第10話 新魔術配合 強力のど飴
ユディが図書館前に着いた時には、正午の暖かな陽の光が辺り一面に広がっていた。
もうしばらくすれば、春風に夏の匂いが混じり始めるだろう。
王立図書館は歴史情緒溢れるレンガ造りの建物で、王都ルールシュの中心部に位置している。
周囲には緑豊かな公園が広がり、市民の憩いの場となっている。
今日の様な天気の良い日には人手も多く、今もあちらこちらでお昼を広げる人々が目に入る。
「さあて、本当に来るかしら?」
手近なベンチを見つけると、そこに抱えていた大きなバスケットを置いた。
小柄な少年が体格のわりにたくさん食べていたのを思い出し、かなりの量のお弁当を作ってきてしまっていた。
具体的に何時ごろ、などと全然決めていなかったのは失敗だっかもしれない。
「待つのは得意なのよ」
おもむろに取り出したのは図書館で借りた本だ。
この世界の本は基本的にハードカバーの大きなものばかりで、文庫本サイズがない。
印刷と製本技術の違いによるものだろう。
持ち歩くのは一冊が限度だった。
数ページめくったところで、本に影がかかる。
見上げると、銀色の仮面の少年が佇んでいた。
「やあ。よかった、また会えて」
ユディは安堵して微笑んだ。
本を閉じてきちんと仕舞ってから、少年に返答した。
「こんにちは。来てくれて良かったわ。たくさんお昼ご飯を作ってきちゃったから、もし会えなかったらどうしようかと思っていたの」
「来るさ。実を言うと、かなり楽しみにしてた」
「わたしも楽しみにしてたわ」
相変わらず仮面で表情は読めないが、少年の嬉しそうな気配が伝わってくる。
「時間を決めてなかったなって後で気がついたんだ」
「ふふ、わたしもそう。でもお昼ご飯前にちょうどよく会えたわね」
ユディはふと、少年の後ろに誰かがいるのに気がついた。
淡い色の髪と瞳をした青年が、遠慮がちにこちらに視線を投げかけている。
白いシャツに同じく白の蝶ネクタイを身に着けて、どことなく侍従風の恰好をしているとユディは思った。
と言うのも、この世界では貴族の館などで働く侍従は、一般的に白いネクタイを着けているからである。
「ねえ、ハル? あの人は?」
「あ、ごめん。君に会った話を家に帰ってしたら、ぼくの教育係が今日どうしてもついてくるって聞かなくて……」
「まあ」
ユディは驚いて立ち上がる。
予想はしていたが、やはりこの少年はどこかの貴族だったのだろう。
家の者が、子息に近づく不審な人物を調べに来たのだ。
貴族の苦手なユディは、途端に身構えた。
「ごめんなさい、わたしったらあなたが高貴な身分の方とは知らなくて。教育係の方にご挨拶したらすぐにおいとまするから、どうぞご両親にはお怒りにならぬようお伝えいただけるかしら」
自分たちの子どもにおかしな物を食べさせたと思われていたらたまったものではない。
貴族に関わると、とにかくいちゃもんばかりつけられるというのは、王立学院の生活で身に染みてわかっている。
明らかに狼狽えるユディをハルが手を上げて落ち着かせる。
「ちょっと待って! 誤解させてごめん。ぼくは貴族じゃないよ。家はストラウス商会っていう名前で、王都で商売してる」
「……そうなの?」
「うん」
貴族じゃなくて王族だけど、と心の中でハルが付け加えているのは露知らず、ほっと胸を撫で下ろしたユディに青年が近づいてきた。
深々と頭を下げる。
「お初にお目にかかります。ストラウス商会でハル坊っちゃんのお世話を任されておりますヴァルターと申します」
「あ……こちらこそ初めまして。ユーディス・ハイネと申します」
「先日はハル坊ちゃんがお世話になったそうで、お礼を申し上げたく無理を言ってついて来てしまいました。ご挨拶が済んだらすぐに失礼させていただきますのでご安心ください」
きびきびとした折り目正しい挨拶に、ストラウス商会というところの従業員教育の高さが伺えた。
聞いたことのない商会名だが、きちんとした大きなところなのだろう。
「ユディ様、ありがとうございました。ハル坊っちゃんのご両親は既に他界され、兄君は商会の切り盛りで大変お忙しくされております。毎日お寂しい思いをしていらっしゃったところに貴女様とお会いしてとても嬉しそうにされていたので、是非に一言お礼だけでも申し上げたく参じました」
「そんな、恐縮です。あの、どうぞ敬称なしでお呼びください。わたしまだ学生ですし、年上の方に『様』なんて付けられると逆に気恥ずかしいです」
「わかりました、ではユーディスさんとお呼びしますね。学生ということは、王立学院で学ばれているのですか?」
「ええ、高等部の二年におります」
「あそこは貴族のご子弟ばかりと存じますが、本当にユーディス『さん』とお呼びしていて大丈夫でしょうか?」
暗にこちらが貴族でないかと探りを入れてくる。
ユディは笑って言った。
「はい、ただのユーディスでお願いします。男爵家に一応籍はあるのですが、学校を卒業したら家を出る約束になっていますので」
青年は「なるほど」と頷く。
そのやり取りを横で見ていたハルは鮮やかな話術に内心舌を巻いていた。
付き人のふりをしているのは魔導師のローブを脱ぎ、印象をがらりと変えたヴァルターである。
持ち前の真面目な態度に人当たりの良い笑顔を加えることで、裕福な商家の使用人を完璧に演じ、ユディが学生であることもハイネ男爵家に連なる者であることもあっという間に聞き出してしまった。
普段は生真面目な性格が際立つので、このような演技など到底無理そうなものなのに、意外に芸達者なものである。
もっともそうでもなければ若くして宮廷魔導師団の副長は務まらない。
ヴァルターのほうも、ハルがユディの前であまりにも大人しく、礼儀正しく、まるで「普通の少年」のように振る舞っているのに驚いていた。
これでは、猛獣が特大の猫を被っているようなものである。
胸中の動揺が表に出ぬうちにと、さっさと要件に入る。
「実は、貴女のことを心配していたのです。ご存知とは思いますが坊っちゃんの声は非常に特殊で、仮面の魔封具でそれを封じています。それを取って一緒にお食事をされたというのが私にはとても信じられなくて。守護のついた腕輪をお持ちとのことですが、もしご不快でなければ見せていただくことは可能でしょうか? できることなら複製して、家族で食事をしたいと坊ちゃんの兄君が切望しているのです」
「まあ、そういうことでしたら、どうぞ遠慮なくご確認ください」
「ありがとうございます」
青年は恭しく守護の腕輪を受け取ると、そこに付いている石や、かけられている守護をじっくりと検分し始めた。
それができるということは、この青年にも魔法の心得があるのだ。
「ふーむ……。年代物の大変貴重なお品のようですが、守護自体には別段変わったところは見当たりませんね……」
ユディは心の中で安堵していた。
守護の魔法を外から見ただけでは、ユディが施した「書き換え」の痕跡を見つけることはできない。
王都ではまだ誰にも話したことのないユディ独自の魔法である。
心配そうに青年の様子を見守るユディに、少年がのんびりと話しかけた。
「ねえ、お腹空かない? ぼく、君のお弁当を楽しみにしてるんだけど」
「そうね……。あのう、ヴァルターさん? あちらのテーブルが空いたみたいです。もうお昼も過ぎていますし、よかったら一緒にお弁当召し上がりませんか? どうも作り過ぎてしまったみたいで……」
ハルは弁当が入ったバスケットを早速移動させている。
青年は腕輪をユディに返すと恐縮して言う。
「い、いえ私は……。あの、それにこのような人の多い場所で飲食すると、ハル坊っちゃんの魔力の影響を受ける人が出てくるのでは……」
周囲にはまだあちこちでお昼を広げている人がいる。
少年はバスケットを手にしたまま歩みを止めた。
どこか人気のない場所を探さなくてはいけない。
周りを見渡す、その様子がどこか寂しげに見えた。
——渡すしかない。
ユディは意を決した。
「あの! ちょっと待って。実はハルにあげたいものがあるの。もしかしたらこれが役に立つかもしれない」
「何?」
ユディが取り出したのはオレンジ色の小さな箱だった。
「新魔法配合 強力のど飴」と箱書きにある。
どこにでもあるような、市販ののど飴である。
ただし、喉に効く回復魔法が飴の一粒一粒にかけられているという点が前世ののど飴とは違う。
こういった市販薬には薬草が配合されているタイプと、魔法がかけられているタイプの二つがあり、こちらは後者である。
先日あちこちの薬局を巡って、「魔法陣タイプ」をわざわざ探してきたのだ。
「これがどうかしたの?」
「一つ食べてみてくれる?」
少年はわけがわからないという顔をしながらも、素直に箱から飴を一粒取り出し口に入れた。
「どう?」
「どうって、普通の飴だけど」
「じゃあ、その仮面を取って何か喋ってみてくれる?」
「なっ! 駄目です!」
焦ったのはヴァルターである。
それをユディが説き伏せる。
「これはただののど飴じゃないんです。その、少々改良してあるんです。さっきの守護の腕輪みたいに」
「改良?」
「はい。上手くいけばその仮面なしで声を出せるようになるはずです」
「まさか、それはないでしょ」
困惑気味のハルとヴァルターを尻目にユディはおさげを片側に寄せた。
「いいからやってみて。他の人たちに迷惑かけなければいいのよね? ハル、小さな声でわたしにだけ聞こえるようにしてくれればいいから。ほら」
ぐいっとユディに耳を近づけられて、少年は怯んだ。
仮面を取って自分の口を直接ユディの耳に近づけることなどできそうもない。
大体ユディをこんな場所で昏倒させてしまったら目も当てられない。
「ちょ、無理! そうだ、ヴァルター! おまえが代わりにやって」
「ええっ?」
嫌そうにする青年を素早く捕まえる。
頭を羽交い締めしながら軽く仮面をずらし、小さな声で「悪いね」と囁いた。
ヴァルターは初対面の少女の前で、がくりと腰を抜かすはず——。
「——あれ?」
「……何ともない?」
思いっきり身構えていたヴァルターは、怪訝な顔で自身を見回した。
呆気にとられて顔を見合わせる両者の横で、ユディ一人が笑顔で手を叩いた。
「効いたみたい! 初めてやったからうまくいくか確証がなかったんだけど良かったわ」
「え……本当に?」
「もっと何か喋ってみて」
少年が恐る恐る仮面を上にずらし、さきほどより少しばかり大きな声を発する。
「ええと、どう? 気分悪くなる?」
「大丈夫よ! ほら、守護の腕輪を付けてないけど、何ともないわよ。ヴァルターさんも大丈夫ですよね?」
ユディが振り返ると青年の顔は蒼白だった。
その口から悲鳴の様な声が漏れる。
「——そんなまさか! こんなこと、ありえない!」
大声を出してしまった青年は周囲の視線を集めていることに気が付き、口元を押さえた。
「も、申し訳ありません。思わず……。これまでありとあらゆる高名の魔導師にどうにかならないか相談してきたんです。それがこんな飴玉で……!? まさか、冗談ですよね!?」
もはや支離滅裂になっている。
「落ち着いて、ヴァルター」
「落ち着いていられますか!」
さきほどまでしっかりしていた青年の取り乱した様子にユディは驚きつつも慌ててなだめた。
「あの、数時間したら効果は消えると思いますから……」
「それよりどうやってこの飴玉を作ったのか教えていただきたい」
オレンジ色ののど飴の箱を握りつぶさんばかりのヴァルターである。
鬼気迫る勢いでユディを問い詰めようとする青年の腕を、ハルが掴む。
「落ち着けって。ユディに失礼だろ。せっかくぼくのためにしてくれたことなのに」
「ですが……!」
言い募ろうとした青年は、はっとした。
ハルの周囲にゆらりとした魔力の波動を感じる。
本気で怒っているのだ。
気遣わしそうなユディの表情が目に入り、流石に自分の行いを恥じた。
みるみるうちに平常心を取り戻すと、勢いよく頭を下げる。
「申し訳ありません。取り乱しました」
「いいけど、おまえはもう帰って。このままじゃいつまで経ってもお弁当が食べられない」
「……承知しました。あの、こちらののど飴は私が持って帰らせていただいてもよろしいですか?」
「はい、もちろんです」
「では大変お騒がせいたしました。ああ、ハル坊ちゃん、こちらをユディさんに忘れずにお渡しするようお願いいたします。それではこれにて失礼いたします」
きりっとした態度を取り戻した青年は、ハルに紙袋を渡すと挨拶をして行ってしまった。
半ば呆然とするユディに少年が謝罪の言葉を述べる。
「ごめん。不快な思いをさせたよね」
「ううん。ちょっとびっくりしただけ。なんでヴァルターさんはあんなに驚いたのかしらね?」
「うーん。誰でもあれぐらい驚くかもしれないよ」
ユディとしてはなぜだかわからず首を傾げるばかりである。
「とりあえず食べない? 目の前に人参をぶら下げられた馬だよ、これじゃ」
そう言われると、ユディも猛烈にお腹が空いてきた。
勢い込んで言う。
「ええ。何はともあれ、食べましょう!」
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