第8話 貧乏くじの教育係
「賢龍セラフィアンのことは?」
「は……? もちろん知っていますが……」
ドラグニアの民で、セラフィアンの名を知らない者はいない。
遥か昔に生きた龍で、リューネシュヴァイクと同じところ——神の世界から、地上に降りてきたと言われる、伝説の賢龍。
リューネシュヴァイク亡き後に王国に度々現れ、王族や民に知恵を与えたとされる。
賢く強い、いと高き存在である。
「ぼくのことを助けたのはセラフィアンだ」
「なっ……!」
よもや伝説の龍の名を出されるとは思っていなかった。
くらくらする頭を抑えつつ、ヴァルターは現状を整理する。
「つまり……ハルトムート殿下は二十年間、母君であるレーア王妃の胎内で凍結されていた。十五年前にお生まれになったときの出産を助けたのは伝説の賢龍セラフィアン……?」
「ぼくをその後育ててくれたのもセラフィアンだよ。王宮ではぼくを育てることはできなかったから。ついこの間までルールシュから遠く離れたところで、一緒に暮らしてた」
「そんな、まさか……」
不敬とはわかっていても、ヴァルターは不意に笑い出したい気分に駆られた。
魔力過多の我が子を腹に収めたまま二十年を過ごしたレーア王妃。
そして、龍に育てられたという、王弟殿下。
あまりにも現実離れした荒唐無稽な話に、よもや国王と王弟が揃って自分を騙そうとしているのではないかと思ってしまう。
混乱と不信が入り混じるヴァルターを、国王がなだめるように説く。
「おぬしの気持ちはわかる。とても信じられぬ話だというのは承知の上だ。だが、賢龍セラフィアンは決して伝説上の生き物ではない。煌龍リューネシュヴァイクがドラグニアの祖となったように、賢龍もまた実在するのだ」
国王に真摯に説かれ、ヴァルターは姿勢を正した。
「信じようとは努力しています。王族の危機に賢龍が現れるというのは伝説通りですから。けれど、なぜ賢龍は王弟殿下の命を助けるだけでなく、王宮から遠ざけて育てたのですか?」
「それは……」
国王は言い淀んだ。
銀の仮面の王弟が、兄が言いにくそうにしていることをずばりと言う。
「人間には、ぼくを育てるのが不可能だったからだ」
「……どういうことです?」
「これはもう、見せるのが一番早い」
少年は無造作に仮面を取り払う。
「おお……!」
仮面の下から現れたのは、思わず目を見張るほどの美貌だった。
大理石の様に滑らな肌を、肩まである豪奢な金髪が彩る。
夜空の星の様に、静かな煌めきを放つ銀の瞳が印象的だ。
男とわかっているとはいえ、その美しさに目が離せないでると、薄紅色の唇が小さく開かれる。
蠱惑的な声が、ヴァルターの耳に響いた。
『慄け』
「…………!?」
少年の声が聞こえた瞬間、全身の力が急激に抜けていく。
立っていられないほどの虚脱感に見舞われ、思わずがくりと膝をついてしまう。
「な……! これは……!」
よろめいたヴァルターに国王が近寄り、手ずから助け起こしてくれる。
その国王ですら、若干顔色が悪くなっている。
「すまんな、ヴァルター。これがハルトムートの力なのだ。極めて高い魔力を持って生まれついたせいなのか……。ハルトムートの声には『龍の咆哮』の様な効果がある」
聞いた者を即座に慄かせるという「龍の咆哮」。
かつて、煌龍リューネシュヴァイクが王国に巣食う魔物たちを一掃したときに、魔物たちを震え上がらせたと伝えられている。
王弟の声に伝説の龍に比類する力があるという事実が、ヴァルターを戦慄させた。
畏れを込めた視線を少年に向けると、すでにその顔には仮面が装着されていた。
「セラフィアンの判断は正しかったよ。泣き声だけで乳母達がばたばた倒れてたらしいから。あのまま人間のところに置いておかれたら、誰も赤ん坊の世話ができなかったはずだ。そうしたら、ぼくはすぐに母上の後を追わなきゃいけなくなっていたろうね」
「そんな……」
平然と話す少年に、何と言っていいかわからない。
「事情はこんな感じだよ。ぼくが王城に戻ったのは、セラフィアンがこの仮面をくれたから。一応、これがあれば声の効果を抑えられる」
「うむ。俺はハルトムートの存在を知ってからというもの、城に戻ってきてほしいとずっと思っていたからな。セラフィアン殿には感謝してもしきれん」
「国王陛下は、王弟殿下のことをご存知だったのですか?」
「ああ。父上が今際の際に教えてくれたのでな」
先王が崩御されたのは確か十年前だ。
これまでずっと離れて暮らしていたというわりには、この兄弟は随分打ち解けているように思えた。
これも国王の人柄のなせる業なのだろうか。
それとも、龍に育てられたという、礼儀作法や話し方がかなりざっくばらんな王弟のせいだろうか。
または、龍を祖先に持つ王族同士、何か自分にはわからない絆があるのかもしれない。
「……それで、私が呼ばれた理由は何なのでしょうか?」
「前置きが随分と長くなってしまったな。これでやっと本題に入れる」
国王は咳払いをするとし、姿勢を正しヴァルターに向き直った。
「ヴァルターよ。ハルトムートの教育係になってもらえないだろうか?」
「は……それは……」
「この通り、ハルトムートはルールシュに来たばかりで、城の事情にも明るくない。もっと言えば、これまで人間とほとんど関わったことがないのだ。おぬしには教育係として、ハルトムートの見聞を広げる手助けをしてもらいたい」
「そんな……自分は平民です! 貴族の作法も知らないですし、王弟殿下の教育係などあまりに荷が勝ちます」
「それが逆にいいのだ。どうせこれから、貴族の間ではハルトムートを利用しようとする者が出てくるだろうからな。下手に派閥などに関わりのない平民であったほうが安心だ。それに他の者ではハルトムートと歳が離れ過ぎていてな。一番歳の近い者がおぬしなのだ」
「…………」
歳が近いと言っても、ハルとヴァルターでは一回りは離れている。
それでも国王自らに畏まって頼まれてしまえば、断りたくても断れない。
すでに魔導師団の仕事から外されているのも、団長のユルゲンの先回りだったに違いない。
かくして、ヴァルターは「謹んで承ります」という返答以外できなかった。
銀の仮面の奥からそんなヴァルターを眺めやると、ハルは冷静にこう言った。
「だから言ったよ。貧乏くじだってね」
※
それが半年前のことである。
ハルと初めて会った時から比べると、少しは打ち解けられているのだろうか。
正直、よくわからないというのが本音だった。
それというのも、龍に育てられたというこの王弟は、人間をあまり信用していない節があるからだ。
ハルの正体と素性は、諸侯たちにはすぐに知らされたものの、その反応はさまざまだった。
ほとんどが半信半疑でハルから距離を置くか、中にはあからさまにそんな馬鹿な話があるわけがない、これらはすべてハルの作り話で、偽物の王弟を装って王宮に入り込もうとする不貞の輩だと糾弾してくる者もいた。
——不気味な仮面の少年は、呪われた声の持ち主。
——本当に先王の子かもあやしく、これまで王宮を離れていたのは、厄介払いだったのではないか。
そんな噂がいつしか聞かれるようになっていた。
中でも、レーア王妃がハルを二十年間も胎の中に入れて隠していたというくだりは、怪談じみた流言として城を駆け巡った。
ハルが王宮に来てすぐに顔を合わせたのは、国王一家を除けば、魔導師団長のユルゲンに騎士団長のグイード、それにヴァルターだけだ。
この半年の間に、ハルが魔物討伐に出かけた回数は、両手両足の指を全部合わせても足りない。
この国きっての魔法と剣の使い手である二人の団長は、王弟の実力にただちに敬意を評したが、それは貴族諸侯の間では話半分にしか伝わっていない。
せいぜい「強い魔力を持っていて、魔物退治で活躍している」程度の認識である。
そして、国王がハルを重用しているのが、諸侯にとっては一番の不満の種だ。
国王に苦言を呈するだけならまだいいが、近頃では、ハルの命を狙って、曲者が王宮にまで出入りするようになっている。
(ハルトムート殿下の力を見誤っている貴族連中のなんと多いことか……)
確かにハルはおよそ王族らしからぬ少年だ。
諸侯たちと膝を突き合わせて意見を交わすことも、貴族令嬢たちとお茶会をすることもない。
おまけに竜たちと一緒に勝手に遠方に出かけてしまうこともよくあり、普段は王宮にいるのかいないのか、よくわからない。
ハルの教育係として任命されたはずのヴァルターだが、実際はお目付け役のようなものである。
それでも、ヴァルターはハルに一目置いていた。
いつも飄々として何を考えているか掴めない仮面の少年は、自分を見下したり貶めてくるような貴族達は誰なのかを見極め、次々とふるいにかけていっているように思えてならない。
(せめて、王弟殿下の声だけでも抑えることができれば……)
不遇の王弟を思い、一人心を痛めるヴァルターだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます