第6話 異世界でキャリアウーマンを目指す……かも?
ドラグニアには、龍が棲む。
遥かなる古の時代、魔族が跳梁跋扈し、世界には死と絶望が満ちていた。
混沌の中で次々と命を落としていく弱き人間に同情した神は、星色の瞳に黄金色の鱗を持つ一頭の巨大なドラゴン——煌龍を下界へ遣わした。
地上に降臨した煌龍が神の光を放つと、魔族たちはたちまち退けられ、闇の世界へと封印された。
世界に平和が訪れると、煌龍は人へと姿を変え、彼を助けた人間の妃たちとともに一つの国をつくった。
煌龍の人としての名は、リューネシュヴァイク。
国の名はドラグニア。
初代国王となったかつての龍は、国を平和に治めた。
その子孫は尊き龍の血を引く王族として、国を代々統治しいまに至る——中央大陸の強国、ドラグニア王国の建国物語である。
「ファンタジーよね……」
そっと本を閉じるとユディは溜息を吐いた。
ソファにずぶずぶと座り込んで手に持った本の表紙を眺める。
『ドラグニア建国史』と、題名が浮き彫りにされた、分厚い歴史書である。
内容を要約すると、この国の王族は元はドラゴンの血を引いているということだ。
ナンセンスだが、魔法がありならドラゴンが国を建国するのもありなのだろう。
「そういえば、あの本はレプリカと言っていたけれど、どんな魔法が書かれていたのかしら、気になる……」
あの本とは、前世で翻訳を依頼された禁書——禁じられた魔導書のレプリカである。
結局、内容をきちんと翻訳する前に死んでしまったので、どんなことが書いてあったのかほとんどわからない。
ざっと原稿を確認したときのことを思い出そうとするのだが、今となっては記憶はおぼろげである。
諦めて、ユディは次の本に手を伸ばした。
コーヒーテーブルには種々の本が積み上げられ、ユディはそれらを片っ端から読んでいる。
王立学院の女子寮の片隅にあるユディの自室は文字通り本に埋もれていた。
「ユディお姉さま! 帰っていらしてたのですか?」
ドアが勢いよく開かれるのと同時に、一人の少女が部屋に飛び込んできた。
「どうしたの、エミリヤ?」
「どうしたの、じゃありません! 今日は、シュテファン様とお会いになる日だったじゃありませんか! プロポーズはどうなったのですか!?」
ユディを探しに来たのは、従妹のエミリヤである。
ハイネ男爵家を乗っ取った、件の叔父夫婦の一人娘だが、両親とは違って気立てのよい少女だ。
歳は十六歳。
ユディより一つ年下だから、「お姉さま」扱いされている。
地味で目立たないユディとは対照的に、エミリヤはふわふわの砂糖菓子のように可愛らしい。
柔らかな蜂蜜色の髪に青い瞳の持ち主で、どこに行っても注目の的になる。
天は二物を与えずというのは嘘っぱちで、エミリヤは可憐な外見だけでなく、強い魔力も発現した。
叔父一家に邪険に扱われ王立学院に追い払われたユディだったが、その後エミリヤも王都に出てきて、同じく王立学院高等部に通っている。
一つ違うのは、エミリヤはエリートコースである魔導師養成コースに通っていること。
対してユディは一般教養のみを学ぶ普通コースだ。
すべてにおいて溜息が出るような差がある。
それでも、親切なエミリヤはいつもユディを気にかけてくれている。
海を連想させる青の瞳が、ロマンチックな話を期待して輝いているのを見て、ユディは途端に居心地が悪くなった。
大量の本に身を隠すようにするが、ぐいぐいと引っ張り出される。
「お姉さま! 照れなくてもいいじゃありませんか!」
「違うの。エミリヤの好きな恋とか愛とかの話にならなくて悪いなぁって。プロポーズじゃなくて婚約破棄されたの」
「……え?」
「ジェラルドが見つかったそうよ。それで爵位を継げなくなったのですって。結婚したら爵位がついてくるような女性をほかに探すから、婚約はなかったことにしてくれって言われたわ」
「何てこと……! そんな理由で婚約破棄するなんて、お姉さまに対して失礼過ぎます!」
怒髪天になる従妹をなだめながら、ユディは苦笑いするしかなかった。
「いいのよ、エミリヤ。怒ってくれてありがとう。ジェラルドが戻ったのは喜ぶべきことだし。それに、正直、シュテファンとの結婚は無理な気がしてたから」
「どうしてですか? 女生徒にはすごく人気がおありなのに……」
「そうらしいわね。それこそわたしには不思議よ」
女性の扱いは最悪なのに。
それでも、ほかの令嬢たちは構わないのだろうか。
貴族は姻戚関係により家を支えて振興させていくのも仕事のうち。
そのことは頭ではわかっているが、家同士の結婚さえ成しえれば、冷え切った夫婦でも、本当にやっていけるものなのだろうか?
ユディにはよくわからなかった。
エミリヤの青の瞳に心配そうに覗き込まれ、ユディは反射的に微笑んだ。
心優しい「妹」に心配をかけてはいけない。
ユディはコーヒーテーブルに積み上げられた本を指差し、明るい声を出した。
「大丈夫よ! かくなるうえは読書にいそしむことにしようと思って。ここにある本、まだ見せてなかったわよね。ぜーんぶ王立図書館で借りてきたわ。なんとなんと! 一般利用者が一度に借りられる本は三冊までなのに対して、図書館で働いていたら十冊まで借りられるのよ! たかがお手伝いの身分だけど、本当に雇ってもらえたのは僥倖だったわ! このあたりの本は翻訳してみようかと思ってるの」
無理に明るく振る舞う従姉を眺めやり、エミリヤは「まったく、お姉さまったら」と小さく溜息を洩らした。
ユディの借りてきた本をパラパラとめくる。
「歴史書に政治学、こっちは経済。お姉さまの読書の幅は相変わらず広いですね。私は授業で必要な本以外には、恋物語くらいしか読みませんのに」
すると、エミリヤは何を思ったのかはっと顔を上げた。
「そうだわ! お姉さま、王城の文官の採用試験をお受けになってみたらいかがですか?」
「ええ? わたしなんかが受けたって受かりっこないわよ」
「そんなの受けてみなきゃわからないじゃないですか! もしもシュテファン様とご結婚されるなら、こんなこと勧めませんでした。だけど考えてみたら、お姉さまって受験するのにぴったりなんですもの! 授業はいつも真面目に受けていらっしゃるし、勉強もお好きですし。おまけに周辺諸国の言語にも堪能。これは、可能性あります…………!」
「ちょっと、何勝手に盛り上がってるのよ」
「考えてもみてください。もし保守的なロドリー家に嫁いでいたら絶対に試験なんて受けられませんもの。これは、婚約破棄になったのも運命だったのかもしれませんわよ! だめで元々、挑戦するだけしてみたらいいじゃないですか」
「えええ〜〜????」
思わず素頓狂な声をあげてしまったユディである。
王立学院に通う生徒は、基本的に三種類に分かれている。
一つ目は継ぐ家のある貴族の長男長女。
二つ目は継ぐ家のない次男坊以下。
三つ目は、それ以外の平民の生徒だ。
継ぐ家がある長男長女で、それも大貴族だったりする場合は、卒業後には王都を離れ、領地経営にまい進する場合もある。
爵位を継いでしまえば、鳴り物入りで入城することもできる。
だが、そうではない大抵の生徒が卒業後に目指すのは、魔導師団か騎士団だ。
貴族の子弟であっても、平民であっても、ドラグニアに生まれついた者は武勲を立てることを夢見るからだ。
そして、魔法の才能も、剣の才能もない場合、または最初から国の政治や経済に携わりたいと志す者は、文官採用試験を受ける。
合格すれば王宮に登城して、文官として働ける。
前世でいう国家公務員試験のようなものだ。
違っているのは、受験できる年齢が特に決まっていないこと。
学院の卒業直前に受験する者が大半だが、歳が若くても合格すれば、いつでも見習いとして働き始めることができるし、逆に卒業してからでも受験は可能だ。
元々は、遥か東に位置するイスファネア皇国の制度をもじったものらしい。
優秀な人材確保のために、先王が始めたと聞く。
女子の場合は、学院には結婚相手を探しに来ているだけの、いわゆる婚活組もいる。
叔父夫婦がユディに期待していることが、まさしくこれだ。
だがユディにはその意志がまるでない。
かといって、文官を目指すなど無理だ。
「ちょっと待ってってば。文官になれるのは成績上位の男子生徒だけとか、貴族のお坊っちゃんだけって聞いたことがあるわ。わたしなんか受験させてもらえるかも怪しいわよ」
茶化して言ったが、エミリヤは一歩も引かない構えだ。
「それでは、卒業したらどうされるのですか? これから新しく結婚相手を探すおつもりですか?」
「それを言われると……」
「婚約破棄された令嬢には、ろくな縁談はまわってこないと聞きます。それにお父様がどう出るか……。結婚が決まらなかったら、修道院に行かせると騒ぎそうで…………」
「うう……。で、でも、そのときには王立図書館で正式に雇っていただけませんかって館長に頼んでみるつもり。本に囲まれて生活できるし、外国語図書も原書読み放題の翻訳し放題だわ」
「でも、雇ってもらえなかったら?」
おずおずと問いかけられて、ユディは不安になる。
「お姉さま。実は私、宮廷魔導師団の入団試験を受けようと思っています」
「え……いつ?」
「まだ決めていませんけど、来年あたりでしょうか。もちろん、お父様には反対されるでしょうけど。卒業してすぐに縁談するのではなく、自分の力を試してみたいと思っているんです」
「そうだったの。すごいわね、応援するわ」
「だったら、お姉さまにも、ぜひ文官採用試験を受けていただきたいです! 小鳥寮から女性文官が出たら快挙ですから」
「いつの間にそんな話になったの!? わたしには無理だってば」
小鳥寮とはユディとエミリヤが住まう女子寮の名称である。
王都に邸宅を持つ裕福な貴族の子弟は自宅から通っているのに対し、寮住まいは大抵地方出身のそれほど余裕のない貴族の子というのがお決まりのパターンだ。
しかも部屋割は階級ごとに決まっている。
貧乏貴族の女子や平民の生徒が割り当てられるのはすきま風の吹く一階だが、お金持ちの女子は広々とした二階に住んでいる。
ちなみにユディの部屋は一階だが、エミリヤは二階に部屋を持っている。
食事も、ユディは自炊して部屋で食べているが、エミリヤは寮生用の食堂で食べている。
そのあたりにも、叔父のエミリヤにかける愛情と、ユディに対する適当さがにじみ出ている。
「お姉さまならきっとできます! 小鳥寮から初の女性文官を!」
怖じ気づいて一歩下がろうとするユディの手を、エミリヤのそれががっしりとつかむ。
ユディの口からひっと小さな声が漏れた。
熱意に満ちたエミリヤの青い瞳が、ユディを見つめてにっこりと微笑む。
「ちょっと外国語ができるだけで受かるほど甘くないでしょ!?」
「だからって、何もしないでいて修道院行きになったらどうするおつもりですか? 結婚も嫌、尼になるのも嫌なら、何かで結果を出さなきゃ、お父様だって納得してくれないと思います」
まったくの正論に、口をつぐむしかない。
ユディはそれでも少々の抵抗を試みた。
「わたしに魔法の才能があれば、魔導師団を目指してたわ。エミリヤがうらやましい」
魔力自体がほとんどないユディと違い、エミリヤは才能溢れる魔導師の卵だ。
魔導師団や騎士団の入団試験は基本的に実力主義だから、能力さえあれば女子でも関係ない。
宮廷魔導師になれるのはほんの一握りだとしても、選びさえしなければどこでも仕事にありつける。
「食いっぱぐれのないコース」を歩むエミリヤがうらやましかった。
鬱々とするユディに対して、エミリヤは可愛らしい仕草でにっこりと微笑んだ。
「王城で働く文官は高給取りですわね」
ユディの心がぐっと動いた。
自立への道の第一歩には、先立つものが必要である。
「無理に縁談する必要もなくなりますし、修道院行きもなくなります」
ユディの心がさらに動く。
エミリヤにうまくのせられているような気がするのだが、それでも今の状況を打開する駒が揃っているのは認めざるを得ない。
最後のだめ押しの一言が放たれる。
「文官として外国語翻訳にも関われるかもしれませんね? 実際に出張するかもしれませんし。現地に行けたら翻訳の腕も上がりそうですよね〜」
「……わかったわ!」
とうとう、ユディは手を上げた。
「エミリヤにはかなわないわね。受かるなんて思ってないけど、やるだけやってみるわ」
「そうこなくちゃ、ですわ!」
「そうと決まったら準備がいるわね。確か受験には事前申請が必要だったはず。教師の推薦状もいるんじゃなかった? 推薦状を書いてくれそうな先生がいるから、明日さっそく訪ねてみるわ。受験対策もしないと……」
こうと決めたらユディの行動は早い。
てきぱきと次の動きを決めていくのを見やり、エミリヤは息を吐いた。
そのまま受験についてあれこれと打ち合わせを済ませる。
多少強引ではあるが、エミリヤなりにユディの将来を案じてくれているのだ。
頑張ってみるしかない。
ユディが受験することがとりあえず決まったので、エミリヤは満足したようだ。
ここまで話っぱなしだったので、人心地つけるためにハーブティーを淹れることにした。
「それにしても、本当にシュテファン様はひどいですわ。お姉さまも今日は散々でしたわね」
エミリヤの分のハーブティーをカップに注ぎながら、ユディは今日あったことを話そうかどうか、しばし逡巡した。
「えっと……それがそうでもなかったの」
「どういうことですか?」
ハルのことをどう説明していいかわからず、結局黙っていることにした。
代わりに、気になっていたことを訊ねてみる。
「ううん、なんでもない。それより、魔力がありすぎて声を聞くだけで気分を悪くさせるって、どういう状態かわかる?」
「なんですか、それ? なんだかお伽噺みたいですね」
エミリヤの言葉にユディは瞬きした。
「お伽噺って?」
「ほら、初代国王リューネシュヴァイク様は元々は龍だったじゃないですか。煌龍は溢れんばかりの魔力の持ち主で、その鋭い咆哮は聞く者の耳を破ったっていう伝説がありますでしょう」
ドラグニアの国民は、大人から子供まで始祖が天から舞い降りた龍だったことを疑う者はいない。
外国から見ると奇異に映るらしいが、人々は自分たちの抱く王が龍の血を引いていることを信じて誇りに思っているのだ。
「煌龍の伝説ね……。確かに人体に影響を及ぼすほどの強力な魔力っていったらそれくらいしか思い浮かばないわよね……」
その時である。
ユディの脳裏に閃いたものがあった。
守護の腕輪をそっと指でなぞる。
魔法がからっきしのユディだが、実は一つだけ、神様からもらった羽根ペンを使ったオリジナルの魔法が使える。
それは、既にできている魔法陣に少しだけ「変更」を加えるというものだ。
この世界の魔道具には、その一つ一つに魔法陣が埋め込まれており、ユディはその魔法陣を後から呼び出して少しだけ消したり、書き加えたりすることができる。
変更がうまくいけば、かけられている魔法を強化したり、逆に弱めたりすることが可能なのである。
「書き換え」とユディが呼ぶテクニックである。
神様は、この羽根ペンは禁書を開く「鍵」だと言っていた。
「書き換え」の力と、禁書の「鍵」の関係はよくわからないのだが、この魔法自体は使い勝手がいいとは決して言えなかった。
それというのも、あまりに失敗が多いのだ。
ユディの魔力が少なすぎるからなのか、術が非常に不安定で、魔法陣を変更した後に発動しなくなってしまうことも多々ある。
それに攻撃魔法や回復魔法のような、その場で発動している魔法陣には使えない。
あくまでも、ちょっとした魔道具に付与されている小さな魔法陣を呼び出して、ちまちまと変えることしかできない。
それゆえ、最近では使うこと自体なくなっていた。
父の形見の腕輪を守護魔法を書き換えた時のことをユディは思い出していた。
あれは「書き換え」ができることに気が付いた幼少期、父の書斎に入り込んで勝手にやったいたずらで、父にばれたときにはこっぴどく叱られた。
魔道具にかけられている魔法陣を勝手に変更するのは、おそらく違法行為なのだろう。
父には誰かにこの力のことを話したり、人前でむやみやたらに使わないようにと、かなり厳しく言われたものだ。
(——多分、家電の改造行為に近いのよね……)
腕輪にかけられていた守護魔法の書き換えは奇跡的にうまくいき、そのおかげで効果はかなり強化されて、ハルと相対した時にもユディの身体には何の不調も現れなかった。
それで、あることを思いついてしまったのだ。
あの少年の声を、この「書き換え」魔法を使って何とかできないだろうか?
もちろん、上手くいくかはわからない。
だが、一か八かやってみる価値はあるだろう。
「急に黙ってどうされたんですか、お姉さま?」
「ちょっとね。いいことを思いついただけ」
「いいこと? なんですか?」
訝しむ従妹の少女に、ユディは黙って微笑んだ。
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