23.池

 

 昨夜は、片付けと布団の用意ができると、二人とも倒れこむようにそれぞれの布団に入った。

 まどろみかけたころに奈美が

「なおきくん、起きてる?」

 と聞いてきた。

「おう、どした?」

「えへへへ……、いるよ、なおきくんが。」

 酔っ払いである。

「おう、はよ寝ろ。」

「うん、おやすみー。」

 なにか言ってくるかと少し身構えたが、やがて寝息が聞こえてきて、尚樹の意識も途切れた。


 朝、奈美は、尚樹が掃除を済ませても、まだ起きてこなかった。

 暇つぶしがてらに奈美の車をざっと洗って、たばこに火をつけたところで、やっと奈美は起きてきた。

「おはよー。」

「おぅ、起きたか。」

「うん、掃除おわっちゃった?」

「あぁ、車も洗っといたぞ。」

「わー、ありがとー。ぴかぴかだねー。」

「ざっとだけどな。」

「うん、ありがとー。」

「なんか食うか?」

「ちょっとアタマ痛い。シャワー浴びてくるー。」

 やかんでお湯を沸かしがてら、水源の見当をつけようと地図を眺めていたら、山際に小さな池があるのを見つけた。ちょっと谷になった部分のふもとにあって細い川が流れ込んでいるようだ。

 近くには大きめの川もあるし、もっと山のほうにダムもある。水田に送られている水はそのあたりからかもしれないが、昔からの耕作地のようにも見えるので、その池の水を使っている可能性は高そうだ。

 着替えてきた奈美に、朝食をとりながらその話をして、車で行くほどの距離でもないので散歩がてら歩いて向かうことにした。


 公民館は、海際の工場地帯と住宅地から一段上がった、少し高台になったところにあり、東側には低い山が迫っている。南の方は開けていて、田畑と山の間に農家らしき住宅が点在する台地が広がっている。

 おそらく大昔に海だったか、あるいは川に削られたんだろうと思う。


 尚樹と奈美は、その田畑が広がる台地の端の山際の道をだらだら歩いていた。

「ふゎあぁぁぁー。」

「いいあくびだな。」

「うん、まだ眠い。池ってどのへん?」

「もうちょっと先かな?」

「結構、距離あるね。」

「まだ何分も歩いてないぞ?」

「いい天気ねぇ……。」

 上を向いて奈美がごまかす。

 尚樹がつられて見上げた空には、透明な青が広がっていた。


「ねぇ、なおとくんは彼女とかいなかったの?」

 奈美が突然聞いてくる。

「なんだ、いきなり。」

「どうだったのかなって。」

 奈美がなにを思ったのかちょっと考えるが、敢えて、はぐらかすことなく答えることにした。

「もう何年もいないよ。」

「そうなんだ。」

「前にちょっと酷い目にあってね。」

 今思えば、大したことではなかった。夜中に呼び出されたり、大事にしていた腕時計を欲しがったりといった、大目に見ればわがままの類ではあった。が、勤め始めて間もない尚樹には充分にこたえることだった。

「数ヶ月で分かれたんだけど、アレが流行ってしばらくしてからいきなり電話があって、謝られた。」

 その電話で彼女は途切れ途切れに言った。

「あのね……。

 もう指が黒くなってきちゃってるの……。

 どうしても最後にあなたには謝っておきたくて……。

 酷いことばっかりして、ごめんね。でもね……、

 ほんとに好きだったの。それだけはわかって。」

 彼女にしては、とても素直な言い方だった。

 尚樹はなにも言えなかった。

 送りたいものがあるから、と住所を聞かれ、しばらくして届いたのはあの腕時計だった。手紙の類もなく、ただ時計だけ。

 けれど、大事にしてくれていたらしく、綺麗に手入れがされていて、正確に時を刻んでいた。気圧も測れるそれは、自宅の引き出しに仕舞ったままになっている。

 そういえば、あれを発送してくれたのは誰だったんだろう。


「でも、まだちょっと女の人は苦手かも。」

 正直に奈美に言う。

「悪いこと聞いちゃった。ごめんね。」

 背中を向いたまま奈美が言う。

 そして振り返って言った。

「でも、わたしは酷いことはしないよ。」

「だろうな。ありがとう。」

 奈美は、気長に待つしかなさそうだと、笑顔だけを返した。


「この辺りのはずだけどな。」

 尚樹が地図を見ながら周りを見回す。

「池なんてないよ?」

 山側は苔むした石垣で海側は田んぼだ。

「この石垣の上か?」

 そういえば、ここまでは木が生い茂っていたが、このあたりは、良く見ると草に覆われた石垣になっている。高さは2mほどあってその先は見えない。

 水を流すには高さがいるからありうる話だ。ならば上がり口があるはず。

 しばらく歩くと、石垣が途切れたところに山に向かって登るセメント舗装の道があった。地図をよく見ると、道らしき線が書いてある。

「行ってみる?」

「ああ。」

 坂道を登っていく。

 顎を出して登る奈美をせかすようにしてたどり着いたそこには、深い緑色の水をたたえた池があった。

「わぁ、おっきいねぇ。」

 思ったより大きい。いびつな四角で1辺は100mほどもあるだろうか。木々が茂った低い山が左右を囲い、奥のほうはVの字に青空が見える。V字の底を川が流れているのかも知れない。

 池に沿って、細い、やはりセメント舗装の道がある。

「こっちに行ってみよう。」

 左に折れて池のふちに伸びる道を指差した。水門があるなら水田側の縁にあるはず。

 道幅は軽自動車1台がかろうじて通れるくらい。左側の手すりのようなガードレールもどきの向こうは石垣、右は錆びたフェンスの向こうが池だ。

 石垣を上から見ると、下の道まで石垣と法面が交互に3段ほど続いているようだ。高さにして10m弱だろうか。下の道は石垣で隠れていて、けれど、その向こうに広く田畑が見渡せる。法面には草は生えているが、木も竹も生えていない。定期的に草刈りをしていたらしい。

 フェンスの錆びかけた掲示板に『危ない! 入るな!』と赤が退色した白抜きの字で書いてあって土地改良区の名前も見える。これで可能性は高まったが、水田への給水はダムの水などに代わっているかも知れない。ぜひとも現役であってほしい。

「お? あれ、水門かな?」

 四角い池の角に突き出すように、大きな丸いハンドルが見える。近寄るとハンドルには、鎖が巻かれ南京錠がついている。

 周りはセメント舗装が広くなっていて、ちょっとした広場のようになっている。作業用兼ユーターン用というところか。

「すぐには回せないな。」

「ここから田んぼに水が送れるの?」

「多分ね。土地改良区の管轄みたいだし、手入れもしてるみたいだし、最近使った形跡もあるし。」

「よく見てるね。土地改良区ってなに?」

「田んぼの整備や水路を管理したりする組合みたいなもんかな?」

 前に、県の農業事務所の仕事をしたときに元請に教わった。発注元の県が良いと言ったとのことで施工したら、その施工方法を、設備を使っている改良区がお気に召さなかったらしく、3回もやり直しさせられた苦い記憶があって、よく覚えている。

「この水、どこ行ってるの?」

「わかんないけど、流れてるみたいだから辿ってみればなんかわかるんじゃないかな?」

 広場の中心近くの一部はグレーチングになっていて、かすかに水音が聞こえる。

「こんなちょろちょろで足りるの?」

「無理だろ? この量だと田んぼ一枚を一杯にするのに何日も掛かりそうだ。」

「だよね? カギかかってるよ? どうするの?」

「切ればいいだろう? 道具持ってきてないから今は無理だけど。」

「いいの?」

「俺たちしかいないし、改良区の事務所探すのも面倒だし、いいんじゃねぇ?」

 奈美はちょっと眉をしかめたが、

「そうだよね、お米には代えられないもんね。」

 渋々納得したらしい。服屋のときもそうだったが妙にまじめだ。多分そういう性格なんだろう。

(俺みたいにイイカゲンなのよりは良いんだろうなぁ。)

 水の行き先を探して周りを探してみると石垣の端に大き目のU字溝を見つけた。道路の下を通ってきた大きめの菅から水が流れている。

「ここみたいだ。」

「あー、たしかに。」

「下を見てみよう。」 

 来た道を水田脇まで戻って、道路からよくよく見ると、石垣の端に草に半ば覆われた溝があって、水はそこから菅で道路の下をくぐって水田側に流れているようだ。そちらを見てみると、土手の、道路からちょっと下がったところに、そこだけ台のように盛り上がった部分があって、マンホールの蓋が見えた。きっと縦坑みたいになってるんだろう。道路からそちらに向かう古いコンクリートの階段もあって、その先に水路が見える。

 来るときは、山のほうばかり見ていて全く気づかなかった。

 階段を下りてみると、四角い大き目の枡の側面に丸い穴があって水は枡の中にだらだらと流れている。

 枡からは、三方に向かう水路がつながっているが、左右は木の板で仕切られていたし、ちょっと高めの位置にあって水面に届いてないので、枡から溢れた水はまっすぐ町に向かって流れるしかない。その正面に向かう水路だけ少し大きくて、ちょっとした川くらいの幅があった。

「これだな。」

「うん。」

 二人で水路の脇のあぜ道を歩いて水を追いかけると、水田の間を下った水路はやがて、道の下をくぐって町のほうに下る配管に水を引き渡して終わっていた。そこにも鍵のかかったハンドルで開閉する関がある。

 途中に何箇所か左右に分岐する水路があったが、どれも水位が届いていない。終点の関を締めると水路の水位が上がって水田に水が配れるようになっているんだと思う。

「水はなんとかなりそうだな。」

「鍵を壊さないといけないけど。」

「まぁ、全部俺たちのもんだからいいんじゃねぇか?」

「うわぁ、すごく傲慢な殿様みたい。」

「えっへん、みなのものひかえおろう。」

 ぷっ、と奈美が吹き出す。

「あはは、似合わないからやめて。」

「うるせぇ、どうせ貧民だよ。」

「あははは、お腹痛い。」

 腹を抱えて笑う。

 そんなにおかしいか?

 落ち着いたのを見計らって言う。

「よし、この水路を追うか。」

 池の下の枡まで戻って、公民館の近くの水田まで水路が来てるか確認しながら帰ることにした。


「水が引けたら次はなにするんだっけ?」

 歩きながら聞く。段取り8割だ。

「田んぼに肥料を入れて耕して、種籾を巻いて芽が出たら水を入れる、んだったかな?」

 苗代を作らないやりかた。

「肥料は見つからなきゃなしにするとして、種籾はないとなぁ。」

「農協とかにないのかな?」

「とりあえずその辺からだろうなぁ。あとは、農家が自分の家で食べるのを脱穀しないで置いてあれば芽が出るかも。」

「でもそれってF2でしょ?」

「なんだそれ?」

「こしひかりとかのたねって、種を作る会社が配ってて、それがその品種の第一世代でF1って言うの。」

「ほぉ。」

「F1の種から出来る実はみんな大体品質が一定でF2って言う種でもあるんだけど、そのF2を植えて出来る実は、親の特徴がバラバラに伝わるから、品質が一定しないの。」

「ふーん。じゃあ出来ればF1をゲットしたいわけか。」

「最初はね。自分たちでそんな種の管理を何年もやるなんて無理だから、いずれは雑種になっちゃうんだろうけど、最初くらいはね。」

「どうやって探せばいいのかな? それ。『種籾』って袋にかいてあったりするのかな?」

「さぁ、そこまでは書いてなかったけど。」

「それって去年の秋に出来た種っちゅか実っちゅうか種籾なんだよな?」

「多分そうだと思う。」

「じゃ、どっかで保管されてるんだろうなぁ。」

「でなきゃ、アルファ米にされちゃったか。」

「あとのことくらい考えるだろうから、そこまではしなかったんじゃないかなぁ。」

「農協ってどこにあるの?」

「そういえば知らん。どっかで見た気はするけど。」

「どうやって探すの?」

「電話帳と地図かな?」

「電話帳って、紙の?」

「俺の携帯の電話帳には載ってない。あ、その辺の農家の人のケータイを充電すれば、電話番号はわかるかも。」

「で、電話掛けてどこですかって聞くの?」

「そうそう。」

「バカなの?」

「ごめん。」

「で、紙の電話帳でどうするの?」

「あ? 見たことないのか、電話帳。」

「なんか分厚いヤツ、昔の漫画にちらっと出てた。」

「あれって、住所も一緒に載せてるんだよ。」

「え?」

「地区別にわかれてるから、のこりの住所は町名と番地だけだろ? それをちっちゃい字で電話番号の横に載せてる。」

「え? 個人情報じゃんっ!?」

「そんなのない時代からあるんだよ、電話帳は。」

「えー……。」

「でも、一応、電話帳に電話番号載せるのを拒否することはできたみたいよ。」

「へぇ……。」

「でも、農協は載ってるよ、間違いなく。」

「だろうね。」

「で、住所がわかれば地図でたどり着ける。」

「なるほど。で、電話帳はどこにあるの?」

「多分公民館にも、そのへんの家にもあると思うけど、なければ図書館にあるよ。」

「ふーん、図書館様々ねぇ。」

「まったくね。」

「このへんの田んぼでいいかな?」

 公民館に近づいたので、よさそうな水田を見繕う。

「いいんじゃないかな? 道に近いほうがいいよね?」

「何枚使う?」

「種の量にもよると思うけど、少なかったら畑にしてもいいから、3枚くらいかな?」

「てことは……、ここから……あの辺まで?」

 尚樹が指を差す。

「そうだねぇ。」

「これを耕すのか……」

「そうだねぇ……」

「機械がないとつらいなぁ。」

「そうだねぇ……」

 また仕事が増えた。




---あとがき-------------

[BGM「ジャイアンみたい」(吉澤嘉代子)]

(2021/05/27 01:00)

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