第7話 王弟殿下
ドラグニアの王都ルールシュの華やかさは大陸に名高い。
街並みは美しく、文化や芸術も発展している。
その真髄は荘厳華麗な王宮であり、たとえ遠目からであっても見る者を圧倒する。
すでに夜半過ぎだが、王の住まいは灯りが至るところに備えられ、その姿を夜闇に浮かび上がらせていた。
だが、王宮の最奥に位置する小高い塔にはひとつの灯りもなく、銀色の月明りだけが、その輪郭を照らしていた。
その塔の頂上に、少年はいた。
豪奢な金の髪に、銀の仮面で顔を隠している。
ハルであった。
塔の縁に腰掛け、足は宙に放り出している。
今にも落ちてしまいそうなのに、少しも怖がる様子はない。
その横には一頭の黒い竜が佇んでいた。
大きさは一般的な馬より少し大きいくらいだろうか。
長い翼を折りたたんだ状態で、猫の様にちょこんと座っている。
「ローグ、今日変わった子に会ったよ」
ハルは耳が良い。
普通の人間よりずっと遠くの音や声が聞こえる。
ユディが婚約破棄された顛末は、木の上にいたハルまで届いていた。
グルル、と小さな唸り声が竜の口から漏れる。
人語を解し、高い知能を持つ、ドラグニアの「飛竜」である。
ドラグニアの初代国王となった煌龍リューネシュヴァイクは山のような巨体——いわゆる「龍」だったとされるが、現在ドラグニアで「竜」と呼ばれるのは、小さく機敏な種類である。
「その子はぼくを怖がらなかった。それにサンドイッチを一緒に食べたんだよ。すごいよね」
ローグと呼ばれた竜に少年の嬉しさが伝わったのだろう。
グルグルと優しく喉を震わす音が伝わってくる。
その喉の音が、ふいに消えた。
眼球だけがぎょろりと後方に動き、望まぬ来訪者の存在を知らせる。
「また来たのか。懲りないね」
階下から塔の頂上に繋がる小さな階段から、黒装束に身を包んだ男たちが、音もなく現れた。
闇に紛れるように黒く塗った刃を、次々に抜き放つ。
戦口上よろしく声をかけてきたりすることはない。
命を奪うこと、それのみが彼らに下された勅命だからだ。
不気味なほど黙りこくり、ただ淡々と命令を遂行しようとする。
「仕事熱心なのはいいけど……。前回、おまえたちの仲間が戻らなかった理由を考えなかったの?」
ハルは気だるそうにそう言うと、腰に差した剣を抜いた。
次の瞬間、一番近くまできていた男が無言でハルに切りつけた。
手練れの、玄人の剣である。
普通の少年であれば、それで真っ二つになって終わりであるはずだった。
「な!?」
そこにいるはずの少年は忽然と消えていた。
黒刃が虚しく宙を薙ぎ払う。
すぐに衝撃が暗殺者を襲う。
後ろに回り込んだハルが、容赦なく男の背中を貫いていた。
「後ろからとは……卑怯な……」
「複数で一人を襲うのは卑怯じゃないの?」
ハルは呆れたように言った。
仲間がやられても、ハルに正論をぶつけられても、残りの男たちに動揺は見られない。
すぐに次の間者が、俊敏な少年の動きを追う。
だが、ハルは間髪入れずに宙に飛び上がっていた。
「くそっ、逃がすな! ここで必ず仕留めろ!」
「誰が逃げると言った?」
ハルを虚空で受け止めたのは飛竜のローグだ。
戦闘が始まるや否や、即座に空中で待機していた忠義者である。
ローグの背にまたがると、少年は仮面を取り払った。
大きく息を吸い込むと、獣のような咆哮を放つ。
『無礼な侵入者どもよ、我が声に慄け!』
低く鳴り響くような咆哮が闇夜に響くと、侵入者たちは次々に膝を突いていく。
それを見届けると、ハルは手を突き出すように身体の前にかざし、静かに呟いた。
「風刃よ」
魔法陣が発光しながら展開され、無数の風の刃が勢いよく放たれる。
強烈な疾風が暗殺者たちを無情に切り裂いていく。
鋭利な風刃が男たちの間を通り過ぎるたびに、鮮血が夜空にほとばしる。
「な、なぜだ……!? 王城内では魔法は使えないはずじゃあ……」
崩れ落ちる男に、ハルは静かに、しかし冷たく言い放つ。
「おまえたちの雇い主はそんなことも教えてくれなかったの? 確かに、ルールシュ城は強力な結界に守られていて、外からの魔法攻撃は防ぐし、城内ではいかなる魔法も発動しない。——王族以外はね」
「な……んだと……。それでは、おまえは本当に、王の……」
「だからそう言ってる。おまえたちはどうしても信じたくないようだけど、ぼくが正真正銘の王族だっていうのは結界が証明している。それがどうしてもわからない奴がいるようだから、戻って伝えてもらいたいけど、無理か……ここでおまえたちは死ぬから」
最後のあたりの言葉は、すでに絶命した男たちの耳には届かなかった。
ハルはローグをうまく操縦し、塔の縁に着地させる。
「あーあ、こりゃ掃除が大変だ」
闇の中に死臭が満ちていた。
月明りの下、おびただしい量の血が流れているのが見て取れた。
「ローグ、こいつらの死体を山の中にでも捨てておいてくれる?」
御意、とばかりにローグが鳴いた。
「ハルトムート殿下!」
魔導師のローブを身に着けた青年が、風に翻る長い髪を抑えつつ、地上から塔の頂上に向かって叫んでいた。
「予定変更。下に降りて」
ローグが塔から飛び立ち、そのまま下に降りていく。
地上に降り立つと、魔導師の青年は息を切らせていた。
どうやらハルの身を案じて、かなりの距離を走ってきたらしい。
「魔法が使われた気配があったので……! ご無事ですか!?」
「大丈夫だよ、ヴァルター。この間と同じ。上で何人かくたばってるから、騎士団から適当に人を借りてきて片付けさせて」
ヴァルターと呼ばれたのは色素の薄い青年で、全体的にほっそりとしている。
長い髪も相まって、どことなく女性的ですらある青年は、少年のあっけらかんとした言葉に顔色を失った。
「なんですと!! この間と同じとは、またもやお命を狙われたということですか!?」
「しっ、声が大きいって」
「しかし!!」
「王宮の警備が間者をわざと見逃した可能性もある。今夜勤務している警備の者を全員調べさせて。前回ぼくが狙われたときと同じ者がいないかを特に気をつけて確認するんだ」
「は……」
青年は、ハルの的確な指摘に感服したように頷いた。
「賊を生かしたまま捕らえることはできませんでしたか?」
「いや、殺した。前のときに生け捕りにしようとしたら、結局自害したからね」
刺客を倒したばかりだというのに、少年の声は落ち着いたものである。
だがそこには若干の冷たさが入り混じっていた。
「ぼくのことを王位を狙うどこの馬の骨とのわからん小僧だと思っている、どこかの有力貴族の仕業だろうね」
「そんな……。ハルトムート殿下は王位継承権を放棄されているではないですか」
「そんなこと関係ないよ。権利を放棄してたって、ぼくが国王を弑する可能性が消えたわけじゃないと思うんでしょ」
段々と下がっていく声の温度は、ヴァルターを凍てつかせるのに十分だった。
「母親の腹の中に二十年も入っていたような化け物でも、魔物退治に使う分には便利だ。だが王族の顔をして王宮を歩くのは我慢がならない、っていうのが一般的な諸侯の意見だろうね」
「殿下! それは……」
「いいんだ、ヴァルター。ぼくだって、たまに何の間違いで人に生まれてきたのかわからなくなるから。望んでこう生まれついたわけじゃないんだけど…………」
ヴァルターは目を伏せる。
ローグがヴヴヴと小さな怒りの声を震わせていた。
※※※
今年二十四歳になるヴァルターは、宮廷魔導師団の副長を務めている。
貴族出身ではない彼が、若輩にも関わらず第ニ席となれたのは、ひとえに彼の溢れんばかりの才能と、一握りの運のおかげである。
そのヴァルターが、理由も告げられずに魔導師団の仕事からしばらく外れるように命じられたのは、半年前のことだった。
最初は、自分をやっかむ者や敵意を抱く者による策略か何かだと勘ぐった。
しかし、そうではなかった。
呼び出されて向かったのは、現ドラグニア国王フェルディナンドの執務室である。
そこで、銀の仮面をつけたハルに初めて相まみえることとなった。
大陸の強国ドラグニアを治めるフェルディナンドは、まだ三十代の年若き王だ。
がっちりとした大きな体躯に、日に焼けた肌。
猛々しい外見だが、その茶色の瞳は優しげだ。
黒に近い焦げ茶の髪を後ろで束ねている。
気さくな人柄が有名で、ヴァルターにも親しみを込めて話しかけてくれた。
「そう固くなってくれるな、魔導師殿」
「は……。ありがたきお言葉でございます」
王の隣にいる仮面の少年の存在を気にしつつも、ヴァルターは恭しく返答した。
そこに、少年の声がかかる。
「固くなるなっていう方が無理じゃない?」
王に対して、あまりに飾らない少年の言葉遣いに内心仰天する。
「む、それもそうか。魔導師殿、いや、ヴァルターと呼ばせてもらおう。ユルゲン殿とグイード殿からおぬしのことを推挙されてな。一度話してみたいと常々思っていたのだ。古の魔方陣を読み解くのが得意だとか」
「は、もったいないお言葉でございます」
ユルゲンは魔導師団長のユルゲン・シュヴァルツ、グイードは王立騎士団長のグイード・ベルのことである。
大先輩の魔導師と王国の英雄の名を出されてヴァルターは益々平伏するばかりであった。
それにしても、この少年は誰なのか?
疑問が顔に出ていたようで、王は苦笑した。
「紹介が遅れたな。こちらはハルトムートという。何者かと問われれば、俺の『弟』、いや『兄』であると言うしかない」
「は?」
間抜けな声が出てしまった。
しかし王はさもありなんと頷いている。
「驚くのも無理はない。だが、これは紛れもなく誠の話なのだ。まあ、聞いてくれ」
それから聞かされたのは、にわかには信じ難い話だった。
先王ヴィルヘルムには二人の妃がいた。
第一王妃のサンドラと、第二王妃のレーア。
現国王フェルディナンドは、第一王妃サンドラの息子であり、唯一の男児——これまでそう信じられてきた。
しかし、第二王妃のレーアにも実は男の御子がいた。
それも、文字通り「母親の腹の中に二十年間入っていた」という。
「俺が今年三十五。本来ならば俺が生まれる半年前に、ハルトムートが生まれるはずだった。しかし第二王妃は元々王族に連なる家系でな。いわゆる『先祖返り』の血が濃く、強力な魔力を持っていた。そして、その魔力は腹の子にも受け継がれていることが発覚した」
ヴァルターはどきりとした。
王族の先祖返りとは、つまり煌龍リューネシュヴァイクの血筋のことである。
「先王ヴィルヘルムの命の元、レーア王妃の妊娠はすぐに封印魔法により『凍結』された。いわば腹の子は成長を止められた休眠状態におかれたわけだ。理由は妊娠の継続が王妃の命を脅かすため。先王陛下はレーア王妃を救うために、子は諦めるも辞さない構えだった」
王は、少年に気遣わしげな視線を送りながら、慎重に言葉を選んでいく。
だが、視線を受けた当の本人は肩をすくめただけだ。
「本当のことなんだから、気にする必要はないよ。もし出産したら、その時点で魔力が暴走して、母子共に助からない。結局、どうすることもできずに、母上は父上以外の誰にも知られることなく、二十年の月日を過ごした」
「二十年!? その間ずっと大きなお腹で過ごされるのは大変でしたでしょうに」
「それが一番苦労したことだったみたいだよ。幸い、着痩せする人だったみたいだけど。どうやって女官たちに気づかれずに着替えたり、お風呂に入ったりしていたんだろうって思っちゃうよ」
真面目くさってそんなことを言う。
すると国王もこれまた真面目に答える。
「信頼できる者を一人だけ置いたと俺は聞いたがな」
「その娘は貧乏くじだったね……まあ、きみもそうなるみたいだけど」
「…………?」
意味がわからなかった。
ヴァルターをちらりと見やると、国王は話を続けた。
「転機になったのはレーア王妃のご病気だった」
ヴァルターは表情を固くした。
レーア王妃は十五年前に亡くなっている。
それが何を意味するのか、ヴァルターには薄々わかっていた。
「この先もう長く生きられないとわかった母上が唯一望んだことが、ぼくを産むことだった。その結果、やはり出産で亡くなってしまった。世間的には病気で亡くなったことになってるけど、本当は違う」
思わず頭の中で計算する。
レーア王妃の妊娠が発覚したのが二十歳。
そこから二十年後の、ちょうど四十での出産となったのか。
なんと言っていいかわからず黙っていると、ハルがヴァルターの心を読んだように先を続けた。
「年齢のことより、致命的だったのはやっぱり母子共に魔力過多だったことだね。出産の時、本当ならぼくも母上と一緒に死ぬはずだった。それが、思わぬ助けが入って運良くぼくが無事産まれたってわけ」
「助けとは……?」
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