それからエミと僕は、毎日いろいろなところへ行った。

 大型商業施設だったビルに登って、髪留め以外にもいろいろなものを見た。一緒に図書館に行って、人名辞典を眺めた。海に行って、柄にもなくはしゃいだ。山の中の神社に行って、お参りの真似事をした。

 気に入る髪留めは見つからない。僕の名前も決まらない。

 だんだんと気温が上がって、木の葉がエミの瞳の色に近づいてきた。そんな今日は、僕たちは環状線の駅のベンチで目を覚ました。

 僕たちは、朝日と共に起きて、夕日と共に眠る。時々は夜更かしして、星を見たりもするけれど。……エミと一緒に行動するようになってから、その頻度が少し増えた。

「おはよう!」

「おはよう、エミ」

 エミはいつも通りにこにこと挨拶をする。……朝の挨拶なんて、前は全然しなかった。エミと一緒にいるようになって、口数もかなり増えた。

「ねえ、今日はどこに行く?」

「そうだね……久しぶりに、美術館に行きたいな。ここから一番近いところは、僕、結構気に入っているんだよ」

「そうなんだ。うん、行ってみたいな!」

 エミは靴紐を結びながら、僕の言葉に頷く。

「そういえば、キミは、行きたいところはないの」

「うーん、特にはないかなあ……。きみに会えるまでは、どこかを気に入るとか、そんなことを考えたことは無かったし。きみに会ってからは、きみの好きな場所みんな好きになったし……。だから、強いて言うなら、きみの気に入っているところが、私の行きたいところだよ」

「……ふーん」

 少しだけ、複雑な気分になりはするが。僕も靴を履いて、立ち上がる。目の前の線路を、満員電車が走り抜けていった。

「えっ、電車? なんで?」

「別に、本当に走ってるわけじゃないよ。そう見えただけ」

「人、凄くいっぱい乗ってたよ!?」

「昔あの電車が走ってた頃は、あんな風に人がぎゅうぎゅう詰めになってたんだろうね」

「……やっぱり、本当にはいないんだね」

「当然」

 エミは微笑んだまま、眉を少し下げる。

「何で、走ってたんだろう。……何となく、寂しいね」

「……きっと、この駅も寂しいんだろうね」

「え?」

 首を傾げるエミを横目に見てから、あえて目を逸らして続ける。

「あれは、この駅が見ている夢なんだよ。かつての、滅ぶ前の自分を思い出して、懐かしくなって見てる夢。前にも見ただろう、あのタワーも、本当は倒れていたのに見えていたじゃないか」

「ああ、あのときの……。こういうの、よくあるの?」

「いや、たまにしか見えないよ。見えるときは、たまたまそれの眠りが浅くなってるときなんだろうね」

 街は皆深く眠って、眠りの中でつながって、一つの街になっている。たまたまそれから離れたときに、あぶくのように浮かび上がる夢が、さっきの電車であり、いつぞやのタワーなのだ。

「ふうん……? なんできみは、そのことを知っているの?」

「……さあね。……その話は、また今度ね。ほら、行くよ」

「あっ、うん!」

 僕たちは美術館に向かう。時々大きな虫とか、ネコ科っぽい謎の生き物を見かけるけど、彼らは僕たちに気付かない。……彼らは、生き物だから。

「あ、もしかしてあの建物?」

「うん」

 エミが指差す。僕は頷いた。

 門扉もドアも壊れているから、それを踏み越えて中に入る。一部、屋根が落ちているところもあるし、空調や照明なんかも動いてないから、きっと美術品たちは、世界が滅ぶ前の姿を留めているわけではないのだろうけど。それでも、僕はこの場所を結構気に入っている。欠けたり褪せたりしていても、綺麗なものばかりがあるからだ。

 美術品を眺めながら、僕たちは館内を歩く。エミが何かの前で足を止めれば、僕も止まる。僕が止まったときには、エミも足を止めてくれる。不思議な絵の前で、二人で首を傾げたり、笑ったりする。大きな美しい絵の前で、二人で言葉を失う。荘厳な彫刻の前に立って、二人でそのポーズを真似た。

 二階へ上がる。階段のすぐ前のところに、少し開けた場所がある。昔は、ここで子供向けのワークショップをやっていたらしく、低く小さなテーブルや椅子、扱いの簡単な画材なんかがある。そして、真ん中辺りのテーブルの上に、薄茶色の紙が何枚か置かれていた。エミがそれに近付く。

「これ、絵だね。誰かがここで描いてたのかな」

「そうだね」

 エミはそのまま、紙を捲っていく。ビルの絵、木の絵、骨の絵、それから、

「……これ」

 人型の何かが描かれた絵。

「ね、これ、私にそっくり! ねえ、見て! あ、しかも、『エミ』って書いてある。『いつもにこにこしている』だって!」

 心底から楽しそうなエミに、僕は目を伏せる。

「――ねえ、エミ」

 さっきの話の、続きをしようか。

 僕が薄く笑うと、エミは目を瞬かせて、首を傾げる。

「さっきのって……」

「何で、僕にはあれが、夢だと分かるのか。僕は何で、街のものが夢を見ていること、それが街に浮かび上がることを、知っているのかという話さ」

「いいの? また今度って、言ってたのに」

 僕は頷く。そして、もう一度口を開いた。

「僕はね、夢なんだ」

「夢?」

「この街全体が見ている、一つの夢。かつていた人を懐かしんで、人に焦がれて、生まれた一つの夢。……あの電車や、タワーと同じ。ただの夢なんだ」

「……夢……」

 かつてこの街には、大勢の人がいた。この街は、彼らが生きるための街だった。

 だから街は、人のことを忘れられない。それは、時折夢を見るほどに。

 街という一つのものとして、ひとつの夢を見るほどに。

 この街にいた、大勢の人間のイメージをごちゃまぜにして、一つの人型に練り上げた、それが僕の形だ。ごちゃまぜだから、性別もないし、行動も決まっていない。ごちゃまぜになったもの同士が打ち消し合って、最終的に、今の僕になった。

「そしてねエミ、教えてあげる。――キミは、僕が見た夢だよ」

 エミは目を見開く。僕は続ける。

「たった一人で生まれた僕が、耐え切れなくなって思い描いた、夢の友だち。……僕に会いたくなったのも、当然だよ。そうであるように、僕が描いたんだから」

 あのタワーの時計が、まだ動いていたころ。

 たまたまここに来た僕が、置いてあった画材を使って描いた絵。その頃ずっと思い描いていた、理想の友だち。

 どこからか現れて、僕に笑いかけてくれて、一緒にいてくれる、そういうナニカとして、僕はエミを夢に見た。

「何で今になって現れたのかは分かんないけどさ……キミは僕が描いた通りにしてくれたね。僕に会いたいと思ってくれて、僕に笑いかけて、僕と一緒にいる。……あのタワーで初めて会ったときから気付いてたよ、キミは、かつて僕が描いたものだって」

 落書きのような、ひとときの夢想が、そのままの形で現れたそのときから、エミへの罪悪感を抱えていた。でも、エミが現れてくれたことが、確かに嬉しかった。――本当はずっと、こんな風に、誰かと一緒に居てみたかったから。

「ごめんね、エミ。僕のわがままで、キミを作ってしまって、ごめん」

 僕は目を瞑る。

 ごめん、ごめんね。こんな街に、キミを作ってしまって。この街はこんなに寂しいのに、キミにそれを味わわせてしまって。

「何で謝るの? 私は、何にも気にしていないのに。私は、全部分かってて、きみに会いに行ったのに」

 不意に手を取られる。僕は引っ張られたみたいに顔を上げた。

「それは、どういう」

「そのままの意味だよ。私が、きみの見た夢で、きみが夢見た通りに、きみに会いたくてきみに笑いかけてたんだって、本当は、全部、知っていた」

 僕は、エミの手を力なく握る。指先が、少しだけ震えた。

「うそ、だって、キミはそんなこと……。何で僕に会いたかったのか訊いても、分からない素振りでいたのに」

「だって、きみが覚えているか分からなかったからね。私が生まれたのはたまたまだもの、忘れていても仕方ないと思って」

 生まれたのはたまたま。その言葉に、僕は問う。

「……そんな風に言うってことは、もしかして、キミは自分が、何で今生まれたのか、知っているのかい?」

「うん。……きみが、髪留めを失くしたからだよ」

 髪留め? 僕は怪訝な顔をする。エミは、ちょっとだけ困ったように笑った。

「お気に入りの髪留めを失くして、きみはショックを受けた。少なからず、悲しくなった。その悲しみを癒す手段が欲しくなった。……だから、私はきみの夢として、この街に浮かび上がったんだ」

 そう言うとエミは、僕の手に何かを握らせた。手を開く。……あ。

「僕の、髪留め……」

「そう。……でもね、私、髪留めがきみの手に戻ったくらいじゃ、きみを起こすつもりはないんだよ」

 僕を起こす……僕の目が覚めて、夢であるエミは消える。でも、そのつもりはないんだと、エミは微笑む。

「だって、私、きみと一緒に居たいんだ。きみといるのは楽しいし、きみに会えなかった間は寂しかった。……この気持ちは、きみが描かなかったものだよ」

 それに、まだきみの名前も決まってないしね。そういってエミは、悪戯っぽく笑った。

「本当に、そうしたいの? 良いの?」

「うん、本当だよ!」

 エミの言葉に、僕はどうしても嬉しくなってしまって。

「――じゃあ、これからもよろしくね、エミ!」

 僕は、エミを、思いっきり抱きしめた。

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