マトリョーシカ〔Ⅱ〕:唄わない金糸雀


意外に思われる事も多いが、八木恭介は子供が好きだ。


渋沢功の一件からこちら、八木は暇を持て余していた。

あの男は、あの三愚賢と何らかの関りがあったらしい。


あの一件のすぐ後に非干渉対象リストに名前が入った。

だったら最初からそうしてくれていればいいものを、と思わなくもない。


斡旋屋ミディエイター〟としての権限は既に無く。

斡旋業務も回っては来ない。


他人を威圧するための服装も取りやめて。

オールバックにしていた髪は下ろし、サングラスを止めて。

腕に刻まれた入れ墨を隠すように袖の長いシャツを着て。

昼日中ひるひなかの公園でベンチに座ってぼんやりと。

遊ぶ親子連れを日がな一日、眺めている。


八木恭介は子供が好きだ。

家族を、妻子を持った事もある。

今はもう、居ない。


思えば蛍雪に妻と娘の影を求めていた気もしないではない。

あの娘は、彼の自律偶像は聡い。

薄々、あるいは明確にそれを自覚しているかもしれない。


だがその蛍雪も最近どこかよそよそしい、まるで思春期に入った娘のようだ。


と、そんな事を考えて、考えている自分に苦笑する。

わずか数カ月、荒事から離れたらもうこれだ。

いよいよ自分は向いていないのではないかと思わずにはいられない。


――実際、向いていないのだろう。



軽く息を吐き、苦笑する自分を止められなかった。


と、高校生らしい年頃の娘がどっかりと八木の横に座った。

距離を開けて、ならわかるが、真横にだ。


困惑する、した。

それとなく横目で確認する、当然ながら知らない顔。

そもそも女子高生に知己はいない。

心当たりがあるはずもなかった。


制服から察するに近所の女子高の生徒だろうとはわかる。

だがそれだけだ、真横に座られる心当たりはまるでない。


娘は無造作に抱えたコンビニ袋を開き、がさごそとかき回してアイスを取り出す。

2つ折りにしてわけられるタイプのそれを、無造作にふぬん、などと可愛らしい掛け声をかけて分離させ、あろうことか片方を八木へと差し出してきた。


困惑ここに極まれり、そんなことをされる心当たりは本当に無かった。




「……あー、くれるのか?」


「ダイエット中なので、私は半分で良いです」



問う八木に、娘はちらと一瞥を投げかけてから視線を外してそう答えた。

時期としてはやや遅い気もするが、この陽気だ。

ありがたく頂いておくことにした。


「なら、もっと小さいやつにすればよかったんじゃないか」


「どうしてもこの味がいい、っていうとき、あるじゃないですか」


「あー、まあな」



それからしばし、黙ってアイスを食べる。

2人とも黙々と。




食べ終わったアイスの容器をコンビニ袋にしまいこみ。

娘はまだ食べ終えていない八木の方を見ずにまた口を開く。



「――言っては何ですが、あなた悪目立ちしていますよ。

 私が機転を利かせて親子連れのフリをしなかったら通報されていたと思います。

 あちらの小さい子連れのママさん集団がそんなことを相談していました」



アイスの容器をくわえたまま八木は軽く硬直した。

まさかそんなことになっていたとは。



「……それは。

 ありがとう、でいいのか」


「いえ、どういたしまして」



娘は八木の感謝の言葉に、どうという事も無いという顔で子供たちを眺めている。



「しかしなんでまた」


「はい?」


「いや、本当に不審者だったら、とか」


「それはないでしょう」



言いながら娘が視線を転じて八木を見る。



「優しい目をしていましたから」


「……そうか?」


「ええ。

 危害を加えようとか、少なくともそういう気配ではなかったですね。

 そうでなければ私が通報しているところです」



しれっとそんな事を言って、娘は薄く笑う。

八木は困ったように、というか実際に反応に困って頬を指先でこする。

どうにもくすぐったいし、対処に困る。



「子供、お好きなんですか」


「ああ、まあな。

 娘が、いたんだ」


「そうですか。

 あまり長居せずに帰った方が良いですよ。

 通報されないとも限りませんし。

 まずそれ以前に日がな一日、よそ様の子供を見ているのもどうかと」


「そうだな、そうするよ」



娘が無造作に右手を差し出して来る。

握手でも求められているのかと右手を伸ばしかけ、

――娘が困惑した気配を滲ませたので動きを止めた。


ややあって、気づく。

空になったアイス容器をその手に乗せると、娘はそれをコンビニ袋にしまい込んだ。




「では、ごきげんよう」


娘は軽く会釈して自然な足取りで去っていく。

ごきげんよう、なんて挨拶する娘がいるんだな、などと場違いな感心をした。



「……帰るか」





**************************************





公園を出て、通りすがりのコンビニのごみ箱にごみの入った袋を投げ入れる。


歩く、歩く、歩く。

ぐるりと街中をあてもなく歩く。


街中を滔滔とうとうと、淀みなく歩いていたその足が止まる。


ぐるりと、文字通り街を一周して彼女は公園へと戻って来ていた。

秋の落日は早く、周囲はとうに薄暗くなっている。



「で、いつまでつけ回す気ですか。

 尾行にしてはお粗末、というか気配を隠しきれていませんね」



人気のなくなった公園のど真ん中で、彼女は嘆息交じりにそう告げる。


果たして、反応はあった。

深紅の中華服チャイナドレスを着た少女がゆらりと彼女の前に姿を現す、その柳眉は険しい。




「何者だ」



「それはこちらの台詞なんですが……。

 今のところ、あなたにそう警戒される理由はないはずなんですけどね、



ざわりと、中華服チャイナドレスを着た少女、蛍雪ケイセツのまとう気配が変わる。

初対面の相手に名を看破される理由はない。

ならば少なくとも相手は自分を知っているという事になる。




「何者だ」


先ほどより格段に鋭く、色濃い警戒の気配を滲ませて。

八木恭介の自律偶像は誰何すいかする。


返答次第によってはこの場で殺す。



「晴心女学院高等部1年、卯月キサラギ ヨル、です」



あっけなくそう少女、夜が応答する。

隠し立てするようなことは何もない、とでもいう態度。


蛍雪は困惑する、こいつはなんだ?


虹彩の色は深い漆黒、紫を帯びてはいない。

つまり、この少女は自律偶像ガラテアでは、




瞬間、蛍雪が見つめる先で。

ぐるりと、ヨル虹彩ひとみが渦を巻いた。


黒から茶色、赤、青を経て紫へ。

間断なく色彩イロを変じるそれを何色と呼ぼう。


単色、複合、入り混じる混沌マーブルからまた単色。

ゆるりと、だが劇的に色合いを変えながら渦巻く虹彩イロ



「私の権能は”流転Flow”と言います。

 我が権能ものながらほとほと使い勝手の悪い能力でして。

 という、扱いに困るものなんですよね」



困ったように笑いながら、少女ヨルは小首をかしげる。

どうかしましたか?とでも言うように。



自律偶像ガラテア……!」


「はい。

 ですがもっと別の名乗りをした方が良かったでしょうか」



万色に変転する虹彩を輝かせて、少女は宣名する。

極光の輝きを帯びたその瞳が蛍雪を貫き、その名は大気を震わせた。





――〝永夜アウロラ〟と呼ばれる事もありますよ。



地を蹴る、駆け抜けた蛍雪の回し蹴りは夜の小柄な体躯を捉えて弾き飛ばした。

公園に配置された遊具の一つに叩きつけられ、夜の肉体は半ば食い込みながらその表面にひびを入れる。



手応えがおかしい、なにかされた。


考えると同時に、否、その前からすでに蛍雪の権能は最大駆動している。

いつかの敗北からこちら、蛍雪の精神に油断という猶予はない。



――いつか誰かが語っただろうか。

 その名に反して"癒しの手アロウンス"は、ただ傷を癒す権能ではない。



肉体構造を積み木のように組み換え、傷をふさぎ、損なわれた機能を修復する。

それは癒しとは言うものの絶対的な意味では異なる権能だ。


不調の肉体を完全に。

ならば完全な肉体に対して使用すればどうなるか。


消化器系停止、神経系賦活。

血流を調整、筋組織の組み換えを開始。


――蛍雪の肉体は改竄リライトされる。



愛でられるためでも、愛でるたるためでもなく。

ただただ敵対者を破壊するためのそれへと。


肉体が脈打つ、皮下に異形の怪物を飼ってでもいるかのように。

いや、まさしくそうなのだ。

蛍雪は己の内に怪物を招き、それをまさに解き放っていた。



彼女の主はそんなことを望みはしないだろう、悲しい顔をするだろう。

だがもう、彼女ケイセツに敗北は許されないのだから。


容赦はない、細かい事情など知った事ではない。

こいつは敵で、だから殺す。


血装具ブラッドボーンを抜き放つ、肉厚の青龍刀を横薙ぎに一閃。


遊具ごと夜の肉体は上半身と下半身に泣き別れる、



だがいつかの敗北は蛍雪を成長させていた、焦りはない。

刃が通ることなく、夜の肩口で停止した青龍刀を無造作に引き戻しながら前蹴り。

彼女を捉えようと夜の手が伸びて来るが、蹴った反動で既に蛍雪はそこにはいない。



「――”流転Flow”は、万物を変質させる権能です。

 その変化は時系列に沿ったものでも、物理法則に沿ったものでもない。

 混沌としていて、方向性を制御する事は私自身にもできません。

 たった1つ、”変化を止める”ことを除いて」



何が制御できないだ、と蛍雪は舌打ちする。

つまりこいつはいま『切断される』という変化を止めたのだろう。


性質タチが悪い上に相性も良くはない。



だが、殺す手立てはある。


例えば呼吸、異化、同化と言った生体代謝。

生命活動にとって必要不可欠な変化は数多に存在する。

生き物は、生きるという行為は極小の変化の積み重ねに過ぎない。


ならば、殺せる。



「――さすが。

 既に何か対策を考えついている、という顔ですね。

 でも残念、忘れてやしませんか」



さっきから私、




虹に渦巻く瞳が、笑みを浮かべて彼女ケイセツを見つめる。

背筋が凍る、こいつは危険だ。

無駄と知りながらも青龍刀で斬りかかるが、当然のように弾かれた。



「いやあ、衝撃までは完全に殺せないんで結構辛いんですけど。

 あなたの判断ミスは、一目散に逃げなかったことです」



どす、と鈍い音がした。

呆気にとられながら蛍雪の視線が彷徨う。


遊具の一部が針のように飛び出して彼女の肩口を貫いていた。



 この、……なんだろう?

 まあこのよくわからない遊具は既に”流転Flow”の影響下です。

 そう都合よく攻撃に向いた変化が出るとも限らないんですけどね」



身体をよじり、変形した遊具に青龍刀を叩きつける。

傷一つつかないという事実に愕然とする。

そう、権能の影響下ならば当然『変化の拒否』はここにも及んでいる。


それに気付けば判断は一瞬だった、自らの肩に青龍刀を振り下ろし、叩き割る。

無理やりに肉を裂いて突き立った遊具から自身を開放して距離を取る。


荒い息を吐き、権能をフル稼働して傷を塞ぎながら夜からは目を離さない。



「ああ、痛そう……。

 というかまず誤解しないで欲しいんですが。

 私には、あなたを殺す気、ありませんよ?」



困ったように夜が言う、確かに、先に仕掛けたのは自分ケイセツの方ではあるが。

だが、その言葉が言葉通りに自らを害しないという意味だとは到底思えない。



「ならどうする気だ」


初期化イニシャライズを受ければ大丈夫です。

 死なずに済みます。

 記憶もなるべく、最低限しかいじらないように上申しますし」



初期化イニシャライズ

その言葉に戦慄する。

普通の契約主従からは出ないし、そもそも存在しない言葉。


こいつは、今。



「八木さんとの契約をと?」


「――お気持ちはわかります、でも生きててこそではないですか?」




わかったような口を利くヨルに、蛍雪は激昂する。

礼賛者を捨てろとは、それは自律偶像にとっての死に等しい。

自律偶像のくせに、そんな言葉を平然と――。




!」




憐みの色すら帯びていた、卯月キサラギ ヨルの瞳が極寒の色に染まる。

同じ自律偶像にかける情けも、理解も、最低限保証できる優しさも消えて失せた。



「――馬鹿なひと

 状況把握が甘過ぎる、視野が狭過ぎるし行動が迂闊過ぎる。

 今、自分が何を言ったか、




極彩の瞳は蛍雪ケイセツを見ていなかった、彼女ヨルが見ていたのは、





**************************************





そもそも、蛍雪に自由を与えているのは八木の望みだった。

姿を隠す上でも親子のように年齢の離れた2人組は目立ち過ぎる。


契約主従同士の殺し合いが何故行われているのか。

果てハイエンドから遠ざかった今の八木にはわからない。

だからひとまず生きる事にした。


生きていれば立つ瀬もあろう、死んでしまえば全部終わりなのだから。


日が暮れて、さすがに合流しようと蛍雪を探したのは当然の成り行きで。

だが行く先がどこかなど、八木にだって知る由もない。


だから遭遇は偶然、公園に引き返したのもただの気まぐれ。



!」




その叫びを、耳にしたのも。


チリチリと脳髄の奥で何かが燻っている。

死ぬ、2度と、ならば1度目は、


あの夜、歪んだ視界で暗転する直前に見た空を、満月を覚えている。


荒事にはとうになれていた、どのくらいで人体が壊れるかは知っている。

礼賛者ピグマリオンが並みの人間より頑丈なのも知っている。




振り返った蛍雪の泣きそうな表情が、全てを物語っていた。

八木恭介は朴念仁ではない、言葉にならない感情を読み取れないほど鈍感ではない。


あの夜、自分おれは死んだのだ。



「そんな顔するなよ、蛍雪。

 おまえが、救ってくれたんだろう」



困ったような表情で、笑っている自覚はあった。

彼女が自分に接する際の違和感、挙動不審に合点がいった。


身体の中を弄られたのか、自分はもう凡そ常人と呼べない何かになり果てたのか。


だが――、




「もう少し、穏便に事を運ぶ気だったのですが。

 ……仕方ありませんね」



嘆息を一つ、アイスをくれたあの女子高生が貫くような視線を彼に向けた。



「八木恭介はあの夜に死んだ。

 蛍雪さんの権能をもってしても、死を覆す事はできない。

 単純な消去法です、



口元に笑みを浮かべ、男は自らの顔を片手で撫でる。


私は、八木、恭介——



「黙れェ!!」



絶叫し駆け出した蛍雪が、少女の一瞥に隆起した地面に阻まれる。

変形した遊具が無数の槍のようになって彼女を守る。



頭痛がする。

動悸が止まない。


ぴしりと、何かが割れる音がしたのを彼は聞いた。





**************************************





振り返るな、振り返るな、振り返るな。

あの日の約束が、あの日の言葉が耳朶に繰り返し聞こえる。

それが幻聴で、どこからも響かないありもしない木霊エコーだとわかっている。


なのに。


蛍雪かのじょは振り返ってしまう。

振り返ってしまった。


敵から目を逸らすのがどれほどの愚行だったとしても。

彼女は、彼を見捨てられない。


ああ、だから。

吟遊詩人オルフェウス、君はやっぱり約束を違えてしまった。





**************************************





蛍雪と呼ばれる自律偶像が振り返る。

振り返ろうと、した。


だがその動作は完了されない。

永遠に、彼女が振り返る事は無い。


遊具が、遊具だったものが原形をとどめぬほどに変形し。

生物的な様相を帯びた巨大な尾が生えていた。

地球上の何処にも存在しない形状の、だが尻尾としか形容できない何か。


それは、無慈悲に彼女の頭部を薙いで粉砕した。

地面に赤い飛沫が、彼女の頭だったものの断片が散らかる。


男はそれを見ていたが、特別に心を動かされる事はなかった。


他人だから。

あれは彼にとってどうでもいい誰かだったから。


私は、羽鳥ハトリジュン





いいえ、と少女ヨルが断じる。



ああ、そうか、俺は、羽鳥ハトリジュン、ではない。





**************************************





永夜ヨルの視線の先で、


蛍雪の死体を前に、淀みなく、悲しみの色も無く、視線を上げる。


視線が交錯する、だから、告げる。



「いいえ。

 あなたは羽鳥ハトリ ジュンではない」



断定する。

それは死んだ男の名だ。




男の姿がブレる、次に立っていたのは女。

だが再び、夜は否定する、お前も違う。



女が消える、幼子が立っている。


違う。


幼子が消える、老人が立っている。


違う。



違う、違う、違う、違う、違う。

彼女が否定の言葉を重ねる度に、そいつの姿は軸を失って変容する。


何人の死者が否定され、何人の偽物が消えただろう。

幾度の断定がその姿をゆらめかせたろうか。




「黙れ!黙れ!黙れ!

 私は俺はアタシはぼくはきみはあああああああああああああ!」




出来損ないのパズルのように人影を構成する要素がぐちゃぐちゃに絡み合う。

うつろに響く声が叫ぶ。




彼女は知っている。


それは呪い祈りだ。


生きろ、死ぬな、生をまっとうせよ。

幸福を求めよ、幸福を得よ。


だがそれが叶わぬと知る者に、その言の葉がどれほど残酷な意味を持つか。



流転Flow”は万物を変質させる。

無作為に、混沌を生じせしめる。

だが既に変化の渦中にあるものには別の効果を引き起こす。


――単純な変化の加速。


男とも女ともすでに呼べないそれは脈打つようにブレて変化を繰り返す。


呆れ果てる。

言葉もない。

何人、どれだけ、呪いを押し付け続けて来たのか。


生きろと、生を望まぬそれに課された呪いを。

どれだけ連鎖させ続けて来たのか。


苦しみしかない生に、幸福を得られない人生に。

それでもなお継続という目的を与えられた異形。



それが、あれだ。



彼女は苦しんでいた。

苦しみ続けてそれでもなお生きる事を望まれて。


彼女が伴侶ガラテアに望み託したのはなんだったか。




いつしか、女が、女のように見える何かが立っていた。


女が、女のように見える誰かが、そいつが宣名する。




「——いいえ。

 

 



冷酷に残酷にただ、永夜アウロラは宣言する。



手術着に身を包み、身体のあちこちをどす黒く自らの血に染めたそいつを。

腐った己の臓腑の匂いを吐きながら、ぎらついた瞳で自分を見るそいつを。



否定する。



自律偶像にして礼賛者、その責を負わされたもの。

固有の名を持たず、主の名を継承し、その生き方と在り方と呪いを引き継いだもの。



その重さを、誰かに、その誰かがまた別の誰かに。

生きるという重責を押し付け続けて来た異形の存在を。


永夜アウロラは断罪する。



かかしスケアクロウとは皮肉が効き過ぎた通称だと思う。

入れ子人形マトリョーシカとはその本質を突き過ぎた通称だと思う。


それは人の形をした空洞だ。

自律偶像は礼賛者のために生きる。

だというのにその礼賛者が自らのすべてを自律偶像に明け渡すなどと。


そんなの、耐えられるわけがない。



哀切に満ちた声が夜を染める。

哀願にも似た怨嗟の声が響き渡る。



――ああ、なんで、こんな、わたし、生まれてなんてこなければよかった。




世界が歪んでいく、世界が塗り替えられていく。

自身を丸投げして他人に存在を明け渡す狂った権能ではない。



――翠児インファント



その発現を永夜アウロラは見た。



時計の針よ遡れ、覆水よ盆に返れ。

この苦痛いたみが我がはじまりに根差すなら、どうかこの命よはじまるな。

悲劇を否定せよ、幕を開けるな。



世界は狂っている。

世界が狂っているならば許されよ。

我が存在いのちを認めるなかれ。


人の形をした空洞が、虚空に開いた孔へと変容する。

内側へ、自ら形作った産道へと落ちていく。





わたしよ、どうか生まれませんように。










**************************************











いいえ、と。

幾度、この夜に重ねられたかわからない言葉を、彼女はまた紡ぐ。


種は既に撒かれている。

彼女の権能は既にそれの内側に根を伸ばしている。

故に。



「その最果て、その願い。

 成就を望む事、叶わぬと知れ。

 我が翠児、その産声を聞くがいい」




天の星は消え


地の華は散る


人の剣は錆びて砕け


獣の牙は死者を鞭打つ


芽吹く枝の杖を下ろせ


古き法がお前を縛る






不変なれstasis




暗闇が閉じる、暗闇が閉じる、暗闇が閉ざす。

果てぬ夜はなく、止まぬ雨はない。

されど我が名は永き夜なれば。


その歩み、いずこへともたどり着く事、能わず。




永夜アウロラがかざした五指を閉じる。


産道が閉じる、穴が塞がれ、空洞は閉ざされた。


閉塞するキューブが宙に光なく浮かび、そして落ちた。


正方形の六面を持つプラトンの立体。

正六面体、立方体、等長の辺に囲まれた四角いはこ


彼女以外、誰一人としていなくなった公園の地面の上に。

夜の色をしたその匣を、卯月夜アウロラはため息交じりに拾い上げた。





「……本当に嫌になる。

 最悪の仕事ですよこんなの。

 ——あなたも、わたしも、礼賛者しゅじんに恵まれていませんね」



握りしめた掌に収まるほどの匣を、そっと撫でて夜は嘲笑したわらう




さて、義父ちちの望みは果たされた。

どこまでが計算ずくで計画通りなのか。


現在いまを否定する異形の権能ちからはこの手に落ちた。

果たして彼はこの祈りねがいで何を為そうというのか。




「——まあ、ろくなことではないでしょうけれど。

 メルキオール、あなたの望みはなんなのですか」




愚問なり。


我が望みはただ一つ。


世界の終りが見てみたい。





「ああ、なるほど。

 それでリセットボタンが欲しかったんですか」




本当に、どこまでも趣味の悪い事だと、夜は溜息を吐いた。







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