僕は、かつての映画館の椅子で目を覚ました。

 いわゆるカップルシートというやつに、躰を丸めていた僕は、思い切り伸びをしようとして、肩の痛みに顔を顰める。やっぱりここは、寝床には向いていなかったらしい。体のあちこちが痛かった。

 そして席から立ち上がって、軽く肩を回す。腰を前に曲げて、後ろに反らす。長い黒髪が、顔にかかった。……髪留め、どこにやったんだろう。

 僕はいつも、髪を頭の後ろで一つに括っていた。ところが、数日程前から、いつも使っていた髪留めを何処かに失くしてしまったのだ。

 僕は少しだけ目を瞑って、誤魔化すように首を横に振った。「まあいいさ」と呟くと、もう一度席に座って、椅子の下に置いていた靴を取り出す。綺麗な、深い緑色の革でできたストラップシューズだ。その中に丸めて突っ込んであった白いオーバーニーソックスを取り出すと、手早く着けて、靴も履く。チャコールグレイのパーカーは、チュニックのように見える程のオーバーサイズ。背中でしわくちゃになっていたフードを整えた。パーカーより薄いグレーの、五分丈のパンツも、同じように裾を整えた。髪は下ろしたまま、パーカーのポケットに手を突っ込んで、映画館を出ていく。

 映画館の扉から外に出て、何となく歩きながら考える。

 いつ髪留めを失くしたか分からないし、最近行ったところに戻って探すのは面倒だな……。……本当に、もういいかな。何処かで代わりになりそうなものが見つかるだろうし。

 そして、辺りの景色をぐるりと見回した。

 僕が今出てきた映画館は、街のビル群から少しだけ離れた、少し開けた場所にある。一応、割と大きめの、昔は主要な路線が通過していた駅も近い。というか、駅と線路を境にした向こう側にビル群が見えるような感じだ。今日はさらにその向こうに、天を衝くようなタワーがそびえているのが見える。……まあ、今日は天気もいいからな。そりゃあタワーも見えるようになろうってものだろう。

 さて、どこに行こうかな。

 別に、絶対にどこかに行かなきゃいけないというわけじゃないけれど。でも、ひとところにとどまり続けなきゃいけないわけでもない。何も生き物がいないというわけでもないけれど、意思疎通の出来る存在が誰もいないというのは、退屈なものなのだ。

 よし、今日は、あのタワーの根本まで行ってみよう。今日あれが見えたのは、きっと何かの巡り合わせだ、ということにするのだ。それにあの辺りには、昔は商業施設もあったはずだ。もしかしたら、代わりの髪留めを手に入れることができるかもしれない。

 それに何より、僕は、あの場所をそれなりに気に入っているから。久しぶりに行くのも悪くない。

 そうと決まれば、さっそく歩き出さなければ。昔はそこの駅にも、タワーまで一本で行ける電車が来ていたらしいけれど、今は当然そんなもの使えない。他の交通手段も、人がいなくなっているんだから当然ない。どこかに行こうと思ったら、徒歩一択だ。

 幸い、タワーの方向は知っている。道なんてあってないようなものだから、とにかくそこに向かって進めばいいだけだ。僕は道路にみっしりと生えている草の上を踏んでいく。

 少し歩くと、倒れたタワーのてっぺんが見えてくる。このタワーはその昔、世界が滅んだその日、根本の部分を少し残して、ぽっきりと折れてしまったのだ。……最も、僕はそれを直接知っているわけではないのだけれど。

 タワーはちょうどビルとビルの間に倒れて、そのままあまり動かなかったから、倒れたタワーに沿って歩けば根本に辿り着ける。……少し前は下敷きになった人の骨とかが見えていたものだけれど、いつの間にやら風化したのか、今ではすっかりなくなってしまった。

 確か六百何メートルとかいう距離を早々に歩ききって、僕はタワーの根本に到着した。自動ドアがはまっていた枠から、中に入る。

 このタワーの地階は、大きなホールになっている。タワーの展望台のチケットを売っていたところとか、展望台につながっていたエレベーターとか、タワーにちなんだものを売っていたショップとか、いろいろなものがある。その中でも、特に僕が気に入りなのは。

「ああ、やっぱり綺麗だな……」

 ――虹色にきらめく、大きな時計。

 その時計は、このホールでも特に光が当たり易い位置にある。白地に金の縁取りと数字の刻印がされた文字盤の周りには、花の模様をあしらった、淡い色合いのステンドグラス。その下には揃いのデザインのデジタル時計、これには日付の表示もあったらしい。そこから蔦のようなデザインの金色の振り子が下がり、その後ろに歯車機構が見える。そして振り子の横に、サンキャッチャーのように、大きなクリスタルガラスの多面体が、たくさん連ねられぶら下がっている。

 タワーが折れたとき、どうやらこのホールの天井のすぐ下の辺りで折れたらしい。天井がなくなってしまったホールで、日の光を余さず浴びているこの時計は、きっと往時よりももっときらめいているのに違いない。

 でも、この時計はもう止まってしまっている。アナログの方も、デジタルの方も。デジタル時計には年号から日付の表示があったけど、それももう止まってしまっている。

 それでも、綺麗なものは綺麗だもの。たまにふと思い出しては見に来たくなる。今日も、僕はしばらくの間それを眺めていた。

 けれど。

「……足音?」

 動物のものでも、虫のものでもない。僕と同じような、二足歩行の足音が聞こえた気がして、僕は辺りを見回した。それから、窓に沿うように入口の方へ。段々と足音は近づいてくる。一体何だ?

 厳密に言えば、二足歩行の……人の足音が聞こえてくることが全くないというわけではない。でもそういうときは、大抵もっと数が多いのだ。この街は、滅ぶまでは国の中心になるような大都市だったわけだから。そりゃあ人も多かったに決まっている。

 でも、今みたいに、一人分の足音だけが、しかもこんなにはっきりと聞こえてくることは、ない。それは断言していい。この街にいるそういうものは、僕だけだからだ。

 でも、音は確かに近づいてきて、……そして。

 とうとう、音の主が姿を現した。

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