第2話 いきなり婚約破棄される日もある

 頬の上を通り過ぎるそよ風に春の暖かさを感じて、ユディはふと空を見上げた。


(あ……龍だわ。珍しい)


 上空の遥か彼方を、銀色に光る一頭の龍が飛んでいくのが見えた。  


 前世では、空を飛ぶのは飛行機やヘリコプターだったが、この世界では龍や竜をたまに目撃する。

 飛行機サイズの大きな個体が「龍」、馬くらいのサイズの小さなものが「竜」だ。


 今、上空を飛んでいるのはレアなほうの「龍」だ。


 銀色の龍を見送っていると、頭上の木から舞い落ちた青紫色の花びらが、同じ色の瞳を持つユディの目の高さまでひらひらと飛んできた。

 手を伸ばして取ろうとするが、まるで意思を持った生物のようにするりと逃げていってしまう。


「何してるんだ、ユーディス?」


 現 実 逃 避 です。

 喉まで出かかった言葉を飲み込み、電光の素早さで作り笑いを顔面に張りつける。


「なんでもないわ」


 ここは王立学院の裏庭である。 

 大陸の強国ドラグニア王国の王都ルールシュが誇る学院の裏庭には色とりどりの草花が暖かな陽光にさらされ、生い茂る木々が明度を高めていた。


 中央には青紫色の花をつけたヴィオランダの大木が威風堂々と立ち、その下で、ユディは彼女の婚約者であるシュテファン・ロドリーとともに佇んでいた。

 騎士団の制服にきっちりと身を包んだ出で立ちのシュテファンは由緒正しい子爵家の次男で、まだ学生にも関わらず、見習いとしてすでに騎士団に所属している。


 聞くところによると女生徒の間ではかなりの人気だそうなのだが、ユディにとっては家同士のつき合いのある、幼なじみという感覚がいまだに消えない。

 加えてこの青年の欠点をユディは嫌というほど知っていた。


「最近はどうしてた? 相変わらずつまらない本に埋もれて過ごしてるのかよ」


 小馬鹿にするようにシュテファンが訊ねる。

 家に籠るより外で身体を動かすのが好きな彼にとって、ユディの読書好きは理解し難いものらしい。


 別に好きなものがそれぞれ違ってもいいとユディは思う。

 ただ自分と好みが違ったとしてもそれを尊重してもらいたいだけだ。


「最近では女にも教養は必要っていうけどなぁ、限度ってもんがあると思うぜ? お前の場合は魔法を学んでるわけでもなし、俺たち男みたいに騎士になったり王城勤めの文官を目指すわけでもなし。卒業したら結婚して子供を産むだけしかないわけだろ? 真面目なのはいいけど、そんなにたくさん本なんか読んで時間の無駄じゃないか?」


 ユディは眉間に皺が寄りそうになるのを意思の力で押しとどめた。


「……そんなこと、ないわ」

「時間が余ってるってことか。暇でうらやましいぜ。俺なんか学校に加えて騎士団の鍛錬もあるから忙しくてかなわない。今日だってここへ来る時間をつくるのがどれだけ大変だったことか」


 わざわざ時間を作ってくれてありがとうと、こちらは感謝しないといけないのだろうか。

 会って十分もしないのに、ユディはすでにシュテファンとの会話に疲れを感じていた。


 騎士服で飾り立てた立派ななりをしていても、この青年との未来はどうにも明るく思い描けそうにない。

 舞い落ちる青紫の花びらがいやに目につき、ユディの神経をちりちりと騒がせた。


 ヴィオランダの花言葉は「運命の出会い」。

 貞操観念に厳しい王立学院だが、この花の時期に限って男女の外出を認めるという伝統がある。


 カップルが成立すると、その後正式に婚約したり、卒業後には結婚したりすることも珍しくない。

 要するに、この時期は学校公認で見合いや交際を奨励する期間なのだ。


 さらに、ヴィオランダの木の下でプロポーズをして結ばれると一生幸せになるというジンクスがあり、学院の一部の生徒たちの間ではまことしやかに信じられていた。

 花の咲き誇るヴィオランダの木の下で会おうと、婚約者に呼び出された——これでプロポーズを期待しない者はいない。


 女子であれば誰もが夢見る状況ではあったが、ユディの心は弾んでいなかった。


 その証拠に、こんな日くらいおしゃれに精を出してもよさそうなものなのに、ユディはいつものように王立学院の制服を身に着けていた。

 深緑の膝下丈のワンピースは腰部分はベルトで締めるようになっていて、胸元には臙脂色のリボン。

 加えて、黒髪はおさげにきっちり結わえられている。

 

 諸事情によりシュテファンとの婚約がばたばたと決まってからたったの一か月だ。

 その間、婚約者らしいことをする暇もほとんどなく、ここでプロポーズとなると一足飛びすぎる感が否めない。


 それに、前世で神様に依頼された「翻訳のお仕事」はいまだ未達成のままである。


 この世界に転生して早十七年。

 神様の言っていた禁書はどこにあるのか、何もわからないまま時間だけが過ぎていた。


 翻訳者として仕事をしていた山西悠里としての記憶も、だんだん曖昧になってきている。

 もしかして、神様は悠里を転生させたことを忘れてしまったのかもしれない、と何度も考えたが答えはわからない。


「ユーディス、聞いてもらいたいことがある」


 期待ではなく嫌な予感に、どきりと心臓が跳ねる。


「婚約の話はなかったことにしてくれ」


 予想を裏切る発言に、数度瞬きをした。


「……理由を聞いても?」


 シュテファンは仰々しく溜息をついた。


「兄が見つかったんだ」

「ジェラルドが? 魔物討伐に出て、そのまま返らぬ人となったとばかり……!」

「そうだ。わかるか? ジェラルドが戻れば俺はロドリー家の『次男』に逆戻りなんだよ。結婚したら爵位がついてくるような女性をほかに探さない限り、な……」


 重く沈んだ青年の口調にはっと思い当たる。 

 元々ロドリー子爵家は、亡くなったと思われていた長男のジェラルドが継ぐはずだった。


 ユディも、ゆくゆくは自分はジェラルドと婚約すると思っていた。

 それが行方不明になったということで、急遽シュテファンの名前が浮上したのである。

 早急に体裁を整える必要があるということで、ばたばたと形だけでも婚約することになったのが一か月前だ。


 だが、兄が戻ったとなると、シュテファンはどこかで跡取り娘を見つけて、ほかの家に婿入りするつもりなのかもしれない。


 継承する爵位がない貴族の次男坊以下は、それぞれ生き残りに必死だ。


「もうすでに、いくつか新しい縁談話が出ている。もちろん、このまま騎士団で出世すれば騎士爵だって夢じゃないのはわかってる。だが、俺のような有望な若者に家を継がせたいと思う貴族は多いんだよ。それを無下にするわけにはいかないって、お前ならわかってくれるだろ?」

「え……」

「婚約期間は短かったしな、お互いなかったことにするのが一番だと思う。十代のうちならどこでも嫁げるだろ? 歳取る前に婚約破棄してやれたからよかったよな」

「…………」


 自分に自信がある人間は、時として他者への気遣いという基本的事項が頭から抜けてしまうとユディは学んでいた。

 たとえ非がなくとも、婚約破棄された側の女性がどれほど陰口を叩かれるのか貴族なら知らないはずがない。


 自分勝手な理屈を振り回し、打算にたっぷりと満ちた表情の青年を前にしても、ユディにはやり返すだけの勇気もなく、その方法もわからなかった。

 だから、仕方ないので、丁寧だと思えるやり方で別れのあいさつを述べるしかなかった。


「ジェラルドが無事で戻ってよかったわ。短い間だったけれど、ありがとう、シュテファン」

「あ、ああ……」


 できるだけ落ち着いて見えるように、微笑んでみせた。

 それが精いっぱいの強がりだ。


 なんとなく肩すかしをくったようなシュテファンの表情は、もしかしたらユディが泣いてすがってくることを期待していたのかもしれない。

 もちろんそんなことをするつもりはさらさらなかった。


 胸中で、やるせない気持ちと、せいせいした気持ちを混ぜ合わせていると、シュテファンの言葉が飛んでくる。


「宙ぶらりんは大変だよなあ。まっ、これから頑張れよ。爺さんと結婚させられないといいな。じゃあな」


 最後までよけいな一言を残して、一か月だけの婚約者はその場を立ち去っていった。

 あとに残されたユディはどっと疲れを感じた。


 これで、よかったのだ。

 そう自分に言い聞かせる。


 知らず知らずのうちに固く握りしめていた手の甲に、青紫の花びらがそっと舞い落ちた。

 手をそっとゆるめると、花びらがふわりとこぼれ落ちていく。


 さっきより胸騒ぎを感じさせなくなったそれを、ユディは疲れたように眺めた。

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