タダ働きはごめんです! 転生翻訳者の禁書探し
ちぴーた
第1話~プロローグ~フリーランサーが一番嫌いなことはタダ働きです
「よし、納品完了……!」
電子メールを送信すると、山西悠里は大きく息を吐きだした。
たった今、副業で請け負っていた翻訳の仕事を、納品したところだった。
二十五歳の悠里は、フリーランスとしてやっていくにはまだまだ経験が足りないので、平日は副業OKの会社でOLをしながら、アフターワークと土日だけ翻訳者という二足のわらじを履いている。
翻訳にも、色々なジャンルがある。
外国の本を翻訳するのは文芸翻訳。
映画や動画に字幕をつける字幕翻訳。
そして、企業が使うビジネス文書を翻訳する産業翻訳だ。
悠里が主に請け負っているのは、その産業翻訳である。
今、やっとの思いで仕上げたのは、外国製の有名メーカーの掃除機の、ウェブサイト用の宣伝文書だ。
悠里がよく依頼されるのは、外国の家電製品を紹介するような、いわゆるマーケティングに関係する文書で、人が「翻訳者」と聞いたときにイメージするような、本や映画の字幕などの翻訳などはやったことがない。
……やったことが、なかったのだが。
変わった仕事が入ったなあ、と悠里はローテーブルに置かれた一冊の本をそっと取り上げた。
金のエンボスで縁取られた、見るからに上等な作りのハードカバーの本だ。
題名は書かれていない。
表紙の一部に透明なパネルがはめ込んであり、中には小さな羽根のペンが入っているという凝りようだ。
むろん、中身は外国語で書かれている。
これを日本語に訳してくれというのが、新しく持ち込まれた依頼だった。
語学は、悠里の唯一の特技だ。
悠里からしてみれば、スポーツができたり、音楽ができたり、会話が面白かったり、友達が多かったりするほうがすごい。
それでも、翻訳をやっている、と口にすると「え〜、すごい。どんな本翻訳してるの?」などと必ず言われてしまう。
ちょっとそれが恥ずかしいような、嬉しいような気持ちがする。
実際は、外国製の掃除機や、自分には縁のないブランド物のバッグの売り文句を翻訳しているだけなのだが……。
でも、実はほんのちょっぴり憧れてもいた。
いつか、自分の名前が翻訳者として本の端っこに印刷される喜びを味わってみたい、と心のどこかで思っている。
産業翻訳者に必要なのはスピード、効率、そして誤訳のない読みやすい翻訳。
文芸翻訳者に必要なのは、作品の持つメッセージや雰囲気を読者に伝える文才だろう。
文才なんか、自分にあるだろうか?
同じ単語であっても、小説などではビジネス文書とは言い回しが大きく違ってくる。
今回、人づてに、ぜひにと依頼が来たのだ。
原稿はメールでデータが送られてくるのが一般的なのに、今回は原本が自宅まで郵送されてきた。
これから中身を確認して、本当に引き受けるかどうか判断しなくてはならない。
すべてがイレギュラーな感じがして、なんとなく落ち着かなかった。
ぐぅっと、腹の虫が音を立てる。
「お腹空いた……。さすがに、何か食べなきゃ」
仕事から帰ってきてそのまま、夕飯も食べずに仕事をしていたのだ。
一人暮らしの部屋には、シングルサイズのベッド、ローテーブル、それに仕事道具のノートパソコンがあるほかは、あまり物がない。
この土日は掃除機の翻訳にかかりきりだったせいで、スーパーにも行けていないので、冷蔵庫の中身もあまり期待できない。
仕事のかけもちと慢性的な睡眠不足のせいで、肌も荒れ気味である。
ここのところ身体の調子があまりよくないので、無理は禁物なのだが、納期が迫りくるのでついつい仕事を優先してしまう。
「もう少しだけやってから、コンビニでも行こうかな」
夕飯を再度後回しにして、分厚い本の最初の数ページをとりあえず開いてみる。
原稿を開く、この瞬間がいつも張り詰める。
内容をざっと読み進め、最初の章だけはとりあえず把握する。
どこか架空の世界の歴史物語だ。
どちらかというと、かたい、正確な文章が合いそうに思える。
流れるような芸術的な言い回しが思いつかなくても、おそらく翻訳できるだろう。
————よかった、これならできそう。
安堵して胸を撫でおろし、残りの章も確認しようとしたその時、スマホが震えた。
今回の依頼者である出版社の担当者の名前が画面に表示されている。
もう時計は十時を回るところなのに、遅くまで仕事をしているのは自分だけではないのだと改めて思う。
通話ボタンを押すと、快活な男性の声が携帯から流れ出た。
「夜分遅く失礼いたします。☓☓出版の所谷です」
「お世話になります、山西です。今ちょうど、原稿拝見しておりました。あの、この内容であればぜひお引き受けしたいと思います。こういうジャンルの翻訳経験はあまりないんですが、それでもよければ……」
「そうですか! それはよかった。実はエンドクライアントがぜひ山西さんにお願いしたいと希望されていましてね。文芸翻訳は以前からやられているんだなとそれで思ったんですが、違うんですか?」
悠里は首を傾げた。
翻訳会社を通さず、クライアント直受けというのは、今回が初めてのことだ。
「ええ? いえ、そういうことはないです」
おかしいな、と思った。
エンドクライアントがどこか知りたかったが、聞いたところで守秘義務があるので教えてもらえない。
「スケジュールなんですが、×月×日まで分納ということでいかがでしょう。まず〇日までにできたところまで納品いただけますか?」
「はい、それで結構です」
礼を言って通話を終了する。
「この羽根ペンは取れるのかしら。あ、取れた……。光ってるし」
透明な板は簡単に外せるようになっていて、ペンはすぐに取り出せた。
LEDが内蔵されているのか、七色に光っている。
その時だった。
どくん。
嫌な感じに胸が跳ねた。
痛い……!
本とペンを抱えたまま、ぐらりと上体が傾く。
あ、これ、やばいやつだ。
かつて感じたことがないほどの胸の痛み。
どくんどくんという心臓の鼓動が、痛みとともに悠里を襲う。
死んじゃうやつかもしれない。
そうだとしたら、どうしよう。
今、仕事を引き受けたばかりなのに。
「納期……厳守がモットーなのに……」
——それが山西悠里の最後の言葉となった。
※※※
気がつくと白い雲の上にいた。
——あ、天国だぁ。ウッソー、マジ? ってふざけた感じにしてみてもやっぱり死んでるよね?
あーあ、すきっ腹で死んじゃったよ……冷蔵庫の中のスイーツ食べておけばよかった……。
おかしなテンションになっているのを自覚しつつも手足をパタパタさせていると、ふわふわと何かが飛んでくる。
子どもくらいの大きさの、すらりとした細身の妖精だった。
真っ白な髪と深紅の瞳の優麗な姿に、七色の羽根が光を放っている。
「——随分、小さいことを考えていますね」
——うわあー、妖精さんだあ! キタコレまじで……。
「落ち着いてください。それに普通に話せますから、声を出してみてください」
「え? あ、本当だ」
肉声が出ることに自分で驚く。
「死んで、ない……?」
「どうぞ左手をご覧ください」
バスガイドさんのような口調と身振りで示された方向に素直に首を傾けると、ぼんやりと暗くなった場所がある。
スポットライトの光があてられたように一部分だけが明るくなっていてそこに机に突っ伏している「自分の姿」があった。
身体をくの字に曲げ、苦しそうにしたまま、完全に死んでいる。
「はい。あなたの肉体はあそこで死んでしまいました。死因は心不全。今のあなたは魂だけの状態です」
改めて自分の手を見てみると、透けている。
妖精がずいっと顔を近づけてきた。
「山西悠里さん。仕事は真面目で、締め切り厳守と評判の翻訳者さんですね。あなたのような経歴の持ち主で、さらにもうすぐ死にそうな方を見つけるのはなかなか骨が折れましたが、ちゃんと間に合って良かったです」
妖精はにっこり笑う。
それが逆に恐ろしい。
わざわざ悠里を指名してきたエンドクライアントとは、この妖精だったのだ。
「翻訳者に、何の用があるんですか?」
「話が早くてよろしい。あなたに翻訳の仕事を依頼したい。そのために、これから異世界に転生してもらいたいのです」
「申し訳ありませんが、そのお仕事はお引き受けいたしかねます。今、スケジュールがいっぱいで…………」
つい条件反射で仕事モードで答えてしまう。
翻訳の仕事のために異世界転生っておかしすぎる。
「断るということは今すぐ魂ごと消滅するということですよ、ほらこうやって力を抜けば…………」
「わわっ、わかりました! やめてやめて、殺さないで!」
妖精が指を鳴らすと、ぐんと何かに引っ張られる感覚を覚えた。
思わず焦って叫ぶと、妖精が再度指を鳴らす。
その途端、引っ張られる感覚は消えた。
「お引き受けいただける?」
「はい……」
恐怖に顔がひきつる悠里に、妖精が無邪気に、いかにも可愛らしく微笑む。
「これから転生してもらうのは、剣あり、魔法ありの、いわゆるファンタジー世界です。そこで、あなたに禁じられた魔導書——禁書を翻訳していただきたい」
「禁書……?」
「はい。さきほどお渡しした本は、禁書のレプリカです。これから行っていただく世界に、同じ装丁の本——本物の禁書が存在します。あなたには、それを翻訳していただきたい」
「禁じられた魔導書って、どんな魔法が載ってるんですか?」
「詳しい内容はここではお教えできないのです。今後に色々と弊害がありますのでね」
「でも……できるかわからない内容の依頼はお引き受けできな……」
「何か?」
「……いえ何でも……」
有無を言わせぬ圧を受け、悠里は口をつぐむ。
怖い、この妖精さん。
しかしここで引き下がったらフリーランサーの名折れである。
「せめて、言語ペアを教えてもらえませんか? 分量と納期も。ちなみに、翻訳料金はお支払いいただけるんですか?」
悠里の言葉に、妖精はわざとらしく、はーっと溜息を吐かれる。
どうやら、かなりいい性格をしているようである。
「あなたも大概図太いですね。自分の魂とお金とどちらが大切なんですか?」
「う……」
「まあ、こちらも依頼するからにはきちんと仕事をしてもらいたいですからね。与えられる情報は共有しましょう。翻訳してもらいたい言語は『ドラセス語』です。分量は、さきほどのレプリカ本一冊と同量。納期は決まっていません。というのも、あなたにはまず、禁書を探してもらうところからやってもらうことになるからです」
「ドラ……?」
「聞いたことない言語でしょうね。今は仕方ありません。転生した先で学んで習得してください」
「異世界では日本語は通じないんですね?」
「はい。異世界では異世界の言語になります。あちらの世界でも、こちらのようにさまざまな国の言語が存在します。転生したら、できるだけたくさんの言語を小さいうちから学ぶように心がけていただきたいですね」
「そう簡単に言われても……」
悠里が語学を仕事で使えるレベルにまでするのに、どれほど苦労したか、この妖精はわかっていないようである。
「そもそも、何のために禁書なんて翻訳するんですか? 禁書なんて危なそうな代物、翻訳したりしたら逮捕されちゃわないですか?」
「それはいい質問ですね。ご想像通り、禁書探しはこっそりとやったほうがいいかもしれません。危ない子と思われるかもしれませんからね。でも、禁書を翻訳する目的は、危険な魔法を世に出すためではありません。——平たく言うと人助けのためです」
「人助け? 誰を助けるんですか?」
「詳しくは言えませんが、禁じられた魔法でなくては救えない誰かと、この先出会うことになります。その人物を何が何でも助けてあげてください。では健闘を祈ります」
白い光が悠里を包みはじめる。
「え……今ので説明終わりですか? チート能力とか、便利グッズとかないんですか?」
どこかで読んだ小説の内容をあげてみるが、妖精は残念そうに首をふる。
「特に考えてませんでした。そんなご都合主義なこと起こるわけないでしょ?」
「でも翻訳料金ももらえないのに……酷すぎる……。フリーランサーにタダ働きさせるなんて、死ねって言うのと同じなのに……。お仕事引き受けたからには、何があっても完遂する覚悟なんですよ……それなのに依頼主は薄情そのもの……」
愚痴愚痴と粘ってみると、妖精は渋々と何かを差し出した。
「フリーランサーって皆あなたみたいな感じなんですか? 仕方ありませんね……では、翻訳料金の代わりと言っては何ですが、これを授けましょう」
特別サービスですよと念を押されて渡されたのは、例の本についていた羽根ペンだった。
LEDはまだ光り続けている。
「これって、禁書のレプリカについてたペン? 何に使えるんですか?」
「これは禁書を開く『鍵』です。まあ、ほかにも色々と使えるかもしれませんが、説明が面倒くさいんで、自分で実際に使ってみてください。じゃあ、行ってらっしゃい」
「ちょ、ちょっと待ってください、そんな適当すぎます!」
「ここまでしてあげただけで大サービスと思ってくださいよ! あ、ちなみに、転生したって身体能力が飛躍的に向上するとか、魔法がばりばり使えるとか、ないですからね?」
「ええ〜、そういうのを期待してたのに! 酷い! 鬼、悪魔!」
思わず罵倒すると、妖精は悠里をしっかりと見据えた。
「私は鬼でも悪魔でもありませんよ」
「じゃあ何よ? 人を捨て駒みたいに異世界送りにするなんて……」
白い光で視界がぼんやりしてくる。
それでも妖精の無邪気な笑顔はしっかりと見えた。
「決まってるでしょう? 神です」
「え——」
言い返す時間は、すでになかった。
目もくらむばかりの光に包まれ、悠里はその場から消え失せた。
※※※
流れの速い河に投げ出された木の葉のように、光の中を進む。
不意に白さが途切れ、色彩の中に投げ出される。
寒さと眩しさが襲いくる。
けれど震えたのも束の間、すぐに温かくなる。
ぱちゃぱちゃという水音が響く。
産湯だった。
優しげな女性の声が降ってくる。
「名前はユーディスってつけようと決めていたの。ね、ユーディス……、あなたの名前よ」
※
山西悠里は、転生した世界では、ユーディス・ハイネという名前を与えられた。
神様の言っていた通り、生まれついた外見や能力は、ごくごく平均的な少女である。
愛称はユディ。
物心ついた頃、突如として前世を自覚した。
「そうだ、タダ働き……!」
無理やり請けされられた無給労働があることを思い出したショックで、しばらく高熱が出た。
それからユディがしたことはもちろん、様々な外国語の習得である。
いつか神様に依頼された、禁書の翻訳に役に立つだろうというだけでなく、この世界のことを少しでも多く知りたかった。
物語だろうが、歴史書だろうが、それこそ初歩の魔導書まで、手に入るものはなんでも、原書から翻訳本から全て読み漁った。
翻訳者の前世持ちという奇特な身の上からだろうか、はたまた何かしらの神がかった力が発揮されたのか、語学についてだけは、ある種の才能が発揮されたようだった。
六つの歳までには、周辺国の言語はほぼ不自由なく読み書きができるようになっていたし、九つになる頃には、物は試しと自分で初めて一冊の本を丸々翻訳した。
簡単な内容の本だったが、あの達成感は忘れられない。
そうしていくうちに、神様の言っていた「ドラセス語」についてもわかってきた。
ユディが生まれた国の名は、ドラグニア。
かつて古の龍がこの地に降臨して人となり、初代国王として治め始めたという国で、ドラグニア語が話されている。
「ドラセス語」は、遥か昔に神の世界で話されていたと言われる、古代語とも呼ばれる言語で、ほとんど名前だけしか残っていない言語だった。
どうやらユディは、現在は使われていないどころか存在すらあやふやな、書物もどうやって手に入れたらいいのかわからないという言語を、どうにかして習得しなければならないらしかった。
「ハードル高すぎよ、神様……」
転生先の世界で前世を自覚してから、月日は流れ——。
禁書の在り処は欠片も詳細がわからないまま、ユディは十七歳になっていた。
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