさかこんなことになるとは思っていなかったからな。適当な身分を用意させたが、裏目に出たな」

「いや、フェルのせいじゃない。ユディに言うよ。いつまで嘘をつき続けるわけにはいかない。彼女は恩人だ。たとえ……」


 その後の言葉は仮面の下に隠されて消えた。

 だが、国王もヴァルターも、ハルの言いたいことはわかっていた。


 ——たとえ、気味悪がられても……。


「そうならないことを願うがな。とにかく、身の振り方が決まるまでは、ユーディス嬢の城での滞在を許そう」

「ああ。行ってくる。ヴァルター! 馬車を手配しておいて」

「かしこまりました」

「万が一、その騎士見習いに会っても殺すなよ! 騎士団のことは騎士団の規律内で裁く必要がある。まずは騎士団長のグイード殿に判断を仰がなくてはならんからな!」

「善処する」


 簡潔な返事を残して、ハルは塔の窓から飛び降りた。

 風を身体にまとわりつかせ、無事に地に足をつけると、すぐに走り去って行くのが見えた。


「やれやれ……。その騎士見習いに同情してしまうな」

 

 国王の呟きに、激しく同意したヴァルターであった。

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