第3話 宙ぶらりんの令嬢と呼ばれて
「つまり、お前は何をやっても中途半端なんだ。器量は悪くないのに可愛げがない。勉強はできるのに要領が悪い。魔力も魔法の才能もない。後見として嫁ぎ先を探さねばならんこちらの身になってほしいな。まあ、宙ぶらりんでも嫁のもらい手があればいいがな……。いっそ尼になるか?」
以前叔父にそう言われたのを思い出して、胸の奥がつきんと痛んだ。
ユディは、ハイネ男爵の一人娘としてこの世界に生を受けた。
ハイネ男爵は、王都から遠く離れた場所に位置する、ハイネ村を代々治めていた村長の家系で、数代前に男爵位を賜ったそうだ。
人口わずか二百人の小さな村だが、父は農業を中心とした堅実な領地経営を営み、村民からの信頼も厚かった。
ユディの母は早くに亡くなっていた。
それでも父と二人、平穏な生活を送っていた。
しかし、その穏やかな暮らしは、十年前に壊れてしまった。
きっかけは、父が不治の病に侵されているのが発覚したことだ。
母のいないユディにとって、有事のときに頼りになる大人は、叔父夫妻しかいなかった。
それまで疎遠だった彼らは、父の病気を聞きつけて遠方から駆け付け、屋敷に移り住んだ。
それが、不幸のはじまりだった。
叔父は、病床の父にこうささやいた。
「何度も言うようですが、幼いユーディスに領地経営の苦労などをかけてはかわいそうというもの。女子なのですから、家に縛りつけておいたら女としての幸せを逃すことになりましょう。これからは自由に勉強したり、恋をしたり、将来的には身元のしっかりした良き男性を見つけて幸せになってほしいと思いませんか? 微力ながら私はそのお手伝いをするためにここにいるのです。家族ではありませんか」
毎日のように真摯に語りかけられた父は、結局、叔父の言うままに爵位を譲ってしまった。
ユディが「それ」を見てしまったのは、父が正式に叔父に爵位を譲与した時のことである。
譲与手続きの席で、ユディがハイネ男爵位の継承権を正式に手放し、叔父に譲渡する契約書に署名した時だ。
病床の父の横で厳粛な表情をしていた叔父の口元に一瞬閃いた「してやったりという」表情——ユディの視線に気が付いた叔父は慌ててその笑みをしまい込んだが、ユディにはその時にすべてが腑に落ちてしまったのだ。
叔父は爵位を欲しがっていた。
そして、爵位も、ハイネ村も、財産も、ユディが受け継ぐはずだったすべてをまんまと自分のものにしたのである。
この世界では、女性でも爵位を継ぐことができるが、なんだかんだと理由をつけて、男性の親戚が爵位を横取りすることが往々にしてあるということは、後から知った。
父の死後、手のひらを返すように邪魔者扱いされるようになったユディだったが、幸か不幸か、王都の寄宿学校である王立学院に追いやられたため、叔父夫婦とはそれからずっと離れて暮らしている。
寄宿学校に行かされたのは、貴族子弟が多く通うこの学校で、将来の伴侶を見つけてこいということだ。
もし在学中に適当な結婚相手が見つからなかったら、卒業後は今度こそ修道院行きである。
今年十七歳のユディは、どちらかというと地味なほうだ。
艶やかな黒髪はいつもおさげにしているし、青紫の瞳は眼鏡に隠されている。
目立つのが苦手で、世を渡っていけるだけの知識も、経験も、要領の良さも持ち合わせていない。
何につけても際立ったところがない「宙ぶらりん」の少女——それがユディなのであった。
幼なじみのシュテファンとの婚約話が持ち上がった時には、結婚に幸せを見出すという、ありきたりな展開があるのかもしれない、と一縷の望みをかけたが、それも思いがけず破談になった。
あの青年と幸せな結婚生活が送れるのかはかなり疑問だったが、どうせ貴族の結婚は誰としても同じようなものだ。
次の縁談で、まったく知らない相手の元に嫁がされるだけである。
金持ちの伴侶を見つけて裕福に暮らすのが一般的な貴族女性の幸福なのだが、ユディにはどうもその夢はしっくりこないのだった。
望まぬ相手との結婚も、修道院行きも、両方ごめんだった。
かといって、学校を飛び出しても女一人で生きていくあてがあるわけでもない。
職人階級であれば幼い頃から奉公に出て、十七にもなれば立派に働いているものだが、あいにくユディには何の技術もない。
趣味で続けている翻訳はかなりのレベルになっていると思うのだが、それで家を出て独り立ちしてやっていけるのか、皆目わからない。
路頭に迷うのが恐ろしくて、試してみようと勇気を出すこともできないでいた。
とりあえず社会経験を身につけようと、八方手を尽くしてなんとかありつけたのが、王立図書館での「お手伝い」という名の雑用係だ。
学校のない休日だけ、数時間図書の整理をするだけの簡単なアルバイトである。
これだけでは、この世界で社会人としてやっていくのに必要な経験や知識は手に入らない。
学問も中途半端である。
王立学院は男子には立派な教育がなされるが、女子の場合は道徳教育に重きが置かれる。
勉学よりも、立ち振る舞いやマナー、それに刺繍などの家政の授業が多い。
前世では一般人として、立派とは言えないまでも普通に生きてきたのは、日本という社会が成熟していたからだ。
こちらの世界では、女性が仕事に就くのも、学問をおさめるのも、何かと制限が多い。
大多数の貴族の娘と同じように、このまま籠の鳥としての運命を受け入れるか、野垂れ死に覚悟で市井に飛び出すか、すべて諦めて尼になるか。
そんな少なすぎる選択肢からの悲観的な未来像が、ユディの胸をきしませるのだった。
なんにしてもこのままではいけないのはわかっている。
八方塞がりの今の状況から逃れたい気持ちは、日ごとに大きくなってきていた。
※※※
まだ、寄宿舎には戻りたくなかった。
友人たちは、ユディがプロポーズされたものと思い込んでいる。
その期待を裏切り、がっかりした顔に囲まれるには、今しばらく時間が必要だった。
そこでユディが取り出したのは、「売買契約書・ドラグニア語版」と書かれた書類の束である。
こんな時だというのに、叔父に頼まれている契約書の翻訳のチェックの締め切りが迫っていることを思い出すのだから、よほどロマンスに縁がないのだと自嘲してしまう。
だが——。
「槍が降ろうが雷が落ちようが婚約破棄されようが、納期は絶対厳守!」
お客様の信用第一、何かあったらすべて自己責任の元フリーランサーの
木の根元に座って、契約書を膝の上に広げた。
令嬢の行いとしてはけしからんと言われてしまいそうだが、ユディは気にしなかった。
ハイネ村は緑豊かで、幼い頃は森でよく遊んだものだ。
幼い頃から語学の得意なユディである。
それをいいことに、いつの頃からか、叔父から外国との取引に関わる法務や、経理の仕事を振られるようになっていた。
もちろん、単に余裕がなくて人が雇えないという理由からだ。
人を雇えば金がかかるが、ユディにやらせれば賃金なしで使い倒すことができる。
王立学院できちんとした読み書きを学べるのも、叔父が高い学費を出してやっているおかげなのだがら、これくらいやれということを遠回しに言われているので、ユディとしては断りたくても断れない。
婚約者破棄された場所でタダ働きをするなど泣きっ面に蜂だが、ユディの頭はすぐに仕事モードに入っていく。
叔父にはいい様に使われているが、ユディはやはり翻訳の仕事が好きだった。
無心になって文字の世界に入り込む感覚が好きなのだ。
青紫色の花びらが舞い落ちる中、一心に文字を追うユディの頭からは、いつしか薄笑いを浮かべるシュテファンの顔が消え去っていく。
頼まれていた契約書の翻訳のチェックは、今日までが期限だ。
納期に遅れたとあっては、フリーランサーの名折れである。
あくまでも「元」だが。
前世では、フリーランスの翻訳者仲間には強者が大勢いた。
臨月まで案件を請けて、陣痛が始まったぎりぎりのタイミングで納品のメールを送信。
そのまま病院に直行して出産した女性の翻訳者がいた。
外国でクーデターに遭い、缶詰にされた空港から一瞬Wi-Fiが入ったタイミングで納品のメールを送信した翻訳者もいた。
それらに比べれば婚約破棄くらいどうということはない。
そう、ユディは思うことにした。
「うーんと……あ、ここ間違ってる……。ここも。何でこんなずさんな契約書を作れるのかしら? これじゃあ万が一商品が入ってこなくても賠償請求もできない」
フリジア語からドラグニア語への翻訳の出来は酷いものだった。
「この取引先はいつも契約書の翻訳を間違えて送ってくるわね。わざとだとしたら悪質ね」
一度、叔父に忠告すべきかもしれない。
(でも余計な事をするなと嫌味を言われるかも……?)
タダ働きに文句をつけられるのも嫌だな、などと考えていた、その刹那のことである。
ヴィオランダの木がざわめいたかと思うと、突然の強風が吹きつけた。
大量の青紫色の花びらが宙に舞う。
「あっ、契約書が!」
膝に広げていた書類が、空高く飛ばされてしまったのだ。
あれがなくなったら大変である。
叔父にネチネチと嫌味を言われる未来が頭をよぎり、慌てて立ち上がる。
「どうしよう、大事な書類なのに……!」
青くなったユディの横を、黒い影が疾風の如く通り過ぎた。
小柄な人物が勢いよく空中に飛び出し、紙を捕まえる。
風の魔法なのだろうか、両脚部分に淡く発光する魔法陣が見えた。
空中で自由自在に動き回る、その顔は逆光でよく見えない。
だが、何かがきらりと光ったようだった。
あっという間に書類をすべて集め、花びらとともにふわりとユディの前に降り立ったのは、細身の少年だった。
小柄で、ユディと同じくらいの背丈だ。
目を引くのはその顔で、銀色の仮面ですっぽりと覆い隠されている。
騎士が身につける甲冑の面に似ていて、目の部分には十字に薄い切れ目が入っていた。
後頭部は露出しており、豪奢な金髪が肩にかかっている。
少女のようにも思えるが、白いシャツに膝までのズボンといういかにも少年らしい格好に、腰には剣を帯びている。
半ば呆然としながらも、とにかく何か言わなければと口を開いた。
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