渋沢 功〔Ⅳ〕:I don't love you.


「良くない……?」




モルヒが首を傾げ、ツァンは頷く。




「うん、その質問はダメだね」


「ダメって」




不服そうなモルヒ。

渋沢 功は概ね蒼が言うダメな理由に思い至っていた。

視線を横に流すとイリスも腕を組んで呆れたような顔をしていた。


たぶん彼女イリスも気づいている。



「質問は1つ、そういうルールだからね。

 今一番君に相応しい問い、をここで教えたとしよう」


「はい」


「それできみは質問の権利を使い切るわけだよ。

 そうするとその『相応しい問い』についてはもう聞けない」


「あ」


「その時点で『相応しい問い』の価値が失われてしまう。

 するとそれはもう『相応しい問い』としての回答に相応しくなくなる。

 となると私は『相応しい問い』を正しく教えなかったことになる」


「ああー……」


「その様子だとそこまで考えて意地悪な質問をしたってわけでもないのかな?」



蒼は楽し気に肩を揺らす。


「なかなか面白い問いではあるけどね。

 ……まあ君のその天然っぷりに敬意を表して質問は保留としておこうか。

 また思いついた時に尋ねなさい」


「はあ」



蒼にしては優しい対応だと功は思う。

どこにでも居そうな外見に反して、この男の内面は混沌としている。

こちらの都合など知った事ではないとばかりに身勝手なルールを押し付けて来る。




「——さて、待たせたね。

 渋沢功、深見沢イリス。

 きみたちの要件を聞こうか?」



コンテナの上で足を揺らし、組んだ足の上で手を組んで。

蒼が笑う、底意地の悪い笑み。




「質問が2つある」



周囲を警戒するような素振りを続けるイリスに口を開く様子は無く。

仕方なく功はそう要件を告げた。



「聞こう」


「1つは、自律偶像ガラテア自律偶像ガラテア礼賛者ピグマリオンになる事について。

 何か問題があるのか調べて欲しい」


「ふむ。なかなか面白い事をやってるようだね?

 ……もう1つは?」


目を細め、どこにでも居そうな男が先を促す。



「イリスが、〝声〟がすると言っている。

 それについて知っていることを教えてくれ」



功が言い、蒼は視線をイリスに転じる。

まだ周囲を窺っていたイリスに蒼がくく、と笑いながら告げた。



「そんなに警戒しなくても、あの子は用事で出かけているよ。

 その〝声〟について、もうちょっと具体的に聞かせてくれないかな?」


「あの子?」



モルヒが素直に疑問を口に出す。

蒼はあらゆる行為に代償を求める。

ある意味で公平な男だが、それだけに迂闊な要求はできない。

問いかけ1つについてすらそうだ。

だがモルヒはまだその事を理解していない。


最も、蒼もまたモルヒのその素直さを好意的にとらえているらしかった。

男にしては気安い調子でその問いに答える。



「私の娘さ。

 イリスちゃんはどうもうちの娘が嫌いらしくてねぇ」


「別に。

 嫌ってるわけじゃない、噛みついて来るのはあっちだろ」


「まあそれも事実だね。

 それで? 〝声〟とは?」


蒼に促され、憮然とした顔で、それでも素直にイリスが口を開く。



「——自律偶像を殺せ、そういう声がするんだよ。

 ずっと耳の後ろで囁かれてる感じがする。

 何かに意識を向けてるときは良いんだけど、寝る時とか。

 ぼーっとしてるときとかウザいくらい」





「ははあ、なるほど。

 ……そうだな、では780mlミリリットル


イリスの言葉に、一拍おいてツァンは平然とそう言った。



「7:3だ。

 俺が7、550ml払う」


イリスが何か言う前に、功はそう宣言する。

わかってはいたがすぐにイリスが口を挟んできた。



「待て功、5:5だろ」


「7:3だ。

 体重が違い過ぎる」


「功、おまえな」


「最低でも6:4、俺が470、お前が310だ。

 お前に400ml近くも払わせるわけにはいかない」




「——あの、何の話です?」


また素直にモルヒが問いかけを発する。

物怖じを知らないのは礼賛者イリスの影響だろうか。



 私との取引に彼らは〝血を払う〟、そういう契約なのさ。

 まあ功くんが言うように5:5だとイリスちゃんの負担が大きい。

 いくら自律偶像が丈夫でもお勧めはしないよ」



蒼は面白がるように説明した。

そしてその説明が終わると同時、モルヒはほとんど躊躇せずに、


「なんで血を? あ、これも支払いが必要ならぼくが払います」


と問うた。

蒼は楽しげに笑う。


「では200ほど貰おうかな」


「蒼、」


思わず功はらしくなく声を荒げていた。

功とイリスには事情が分かっている。

それを改めて説明して200は暴利に過ぎる。



「さすがにその質問だけで200払えとまでは言わないよ。

 モルヒくんが200、イリスちゃんが180、功くんが400、それでどうかな?」


「……良いだろう」


イリスは何か言いたげだったが先手を打って功はそう承諾した。


うん、と蒼は頷き、


「ではモルヒくん、そこのコンテナから鞄をとってくれないかな。

 22342のコンテナ、暗証番号は8788323だよ」


「このコンテナの中身と番号と暗証番号全部覚えてるんですか?

 ところでこの作業の分って代金から引いてくれます?」


「ははは。

 しっかりしてるなあ。

 いいよ、イリスちゃんのは150にしておこう」


「どうも」



モルヒが8桁の回転式数字ダイアル錠を回してコンテナを開ける。

雑多な荷物の数々が詰まっている、何のコンテナなのか、中身に一貫性はない。



「それ、その一番上の灰色の鞄」


「はいはい、これですね」


「消毒液と脱脂綿が入ってるから。

 それで消毒してから刺すと良い。

 そう、そのガラス管のついた採血装置だ」


モルヒが鞄を開ける。

歩み寄ったイリスは手慣れた動作で消毒を済ませて採血管を腕の血管に刺す。


管を刺したのと逆の側、右手で手招きするイリスに功は嘆息する。

歩み寄るとイリスは無言で功の腕を消毒して同じように採血管を刺した。


この〝支払い〟は初めてではないが、随分と久し振りだ。

イリスの所作には躊躇も遅延もなかった。

知らないところで医療系の仕事でもしていたのだろうか?


功が視線を上げると、蒼はどこからともなく取り出した端末タブレットを操作していた。

低い作動音を立てて採血装置が功とイリスから血を抜いていく。


その間にイリスは、モルヒの襟首をつかんで引き寄せ同じように管を刺していた。



「で、まずはモルヒくんの質問に答えようか。

 自律偶像や礼賛者の血は常人のそれとちょっと違う。

 ある程度の量があれば色々と調べられるんだよ。

 だから私にとっては金銭よりはるかに価値がある」


自律偶像ガラテアの、ぼくやイリスさまの血はわかりますけど。

 功の血なんか採って何がわかるんです?」



モルヒの問いは別に功を馬鹿にしているわけでもないのだろうが。

人間の血なんて改めて調べても意味なんてあるのか?と言わんばかり。



「契約主従は体液を交換するだろう?

 自律偶像は礼賛者の体液を取り込む事で自らを最適化する。

 これは逆もそうなんだよ。

 礼賛者もまた自律偶像の体液に影響されて最適化される。

 まあ、影響も変化も自律偶像のそれよりはるかに軽微だけどね。

 とはいえ契約が長期化すればその変化は軽視できない」


「なるほど……?

 というか、血を調べて自律偶像の事がわかるって、それ。

 もしかしなくても蒼さんは、〝調律師ドゥターメイカー〟なんですか?

 自律偶像を作ってる側の人間?」



モルヒの重ねての問いに功は体を硬くする。

視界の隅でイリスも同じように緊張の気配を見せていた。


その問いは踏み込み過ぎている。

蒼がどんな代償を要求して来るか――、



「ああ、それは誤解だね。

調律師ドゥターメイカー〟にそんな能力はないよ。

 自律偶像の調整チューニング修理メンテナンスはできるけれど。

 製造に関しては専用の製造ラインがある。

 その辺はもっとの管轄だね」



拍子抜けするほどあっさりと蒼はそう告げ、認めた。

隠すほどの事でもないと言わんばかりの態度。


無論、功もイリスも蒼がそちら側の人間だという想像はしていたが。




「一応断っておくけど、ぼったくったつもりはないよ。

 自律偶像が自律偶像を持つ事の影響を計れって言われたからね。

 調査用の採血も兼ねている。


 それで悪影響ねぇ、特にないんじゃないかな。

 今後の事までは責任を持てないけど、今のところは問題ないと思うよ」



端末を指先で弾き、あっさりと蒼はそう回答する。




「で、もう1つの問いの方。

 製造ラインだのなんだのと、私が踏み込んだことを教えたのには理由がある。

 ――現存する自律偶像は約6,000、少し前には8,000ほどいた」


?」


イリスが鋭い目つきで繰り返す。

過去形、つまりそれは。



「結社の、ああ、〝最も古き結社〟なんて大仰な呼び名があるんだけど。

 まあ誰も使わないし、ただ結社でいいと思うんだけどさ。

 そもそももっとも古き、なんて枕がリップサービスに過ぎるし。

 古さだけで言うなら〝白杭ホワイトスティクス〟の方が歴史ありそうだし、」


「話が逸れてません?」



モルヒが突っ込むと、蒼はまたわざとらしく肩をすくめた。



「ああ、うん。

 まあようは契約主従を増やしてた黒幕連中さ。

 彼らの計画が次のフェーズに入ったって話」



ただの世間話だとでもいうような軽薄な口調であっさりと。

蒼はそう告げた。



「それは、」


契約主従アロイは人類を次の段階ステージに進める手段。

 十分なかずが揃ったら次は殺し合いさせて純度を上げようって事らしいね。

 イリスちゃんが聞いてる〝声〟は自律偶像同士を殺し合わせる上位コマンドかな。

 その辺、私の管轄じゃないから詳しくは知らないけど」



場に沈黙が満ちる。

功も、イリスも。

何を言葉にするべきか結論できずにいた。



「〝白杭ホワイトスティクス〟って?」


「あ、そっち聞くんだ?

 まあいわゆる吸血鬼を狩ってた連中。

 ほとんど狩り尽くしたせいで存在意義を失って瓦解寸前だけどね」


「吸血鬼ってそんな、漫画か映画じゃあるまいし……」


「ははは、モルヒくんそれ自律偶像のきみが言っちゃう?」



モルヒは気安い調子で蒼と会話を続けている。


功とイリスは無言。

事はもう黙って静観できる段階にはない、そう思える。



「あ、そうだ蒼さん、これ調整とかできます?

 イリスさまに貰ったんですけど使い方間違ってるのか使えなくって」


「おや、血装具ブラッドボーン

 どこで手に入れたのかな?

 それ本来の持ち主にしか使えないんだよね。

 君向けに再調整はしてあげられるけど。

 手数料として50ほど貰おうかな」


「お願いします」


「これ、持ち主の血を吸って武器を形成する道具だから。

 調整終わっても暫くは使わないように。

 さすがに負担が大きいと思うから」





**************************************





きみたちとの取引はこれで最後だ。

事がここまで進んだ以上、対等な取引とは言え肩入れしてると怒られるから。


取り引きを終えた3人に、蒼は気安い調子でそう告げて。



功、イリス、モルヒは各々の思惑を胸に倉庫を後にした。





**************************************




2日が過ぎた。


彼らが特に何か行動を起こす事はなかった。


起こす事が出来なかった、と言っても良い。

状況が変わりつつあることはわかっていた。

だがどうすればいいのか、その指針は何1つとしてない。


だから何も変わりはしなかった。


仕事に出るイリスを見送り、モルヒはふぅ、と息を吐く。


イリスと功はここ数日、あの倉庫から戻って以来緊張した空気を放っている。

まあそれも仕方ないのかもしれないが。


だが逆にモルヒにしてみればらしくないように思えていた。

いつもマイペースで、世界の時流など知った事はない、そんな態度が。

あの2人にはふさわしいように思えて。




「功、いる?」


「え?」


家に戻ろうとしていたモルヒにそう背後からかかる声。

知らない声、そもそも彼らの自宅に来客などあった試しは無かった。


振り返り、まず相手の瞳に視線を合わせる。


紫の光を帯びてはいない、常人の瞳。

だが、その色にどこかで見たような既視感を覚える。



「……ええっと、どなたさまでしょう?」


「ああ、俺はゴウ、強いって一文字でゴウってんだ。

 功、いるんだろ? いない?」



男は軽薄に笑ってそう名乗る。


身長はそれなり、恰幅がいいと言えば聞こえは良いが贅肉がつき過ぎている。

年齢は30を過ぎたあたりか、正確にはわからない。


顔立ちは整っている部類だろうが、不健康そうなだらしない肉付きと、お世辞にも清潔感を感じさせるとは言えない薄汚れた服装が男の印象を台無しにしていた。


警戒心が湧きおこる。

名乗りはしたが何も名乗っていないのと大差はない。

何者なのか、情報がない。


男はなれなれしくモルヒに近寄ってあまつさえ肩を組んできた。

身長差があるせいで不自然な恰好になるが、気にした風でもない。


振り払おうとしたモルヒの動作は、男の台詞で中断される。



「いるんだろ、兄貴さ」


「は? 兄、」



驚きと、好奇心、推測はできるがその結果を理解できない情報に硬直する。


兄? 今こいつは兄と言ったのか?


誰が?



「おう、 、聞いてない?

 というか坊や誰? あのお嬢ちゃんと兄貴の子にしちゃデカ、」



あのお嬢ちゃん、がイリスだと気づいた瞬間に男の腕を振り払っていた。

誰であれ彼の主人イリスを軽視する下卑た口調が許容しがたかった。

状況を理解できない混乱よりもその不快さが先に立つ。



「功に、何の用ですか」



声は自覚できるほど明確に堅さを増していた。

この男が何者で、どういう背景を持っていようと、モルヒはこいつが嫌いだった。

ものの数秒でそういう結論に達していた。



「いやあ、まあちょっとな。

 子供に聞かせるような要件でも、」



子供扱いに怒りを覚えなかったと言えば嘘になるだろう。

だがそれが全てでもなかった。


男の口調に滲むその気配は、渋沢 功が一瞬すら纏ったことのない気配。

ドブの汚泥のような真っ黒い、低俗な人間の気配だった。



「——、」


モルヒがその時何を口走ろうとしたのか、永遠にわかることはなかった。

当の本人のモルヒにすらわからないまま、事態は進む。



男の顔面に茶色い、分厚い封筒が投げつけられる。

男は慌てた仕草でそれを受け止め、薄汚い笑みを浮かべる。


モルヒは振り返る、そこに立っていたのは功。

モルヒが見たことのないような、常と同じ、だが硬さを帯びた無表情。



「もう来るなと言った」


「へへ、そういうなよ兄貴。

 随分人間らしくなってまあ、俺は安心してるんだぜ。

 人形みたいだったあの頃よりずっと、」


「行け」



有無を言わさぬ硬い言葉。

世界との間に距離を置いて立つような。

あらゆる事象を柳と受け流す常日頃の渋沢 功からは想像もつかない態度。


それは明確な、モルヒの初めて目にする拒絶の表明。



男の返事を待たず功は踵を返し、自宅へと戻っていく。

それ以上その男と話す事をしたくないと感じたモルヒもまたその後に続く。


背後から男が怒鳴るのが聞こえる。



「また来るぜ兄貴!

 頼らせてくれよ!

 たった2人の家族だもんな!!」




その言葉に、モルヒは振り返り叫ぶことを全力で自重せねばならなかった。

あんな男が功の家族であるものか。

家族と呼べるのは、イリスと自分だと。





**************************************





定位置である安楽椅子に身体を埋めて、渋沢 功は目を閉じた。


何か問いた気に暫く、モルヒがすぐ傍に立っていた事はもちろん気付いている。

だが功は瞳を閉じ、対話を拒んでいた。




――渋沢 功は、己が異常者である自覚を持っている。



幼少から両親の期待と希望に応えて粛々と生きていた。

そこに自我と呼べるものがあったのか、自信はまるでない。


強が言うように、彼はきっと人形だったのだろう。

いや、今もそうでないと断言できるだけの確信はない。



中学を、高校を卒業し、大学に入った。

そんな彼にも恋人ができた、それが普通だと学んでいたから。


恋人は1つ年上の先輩だった。

どんな人間で、どんな顔で、どんな性格だったのか。


もう、今の功には思い出せない。


思い出せるのは、罪と傷の記憶。


愛する相手に、恋する相手の為に。

人は己にできる事をすべて捧げるのだと知っていた。


正しく、それを理解していたとは言い難いように思う。


そういうものだ、そうするべきだと思っていたし、だから実行した。

その結果どうなるか、想像できないほどに知性が欠落していたはずもないのに。



自営業を営んでいた父の元から少なくない額を持ち出した。

それが彼女に必要だったから、彼女が助けを求めていたから。


結果は、功が想像できる範囲のそのままで、それ以上でも以下でもなかった。


父は命をもってその損失を補った。

それが正しい事なのか、それとも間違った選択だったのか功にはわからない。


母は彼を口汚く罵倒した、それは正しい行動だったように思う。

確かに自分の行いは間違っていた。




だが、愛とはそれでもなおそうすべき理由だった、そのはずだった。


女は、彼女は功の元を去った。

大金に手をつけずただ言葉もなく去った彼女はきっと誠実だったのだろう。



渋沢 功にはわからない。

愛とか、恋とか、言葉の上ではむろん知っていた。

知識はあった、それが世界においてどのように語られていたかも。


だが、きっと。


何もわかっていなかったのだろう。

わかっていなかったのだ。

わからないのだ。



今も、愛とは、恋とはなんなのか。

言葉の上では知っている、知識の上でも知っている。


だが、その矛盾を、美しく語られるそれとその結果のどちらが間違っていたのか。


わからないのだ。



後付けの価値も、世界の構造に対する理解も。


彼の、彼は。

どこかで歯車がずれていた。


自分が果たしてどうすべきだったのか、功にはわからない。


誰かを裏切らねばならなかった。

少なくともそう知って、学んでいた。


世界は複雑怪奇で、彼の理解の範疇には無かった。

どれほど思考を重ねても、正しい選択はわからない。


だから、後悔と罪があり、それ以外の何もないのだ。


功は世界から距離を置いた。

自分の歪みを自覚している、自分の過ちを理解している。


正解を知らない、正解は何だったのかわからない。


渋沢 功は、だから。

世界と交わらない、そういう道を選んだ。






**************************************





唇が熱を帯びる、眠りから遠ざかる。

自分にのしかかる彼女の気配を感じる。


瞼を開く、唇を奪う己の自律偶像ガラテアの姿を視界に捉えて。


渋沢 功は再び瞳を閉じ、身を任せる。



唇を割り割いて、肉の薄い舌が差し込まれる。

唾液を流し込まれ、顎を掴まれて乱暴に上向かされる。


嚥下する、受け入れる。

拒絶する事はない、たった1つ、信じられる誓いコトバがあるから。





――俺はおまえを愛さない、おまえも俺を愛さないでくれ。





遠く、彼女と交わした誓句オースが彼を、崩れ落ちそうな歪な魂を。

強く脆く、繋ぎとめているから。


肉の交わりはない、唇を深く重ねて、唾液すら飲み干しながらなお。


愛してはいない、愛されていない。

愛する事はない、愛される事もない。


そんな空虚な幻想うつくしいまぼろしは、理解しがたい感情はそこにない。



それでもなお信じられる、その誓いこそがたった1つ。


彼と彼女をつなぎとめる歪な歯車で、純粋な、たった1つの約束。





「——イリス」


「なんだよ、惚れたか?」


「馬鹿を言うな」


「だよな」



彼女の腰に手を回す、抱き寄せる、折れよとばかりに。

唇を奪う、お返しとばかりに舌を差し入れ、唾液を流し込む。



彼女もまた拒まない、拒むはずがない。


壊れそうな関係を、維持するために必要な、ただの体液の交換。


それだけの、行為。




これは愛ではない、そんな奇麗なものではない。


そんな信じがたい、理解できないものではない。



これは契約。



主人と、奴隷。

歪で、空虚で、純粋な。




どちらが主人で、どちらが奴隷か。


渋沢功にはわからない、深見沢イリスにもわからない。


わかる必要はないし、わかろうとも思わない。




遠く、価値がない、ただたまたま袖がすり合っただけの他人。



互いに何かが必要だった。


互いに誰かが必要だった。


ただ、それだけ。

わかちがたく、すてがたい。

それでもなお、別に彼/彼女でなくてもよかった。

そんな、




――何物にも代えがたい、別の誰かでも別によかった誰か。


そういう、他人。








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