汀 涙〔Ⅱ〕:Ctrl+Z


取り返しのつかない失敗の経験はある?


取り返しのつかない後悔の経験はある?


――彼女は、ある。





ミギワ ルイはゲームが好きだ。

最近流行りのスマートフォンのどこででも遊べるソーシャルゲームではない。


古い、アナログのコンピューターゲームが好きだ。


アナログRGBの、三色プラグで繋ぐ分厚いブラウン管モニター。

古臭い、色あせた安っぽいプラスティックのゲーム機。

わざわざ手に入れたのはただの趣味。


最初に出会ったのはたぶん祖父母の家だった。

あの父母と兄弟姉妹で満たされた、私的な空間のない実家ではなく。



カーテンを閉じて明りを落とした暗い室内で。

ヘッドフォンをかぶってチープなBGMに浸る。

ぽちぽちとボタンを押し、ぐるぐると十字キーを回す。


古臭いRPGが好きだ。

同じ場所をえんえんと回って銀色の逃げ足の速い怪物モンスターを倒す。


お金を貯めて装備を整え、経験値を稼いでレベルを上げる。


保存セーブが好きだ。

読込ロードが好きだ。

何度でも何度でも、やり直して失敗をなかった事にできるから。



雑に投げ出されたクッションの上で、文明の落とし児スマートフォン鳴き声を上げる呼び出し音を響かせる


舌打ちを一つ、片手でヘッドフォンを引きずり下ろして首にかけ、もう片手でクッションを引きずり寄せてスマートフォンを手に取った。



「……もしもし、うん、わかった。

 気をつけてね」



通話はそれだけで終わる、ヘッドフォンをかけ直し、コントローラーを手にして。

単純で単調で簡単な娯楽に戻る。



数分が経過して、再びスマートフォンが震える。

ため息をついてハッドフォンを引き下ろし、スマートフォンに出る。




「もしもし?

 ——殺して、今すぐに」



イラつきを隠そうともせずにそう吐き捨てて。


ルイはヘッドフォンを引きはがして壁に叩きつける。

コントローラーを投げ出し立ち上がる。



保存セーブが好きだ。

読込ロードが好きだ。

だから、やり直しの聞かないこの世界が嫌いだ。


――たった一つ、彼女のヨスガたる彼女が存在する点を除いては。




立ち上がり、部屋の明かりをつける。

手早くブラウスを羽織り靴下とスラックスを履いて上着を羽織る。

迅速に、だが手抜きをすることなく化粧を整えて。



部屋のドアを抜け、玄関に出る、パンプスを引っ掛けて外へ。



夜は明けようとしていた。

太陽が昇り一日が始まる。


最悪の日が。







**************************************





礼賛者ピグマリオンは、弱い。

自律偶像ガラテアに比べてはるかに。


だが。

十年を超えて契約主従アロイを維持した礼賛者は最早、常人の域にはない。



走る。

朝焼けに白む都市の物陰を。

人知を超えた速度で。



涙には4人の弟妹がいた。

赤貧で喘ぐ、酒浸りの父と、気の弱い母がいた。


過去形だ。

今はもういない。



暴力と血縁で結ばれた彼女の原風景。

その風景に未練はない、他ならぬ自身が打ち壊したその風景。



金が世界の全てだとは思わない。

けれど金が無ければ人はどこまでも落ちぶれる事を知っている。

いくらでも惨めになれる事を知っている。



だから彼女は望んだ。

見栄えは良かった、身体も平均より美しかったと思う。

若さが、時間限定とはいえど高価な商品である事を自覚していた。


金払いの良い男を捕まえた。

媚びる事もすり寄る事も苦痛ではなかった。

名門女子高に通わせて貰った事には感謝している。

それが例え男にとって、彼女の纏う銘柄ブランドを磨く雑味スパイスに過ぎぬとも。


学歴と背景を手にして成り上がろうとした自分の判断が間違っていたとは思わない。


ぎり、と歯噛みする。

なんで今こんなことを思い返しているのか。




ああ、そうだ。

彼女は失敗した、後悔した。

己を切り売りして汚れる事を厭わずに金を手に入れる事を躊躇しなかった。




自分が誰かを愛することなど夢にも思わなかったから。

自らの行いを恥じる事などないと思っていたから。



――遠い残景を幻視する。


耳に響く、こびり付いて消えない古いオトは。

もうとっくの昔に失われた過去おんがくでしかない。

それでも。



今更、また失う事など耐えられない。







**************************************





穂原映は走っていた、アンヘルに抱えられることは既にやめている。

追跡者の影は背後に見えず、足音が追いかけてくることもない。

だが、逃げ切れた気がしない。


彼の自律偶像アンヘルは弱い。

まだ契約から1年と経っていないのだからそれは仕方ない。


だが、目覚めたその権能オーソリティは彼の望む中で最上のもの。

真偽を看破し、相手の力量を正確に分析する。

敵の切り札を見透かし、その死角を突く。


地力で及ばない完全な格上には奇策が通じないという弱点はあるが。

それでもやりようは幾らでもある。

情報もまた1つの力、1つの暴力だ。


それが、まさか。



読心、記憶改竄。

知ったことを即座に知られて確実に、最優先で抹殺対象にされるなど。

まさか最高の権能が仇になるとは、思ってもいなかった。



どの程度、どの距離まで、心を読むというその権能は届くのか。

自分は、アンヘルは、どこまで読まれた?

何を知られて何を知られていないのか?

逃げ場は? 秘密は? 切り札は?


相手の権能が読心と看破した時点で、相談なく即座に逃げを打った奴隷アンヘルの判断は。

むしろ諸手を上げて賞賛できるもので、彼の自律偶像にはまるで落ち度がない。


一瞬で何もかも読まれ尽くしているのならとっくに逃げ場などない。

そうでないなら読まれる時間は短いに越したことが無く、逃げを打つのは最善手。


だが、だとしてどこまで逃げればいい。

どこへ逃げれば良いのか。


逃げる先から仕掛ける罠まで、全部手の内を見透かされているとしたら。

走り続ける、焦燥は消えない。


心の内を誰にも見せぬことを最上の生き方としていた男にとって。

それは名状しがたく耐えがたい恐怖でしかなかった。


交友関係、切り得る手札、新に用意し得る手札。

全部読みつくされているとしたら対抗手段はどこにある。




アキラさま――」


腕を引かれ、足を止める。

そこで初めて恐ろしく息切れしている自分に気づく。

気づいてしまえば認めざるを得ない、体力は限界に近い。

足はもう動かず、膝は震えて笑っていた。




「アンヘル」


「落ち着いてください、既に相手の射程圏内からは逃れている、はずです」


「……そうか、そうだな」


「体力を回復して、対策を考えましょう。

 十分に距離は稼いだはずです、落ち着いて」



深く、息を吸う。

冷静に、そう冷静にならなくてはならない。



「ああ……、そうだな」



焦燥は消えない、だが。

冷静さを失ってはならない。


逃げを打った瞬間に脳裏を過った逃走経路や隠れ家は使えない。

既に知られていると考えるべきだ。

頼るべき相手も、利用できる相手の名も忘れろ。


あの瞬間、相手の射程圏内で思い浮かべた手札はいずれも使えない。

今、ここで。

相手の権能が及ばない、そのはずの今、ここで思い描いて実行できる手札を。



目を閉じる、冷静に考えろ。

あの瞬間、思い浮かびもしなかった相手を選べ、思いつきもしなかった逃げ道を。


例えば、そう。

斡旋屋ミディエイター〟の間にある情報網ネットワークを通じてやつの能力を開示する。

手にした情報を漏洩させてしまえば自分が狙われる優先度は下がる、か――?


それはできない。

それは同時にアンヘルの権能を知らしめる事に他ならない。


今、すべての契約主従は殺し合いに突入している。

理由はわからないが、そうなっているのは確かだ。


穂原映が、彼とアンヘルの契約主従があの黒獣に追われていたのは偶然ではない。

柴崎が間宮を襲うという情報を彼らは手に入れていた。


あの夜襲も、間宮の能力の一端も実際に目にしている。

そして、




『つまり、

 よりよきものが、よりよきものであることを確かめるために。

 テストを行おうってワケだね』




あの時耳にした間宮の言葉が蘇る。

渥美との一時共闘とはわけが違う。

あの時すら情報の開示をすべきだったかわからない。

だが生存のためには必要な一手だったはずだ。


だとしてもこれ以上アンヘルの、自分たちの手札を開示するわけにはいかない。


誰かと手を組むにしても相手を選ぶ必要がある。



八木ヤギ 恭介キョウスケ

理由はわからないが、渋沢功と接触し〝斡旋屋ミディエイター〟の情報網ネットワークから排除されているあの男なら。


――共闘の目がある、か?


あるいは件の渋沢功の方か。


果てハイエンド〟に目をつけられているらしいのは間違いない。

接触は危険リスクを伴う。

半日前の映なら考えもしなかった選択肢だが。


だからこそ読心でこの手札は読み切られてはいないはず。


死の遊戯デスゲームは始まっている、この先一手のミスが生死を分けるだろう。



「——八木だ。あいつに連絡を取る」


「はい、映さま」







**************************************





ぱん、と乾いた音がした。


自律偶像アムネジアに合流したルイが最初にしたことは。

不甲斐ない彼女アムの頬を平手打ちすることだった。



「申し訳ありません、失策でした」


情報網ネットワークの遮断は」


「既に。

 いずれにせよ彼が自らの手札を明かしてまで情報を流布するとは思えません。

 あれは小心者です」



淡々と告げるアムを見る礼賛者ルイの瞳には鋭さだけがある。


彼女の権能と薬物を併用して一尺八寸カマツカ 三智子ミチコの記憶を弄り、影武者にした事に後悔は無く、その判断が間違っていたとも思わない。


例えそこに、その陰に。

ピグマリオンの個人的な執着が横たわっていたとしても。


自律偶像ガラテアである彼女に否は無い。

礼賛者ピグマリオンの望むことが自律偶像の望むことなのだから。



穂原映の交友関係、資産、動かし得る手札の全てはもうこちらで抑えた。

逃げ場はない、逃げられるはずもない。


猟犬アムネジアは恐れない。

主人ルイの望みをかなえるために、全ては彼女のために。







**************************************





暗闇の中。

一筋の光すらない暗闇の中。


真っ白い長衣に身を包んだ人影が立っている。

袖も裾も長く、手足の先すら見えはしない。


一切、肌は露出せず、頭部すら白い頭巾で覆われて。

顔も垂れ下がった白布で覆われて人かすらも定かではない。


ただ四肢らしきものがあり、立っているだけで。

その人影が果たして人かは判然としない。


人影は3つ、三角形を描くように向き合った三者。

声を発したのは誰か、どれだったのか。



「——収穫祭は開始された」



契約主従アロイの総数は2,972へ減少」



「計画に支障はない、誤差は2%以下に留まっている」



囁くような声が交わされる。

男か、女か、若者か老人かもわからない。

誰が、何人が喋っているかもわからない。



「渋沢功への例外対応は破棄します。

 いいですね、メルキオール」



「構わない。

 静観するのもこの辺りで止めにしよう」



「間宮銀二とポラリスの〝翠児インファント

 ——〝ordeal〟はどうですか、バルタザール」



「予定通り、順調に淘汰を加速している」



「結構」



「全ては君の計画通りだ、キャスパー」



「無論、失敗は許されないのだから」



「だが、急ぎ過ぎではないだろうか。

 やっとの思いで8,000まで増やした契約主従アロイだ。

 性急に淘汰する必要はあったろうか」



「約束の刻限は迫っている。

 第一の獣の現出まで残り34,910,352,000秒を切った。

 猶予はない」



「まだ千年を残すというのに?」



「10世紀ではまるで。

 たとえ20世紀でも足りない。

 今のままでは人はあの怪物に勝てはしない。

 それはあなたにもわかっているはず、メルキオール」



「然り。

 万象万物を喰らう末世の獣。

 あれは人世を終わらし得るもの」



「だが勝ち得ぬのならそれも定め。

 人の世の終りを回避しようなどとは傲慢ではないか?」



「否。

 否、否、否、断じて否である。

 我らは最も古き同胞、人の世の果てを見定めるもの。

 未だ人は極点に至ってはいない、その兆しすらない」



「我ら三愚賢、その総意と英知を持ってオワリに抗うと定めたはず」



「然り。

 敗北は許されず。

 失敗は許されず。

 血の河、屍の山を築こうとも我らは人の世を継続する」



「——果てを。我らその総意と英知を持って」



「果てを見るその時までこの歩みを止める事は叶わず」



「だが1つ、提案がある」



「提案?」



「〝極狼ポラリス

 〝忘河アムネジア

 計画の中核を成すこの2者が撃ち破られたなら。

 その契約主従アロイに敬意を払うべきだとは思わないか」



「あり得ぬ」



「……彼らは現在における極点。

 汝の従える〝永夜アウロラ〟を含め。

 最も黄金に近しい位階に至りし合金アロイである。

 例えいかに淘汰が進もうと、彼らは未だ途上。

 1人どころか2人、我らの子等が撃ち破られるなど」



「あり得ぬ」



「然り。

 なればこそ。

 不可能を可能にする者が現れたなら。

 今少し猶予を与えてみるのも良いのでは?」



「……あり得ぬ。

 メルキオール、汝の提案は破綻している」



「……あり得ぬ。

 メルキオール、汝の提案は矛盾している」



「然り、まさに然り。

 なればこその提案である。

 万が一、億が一。

 不可能を可能にする者が現れたならば。

 今ひと時の猶予を与えたい」



「……良いだろう。

 三愚賢が一人、バルタザールの名において。

 汝の提案に同意する」



「あり得ぬ、が、同じく。

 三愚賢が一人、キャスパーの名において。

 汝の提案に同意する」



「三愚賢が一人、メルキオールの名において。

 汝らの同意に感謝する」




闇のなか。

3つの人影が音もなく消える。




**************************************



監視カメラの死角を潜り抜け、それでも穂原映とアンヘルは辿り着く。


正確な住居を知っているわけではない。

だがある程度は八木の活動圏を絞り込んであった。


元々接点の多い、自分たちの始まりに関わる相手だ。

誓句オースを知られているのも今となっては失点。


警戒するに越したことはないと探りをいれておいたのが役に立っている。


「この辺りですね」


「……後は、電話をかけてみるか」


『それはお勧めしませんね』


「——映さま」


唐突に差し込まれた声はどこから響いているのかわからない。


アンヘルが警戒も露に映の傍に寄りそう。


相手を視認できねば発動できないのがアンヘルの権能の欠点だ。



「誰だ」


『私はあなた方の敵ではありませんよ』


「それを信じろと?」


『敵対する気なら当に仕掛けています。

 とりあえず提案があります』


「……言ってみろ」



穂原映は言葉で、態度で、相手を分析する。

アンヘルの権能に頼り切る必要もつもりもない。

相手の感情を読むのは、そもそも彼の技能でもある。


――直感が囁いている、信じられはしないが聞く価値はある。



『この遊戯ゲームを破綻させる方法を知っています。

 あなた方の味方になり得る契約主従アロイにも心当たりがあります。

 八木は、——今の八木恭介は危険だと思いますよ』



「それで? 代償は、そちらの要求はなんだ」



『ありません。

 利害が一致しているので助言するのですよ。

 私たちの望みはあなた方と同じ、この遊戯ゲームの破綻ですから』



「何者だ?」



『〝永夜アウロラ

 とりあえずそう呼ばれるものだとだけ』



「……どうしろと?」



『あなた方と共闘できるであろう契約主従を紹介します。

 話はそれから』



数秒の間をおいて、穂原映は嘆息する。



「最初にすべきことはなんだ、言ってみろ」



『その返答、同意と受け取ります。

 まずは向かってください、〝負け犬のねぐら ルーザーズ・ルースト 〟へ』



















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