第5話 大きなヴィオランダの木の下で

「あの! 会ったばかりでこんなことお願いするの厚かましいのはわかっているんだけど、その仮面に触れさせてくれない?」

「ええ? なんで?」

「わたし趣味で翻訳をやってるのよ。実は、さっき話した本は全部最近翻訳したものなの」

「翻訳? でももう翻訳本があるじゃないか」

「出回っている翻訳本の訳が気に入らないのよ。あなたも言ってたじゃない。ドラグニア語で読むと全然つまらないって。あれって要するに翻訳の質が低いってことよ。本当によくできた翻訳本なら時に原作を越えるほどに面白くなるはずだもの」


 この世界では概して翻訳の質が低いのだ。

 特にユディの暮らすドラグニアでその傾向は顕著である。


 周辺諸国には優れた文芸図書が数多くあるというのにそのほとんどがドラグニア語に直すと途端に色を失ってしまう。

 九歳で最初の本を翻訳して以来、ユディの翻訳熱は上がりっぱなしで、今では月に一冊のペースでお気に入りの外国文学を訳している。


「それはわかったけど、でもそれとぼくの仮面とどういう関係が?」

「さっきの『ウェスリア戦記』には兵士がたくさん登場するわよね。『王女ガルーニャ』にも騎士が登場するし。その人たちって鎧を身に着けて剣を振るうじゃない? わたし、実際の甲冑っていうのがどんな感じなのか常々気になっていたの。実際に見たり触ったりしたことがあるとないじゃ、翻訳の出来は段違いになるもの。あなたの仮面って甲冑の一部みたいだから、触ったらどんなふうかなって」

「そんなに変わるもの? 翻訳ってそんなことまで気にするの?」

「する人としない人がいるけど、わたしはする派ね。光沢感とか材質とか、触った感じがつるつるしてるかザラザラしてるかみたいな細かいことが翻訳するときに意外に役に立つの。情景がもっと鮮明に心に思い浮かんで写実的に描写できたりね」


 そんなものかとハルは半ば呆れていた。

 随分と奇特な趣味だが触れられるのには抵抗がある。


 やんわりと断ろうとしたとき、ユディがさらに言いつのる。


「剣や甲冑が身近にあればいいんだけれど……。街でたまに騎士団の人たちが歩いているのを見かけるけど、まさかそのお腰の大事な物を触らせてくださいなんて頼めないものね」

「そんなこと言ったら速攻裏道に連れ込まれるからやめて」


 お腰の大事な物などと言ったら誤解されるに決まっているではないか。

 ハルは諦めたように肩の力を抜いた。


「わかった。いいよ触っても……。サンドイッチのお礼ってことで」

「いいの?」


 ユディの顔がぱあっと明るくなる。


「そのかわり騎士団の連中を見かけても声をかけちゃだめだよ。あと仮面に触ってもいいけど取らないでね?」 

「取らない! 上から少し撫でるだけにするから」


 嬉しそうにハルのそばに寄ると、花がほころぶような笑顔から一転、ユディの青紫の瞳が一気に真剣味を帯びた。


 仮面にずいと顔を近づけてくる。


「ちょ、近」

「まだ触らないから大丈夫よ」


 まるで口づけを落とすかのような姿勢である。

 息がかかるくらい近くまで寄ってくる。


「だから近いって!」

「近くで見ないとわからないもの。すぐ終わるから……」


 ヴィオランダの花と同じ青紫色の瞳に熱心に見つめられ、ハルは完全に固まった。 


 ユディのさらさらの前髪が風に揺れる。

 瞬きをするたびに、長い睫毛が頬に影を落とし、ユディの呼気が銀色の仮面をかすめた。


 貴重な展示物を検分するように、上から下から横からとユディは仮面を検分し、最後に指でそっと触れた。

 びくっとハルの身体が跳ねる。


「あれだけ光を弾いて輝くのに触った質感は意外にマットなのね……。あら? どうしたの? 震えてるみたい」

「なんでもないもてあそばれた気分を味わってるだけだから気にしないで」

「遊んでなんかないわよ。すっごく参考になったわ。ありがとう。剣にも触ってみたいけれど……」


 ユディは満足そうに微笑みつつ、ハルの横に置いてある剣をちらりと見やる。

 対象的に、ハルはぐったりしており、「これはだめ」とそれを身体で隠した。


「自分で言うのもなんだけど、こんな変な仮面をつけた男にここまで近づくなんて、きみちょっと警戒心なさすぎじゃない?」

「男って……あなたいくつなの?」

「十五」

 

 ユディより、二つ年下だ。

 だからだろうか、男の人に慣れてないユディでも、緊張せずに話せている。


 もしかしたら、仮面で顔が見えないのもあるかもしれないけれど、男……ということは全然意識していなかった。


「なんか失礼なこと考えてない?」

「えっ? ううん、考えてない」


 どきりとしながら、ユディは元いた場所に座りなおした。

 細い、しかし長いため息がハルの仮面の内側から聞こえた。


「どうしたの?」

「なんでもない……。きみみたいな子には初めて会ったからびっくりしてるだけ」


 ごくごく平凡で、中途半端なユディは、変わっているなどと言われたことがなかったので、逆に首を傾げた。

 そんなことより、翻訳のほうに意識がどうしてもいってしまう。


「ウェスリア語とガルーニャ語の翻訳はこれで進みそう。ほかにも使えるのあるかしらね……」

「ずいぶんたくさんの言語を知ってるみたいだけど何か国語くらいわかるの?」


 ユディは一瞬きょとんとしたが、すぐに指を折って数え始める。

 一、二、三、四、五。

 今度は反対の手で六、七、八、九……とやり始めたのでハルは目を剝いた。


「ちょ、嘘でしょ?」

「本当よ。読み書きまでできるとなると十くらい。聞ける話せる程度ならその倍はいけるわ。もっと勉強しないといけないんだけど時間がなかなか取れなくて」

「それ以上勉強する必要ある?」

「大ありよ! わたしはこの世界の主要言語すべてを習得するつもりでいるの。今の時点で二十じゃあ絶望的よ」


 ドラグニアのある中央大陸だけで大小合わせて二十程度の国がひしめいている。


 一か国につき一言語というわけではなく、各都市によって話されている言語が異なるなど一国の中でも言語は細分化されているし、それら一つひとつの言語がそれなりに市民権も得ている。

 そのわりには辞書などはきちんと整備されていないのが翻訳本の質の低さにつながっているのではないかとユディは見ていた。


 この世界の言語はいくつあるのかユディは正確には知らない。


 前世では世界の言語の数は七千程度と言われていた。

 もっともこれは数え方によってかなり異なるので言語学者によっては三千と言ったり、はたまた一万を超えたりする。


 たとえば前世で暮らしていた日本という国では、日本語だけが話されているモノリンガルの国だというのが一般的な認識だが、言語学的に分けて考えると「アイヌ語」や「沖縄周辺の各島の方言」は別の言語に分類されて、日本だけでも十五の言語があることになる。


 前世の言語分類で考えると、中央大陸にある国々だけでも最低でも七百の言語が話されていることになる。


 ユディはあくまでも「主要言語」を制覇したいのであって地方の方言などの習得までは考えていない。

 それでもほかの大陸の言語も合わせるとなると、生涯で習得できる言語数をはるかに超えているのは明らかである。


 だが、ユディには必要なことなはずだ。

 神からの翻訳依頼を完遂するために。


「きみが今一番興味ある言語ってどれなの?」

「……ドラセス語」

「へえ!」

「知ってるの? 昔から一番勉強したいと思ってるんだけど、どうしても書物が手に入らないの」


 禁書はドラセス語で書かれていると、神は言っていた。  

 だが、あるかどうかもよくわからない古代語の書物になぞ、これまでお目にかかったことがない。  


 聞くところによると、王城の書庫には貴重本として保管されているらしいが、それこそ手の届かない場所である。


「うちにあるかな……」


 ハルが本気で首を傾げるのでユディは思わず顔をほころばせた。

 ユディが十七年かけても、一度も遭遇したことのない書物だ。

 一般家庭にはまずない。


「あなたの家、ご本がたくさんあるの?」

「うん」


 カップにもう一杯お茶を注ぐ。

 ひっきりなしにはらはらと舞い落ちる、ヴィオランダの花をふと見上げた。


 こうして木の下でお茶を飲んでいる相手が、見ず知らずの少年だというのが不思議だった。

 そういえばシュテファンとは、こんなふうにユディの好きなものについて話したりすることは一切なかった。


「さあて、行くかな。サンドイッチごちそうさま」  

「もう行っちゃうの?」


 ハルが立ち上がると、つい寂しそうな声が出てしまった。   

 初対面なのに、ユディにしては随分気を許していたようだ。


 恥ずかしくなって慌てて下を向く。

 ハルはそんなユディを静かに眺めると、ごく自然に提案してきた。


「じゃあこうしよう。今度、サンドイッチのお礼を持って会いに来るよ」

「え……本当?」

「うん。きみの家はどこ?」

「寄宿舎暮らしよ。小鳥寮っていう女子寮に住んでるわ」

「女子寮って一気に会いに行きづらくなるね」

  

 ハルはがくりと肩を落とした。

 しっかりユディを女の子として意識しているような発言に、今さら動揺してしまう。


「ほかの場所で会えない?」

「そうね……」


 たまたま出会った男の人との次の約束をするなど、かなり大胆な行動だと思うし、当初は考えてもいなかった。

 仮にも貴族令嬢としてはかなり向こう見ずな行動かもしれないが、ひどい婚約破棄の後に無駄になりそうだったお昼に付き合ってもらったことで、自分でも驚くほど元気づけられた。


 何か事情のありそうな、声を封じる仮面を身に着けたハル。

 下手に首を突っ込むことはできないし、素性を聞いたところで厄介事を招くだけだろう。 


 それでも——。


「あの……わたし、休日は王立図書館にいることが多いんだけど、よかったら今度そこで落ち合わない?」 


 ユディは勇気を振り絞って言った。


「図書館の隣が公園になってるの。そこで一緒にお昼ご飯、食べない……? わたし、またお弁当作ってくる……けど」


 最後の方は恥ずかしくて、胸がドキドキしてしまって、つっかえ気味になってしまった。

 ユディにとって、これが人生初のデート(?)の申し込みになってしまったのだが、ハルはあっさり了承した。   

  

「いいよ。でもお弁当作ってくれるって嬉しいけど、それじゃあ今日の分と二度お礼しないとね」 

「いいわよ、そんなの」


 お礼を言いたいのはこちらの方なのだから。

 

「ありがとう。楽しみにしてる。そうだ、ドラセス語の本があるかどうか、帰ったら探してみるよ」

「きっとそれは見つからないと思うけど……。いいのよ、そんな気を遣わないで」

「だから、今日のお昼のお礼だって」


 仮面の下で、ハルが微笑んでいる気がした。


 折しも、二人がいるのはヴィオランダの木の下。

 その日二人は花言葉通りの「運命の出会い」を果たしたのだった。

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