卯月 夜〔Ⅰ〕:夜の冒険



ヨルのパパってイケメン?」


「は?」



級友クラスメートが不意に発した問いに、卯月キサラギ ヨルは。

晴心女学院セイジョの生徒としてあり得べからざる声を発した。


その事に自ら気づいて咳ばらいを一つ。

誤魔化しきれるものではないが、その場にいた級友は全員がセイジョ生である。


その意を汲んで全員が素知らぬ顔で聞き流し逃しましたという表情を浮かべてくれた。



「えっと、父の、容姿ですか?

 また突然何を、まあ……、普通ではないでしょうか」


少し思い悩んだ後に、卯月 夜は、とりあえず素直なところを口にする。


多少は平均値より上かも知れないが、褒めるに値する程ではない、はずだ。



「えー、嘘だぁ。

 夜っちこんなにかわいいのに」


「どうも。

 というか前にも言った気がしますが、養父ですので。

 血縁はありませんよ?」


言いながら手にしたソフトクリームをひとなめ。

買い食いも食べ歩きも晴心女学院の生徒としては望ましくない行為ではあるが。


この場にいる全員がやっている事だし、赤信号みんなで渡ればなんとやらの慣用句ではないがうるさく言う人間はこの場にはいない。




「う~ん。そっかぁ。

 夜っちファザコンだからイケメンかなって思」


「は?

 いや待ってください誰がファーザーコンプレックスだと」



あり得ない、という感想を言外に込めて発したその言葉は。

だがその場にいた全員にまたまた、というぬるい表情で聞き流される。


――はなはだ遺憾な反応であった。



更なる反論の言葉を重ねようと口を開きかけ、やめる。


今ここで何を反論しようと、むきになって反論した時点で認めているようなものだ。

絶対にまともに取り合っては貰えないだろうし、状況は確実に悪化する。


だから夜は、はぁとわざとらしくため息をつく。



「——まあ、色々問題はある人ですが養父ちちとしてはいい人ですよ。

 嫌いではない、というかまあ好きか嫌いかで言うなら当然好きです。

 家族として普通に。……そんなものでは?」



その反応に肩透かしを食らったのかどうか。

彼女ヨルの級友たちはそれ以上は何も言ってはこなかった。



やれやれ、と内心でひとりごちながら。

駅前で買ったソフトクリームを舐めて一同を見渡す。


卯月 夜が晴心女学院の生徒になって約4カ月が経った。

つまり彼女たちとの関係もまだ、たった4ヶ月ほどでしかない。



水色と白の主色に、橙のアクセントで構成された女学院の制服セーラーは可愛らしい。

皆それぞれに似合っている。


格子模様チェックのスカートをふわりと翻しながら笑うヒイラギ 真夏マナツ

夜を含めて4人で構成された集団グループまとめ役リーダー格

何一つ突出している点があるわけではない、普通の少女。

だが、彼女の笑顔には人を惹きつける華がある。


頭一つ背の高い、バレーボール部に所属する三町ミマチ 小雪コユキ

口数は少ないがここぞという時に口を開いて場を引き締めるサブリーダー。


そして逆に頭半分ほど真夏や夜より小柄な大貫オオヌキ 千歳チトセ

負けず嫌いで、良く喋るが気が小さく、怖がりで、よく食べ、良く動く。

小動物マスコット的なかわいらしさがあり、一同全員にかわいがられる妹分。


最後に自分、卯月 夜。

校則に従い、横は耳にかからぬように、後は首にかからぬように、前髪は眉にかからぬように真っすぐ切り揃えていたのは入学式の当日までで。


初対面で開口一番、彼女を見た千歳ちーに「こけしみたい」と言われて。

その場でハサミを取り出し刻みシャギーを自ら入れた。


どうにも小馬鹿にされたようで気に食わなかっただけなのだが。

そのせいでどうにも妙な誤解を受けているように思う。

まあ四角四面に校則に従っていたのが自分だけだと気づいた時点で。

いずれ手を入れる気ではいたので、遅かれ早かれの事ではあったのだが。


その場で、自分で、即座に、というのはどうにも衝撃的だったようだ。

以来、彼女は4人組のなかで、他の3人に一目置かれているような気がしている。


曰く、行動力があり過ぎる、とは小雪ユキの言。


明らかにドン引きしていた千歳とは対照的に、やたらとウケて気に入ったとばかりに絡んできたのが真夏だった。


以来、なんとなく4人で行動する事が常で。

小雪は元々真夏と同じ小学校の出身で、いわゆる幼馴染らしい。



各々、ソフトクリームを手に益体もない雑談をしながら歩道を歩く。


道脇に止まった軽自動車トラックの荷台から、荷物コンテナを抱えて作業ツナギの人影が歩き出る。

くるくると落ち着きなく動き回る千歳が意図せず進路を阻み、小柄な人影が小さく舌打ちをしたのが聞こえた。


”酒のましば"のロゴの入ったキャップの影から鋭い視線が走る、そこに見知った顔を見つけて夜は軽く会釈した。

片手を伸ばして千歳を引き進路を開く、人影は軽く視線を下げて会釈を返してきた。


そのまま、何事もなく。

道沿いの店舗にコンテナを抱えて人影が消えていくのを見守る。



「なにいまのー、感じ悪い」


ぐるん、と足を踏み出して千歳がぼやく。



「……いや今のは千歳ちーが悪い」


「えぇ、小雪こゆあんなのの肩を持つんだー」


ぼそりと釘を刺した小雪に千歳が不満の声をあげる。



「いやいや今のは千歳ちーが悪いでしょ、小雪ユキが正しい」


「ええー。そりゃ真夏なっつ小雪こゆの味方だろうけどさあ」


真夏と、


「そういうんじゃなくて、普通に今のは千歳が悪いと思う」


そして夜にまで非を咎められて千歳がわかりやすく不満を顔に出した。



「なによもー。

 だいたいこんなとこで肉体労働してる人なんて人生の落伍者で、痛っ!」


あっけらかんと酷い毒を吐く千歳に真夏が手を伸ばしてでこぴんを喰らわせた。



千歳ちーはそういうの、直しな。

 だいたい私らが居なかったら絶対そんな強気なこと言えないくせに」


「そうだな」


「だって、」


「というか今の人、晴心女学院セイジョの卒業生だよ」


「えっ」


「えっ」


夜が半ば無意識に言った言葉に、全員が驚いたように振り返る。




「え、そうなの? 知ってる人?」


3人を代表して真夏がそう尋ねて来る、余計な事を言ったかも。

まあいいか、と夜は肩を揺らした。




「あ、うん。

 詳しく知ってるわけじゃないけど、一応?

 割と有名な人だったって話だよ」


「頭悪くて?」


千歳がまた息をするように毒を吐く。

短い付き合いだが、これでいてまるで悪意・悪気はないらしいのがタチが悪い。



「逆。

 入学時も卒業時も主席だったって聞いてる。

 まあ、有名な理由はそれじゃないけど……」


「なんでそんな人が肉体労働なんかしてるの?」


「なんか、って。

 単に体動かすのが好きだからって聞いたけど」


どうにも千歳は、というか。

晴心女学院に通うお嬢様たちにはその傾向が多分にあるように思えるけれど。

彼女らは肉体労働者を無意識に下に見ているように夜には思える。

自分で働いたり金に困った事のないような育ちの子ばかりのせいだろうか。




「ふぅん、変なの」


「で? なんで有名なの」


「え、うん。深見沢先輩は、」


「深見沢?

 深見沢ってあの深見沢?」


説明しようとした夜を遮って驚いたように小雪が口を挟む。




「何、小雪ユキも知ってる人? 有名人?」


「いやだって先輩で主席で深見沢って、あの”銀髪姫クイックシルバー"でしょ。

 有名っていうか、あ」


そこまで口走ってから。

知り合いらしい夜に気を使ったのか小雪がバツが悪そうに慌てて口を閉じる。




「ごめん」


「いいよ。

 ていうか私は気にしないけど、それ本人の前で言わないようにね」


「それはもう」


「何々、どういうこと?」




興味深げに、というか好奇心丸出しで千歳が食いついてくる。

真夏は何も言わずに視線を小雪と夜の間を往復させて。

小雪は夜を様子を疑うようにちらちらと視線を投げて来た。


夜は肩をすくめて小雪に先を促す。

別にここまで話題にして今更、辞めるほどの義理はない。

だいたい有名な話なのだ、夜が口を閉ざしても小雪に禁じても意味はないだろう。



「えと、晴心女学院セイジョの”銀髪姫クイックシルバー"って。

 めちゃくちゃ有名人っていうか、伝説?」



――伝説。

大袈裟な、とは思うがまあ仕方ないのかもしれない。

どこまでが本当かは知らないが、夜も彼女のは幾つか耳にしていた。



立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹ぼたん、歩く姿は百合の花。

立ち居振る舞いをして美人を意味する慣用句だが、彼女はそのように評された。


らしい。


ただしその先にはこう続く。



「——牙を剥いたら悪鬼羅刹って」


「ナニソレ」


有名な慣用句に続けてそう付け足した小雪に真夏は目を丸くし。

意味が分からなかったらしい千歳は目をぱちぱちと瞬かせた。




「や、なにそれって言われても、夜ぅ……」


助けを求める様に小雪が夜に視線を投げて来る。

そこで投げられても。



「私たちの先輩方に晴心女学院セイジョ銘柄ブランドをかさに着て、

 売しゅ、あ、いや援こ、……パパ活をしてた人たちがいたらしいのね」


「パパ活?」


「うわなにそれエグ」



意味が分かってないらしい千歳は全員が無視した。

あなたは清いままでいて欲しい。


眉をしかめる真夏に夜は苦笑を返す。



それでまあ、自分らがやる限りにおいては自己責任で良いのだろうが。

えてしてそういう上手くやってるつもりの人間と言うのはボロを出す。

たちの悪い大人たちに寄ってたかって食い物にされていたらしい。


そしてそれは発端となった彼女たちに留まらず、他の生徒にも波及した。




「うへ、大問題、大スキャンダルじゃん」


「で、件の深見沢先輩、

 ——”銀髪姫クイックシルバー"のお友達にも手が伸びたらしいのね」


 結果、どうなったか。



「どうなったんそれ」


「ガラの悪い大人たち、いわゆる半グレというか。

 社会的に問題のある集団のとこ一人で乗り込んで手を引くように直談判したって」


「うっはカッケなにそれ惚れる」


「いや、そんないい話じゃないと思うよこれ」


一転して尊敬のまなざしになった真夏に夜は苦笑し、小雪は首を横に振った。



「当然、相手は手を引かないどころか、暴力で深見沢先輩を抑えつけようとしたらしいんだけど……」


「けど?」



夜は肩をすくめて見せた。

その先は真偽不明の噂しかない。

どこまでが真実かはもう彼女たちの世代にはわからない。

さすがに本人に確かめる気にもならない。



「大立ち回りで全員叩きのめして無理やり手を引かせたって話だけど」


「はい? 物理で?」


「物理で」


「最低でも病院送り、最高で再起不能だったとか聞いた」


小雪が恐る恐るといった感じで言葉を足す。



「意味が分からない」


「私にだってわかんないよ。

 だいたいどこまで本当かはわからないし……」


「2m近いプロレスラー崩れを片手でぶん投げたとか聞いた」


小雪がまた真偽不明の余計な情報を足し、真夏がまた目を丸くする。



「かっけー」


「いや格好良くはないと思うけど」


「マジなの? ていうかそんなの絶対ニュースなるじゃん」


「いや学校側も大スキャンダルだし、関係者に偉い人も多かったとかで全力で情報統制入ったって話だけど、どうなんだろう」


「どうなんだろう、って。

 その辺、真偽はどうなんですかよっちー


「知らないってば。

 ……まあ、外見から想像つかないくらい喧嘩強いのはほんと、かなあ」


自信なさげに肯定した夜に、うひょーとお嬢様らしからぬ声を真夏があげた。



「強いんだー」


「銀髪のゴリラ

 銀の悪魔シルバーデビル

 瞬殺の銀クイックシルバー

 人呼んで"銀髪姫"ってね」


小雪がなぜかうんうんと感心したように彼女の通り名を並べる。

絶対そのあだ名は本人の前で口にしない方が良い、特に最初のやつは。


そんな風に思いながら夜はため息をついた。

ため息をついて次の句を継ごうとして、気づく。




千歳ちーが小動物のようにぷるぷると視界の端で震えていた。


真夏なつ小雪ゆきも気づいていたらしく、生ぬるい笑みを浮かべている。




「んで、夏休みなんだけどさ」



そんな千歳ちーを自然にスルーして真夏なつが続けた。

まあ平常運転ではある。

こうやってすぐに身を縮こませるのが千歳のかわいげのあるところだ。


ちなみに晴心女学院は一応、進学校に分類される。

夏休みも自主学習と言う題目で一部の授業が行われるのだが。

大抵の生徒は里帰りだのなんだのと理由をつけて逃亡するのが常である。


それが実質的に許されないのは地元の生徒と、赤点の生徒だ。


彼女らの中に赤点を取るような学力の生徒はいない。

……小雪が若干怪しいところはあるのだが。


そんなわけで地元組ではあっても、夏季講習は丸々と彼女らの行動を制限はしない、はずだ。


故に、ヒイラギ 真夏マナツは行動する。

黙っている事ができるタチではない、泳ぐのを止めると死ぬ魚と同類。


だから何かしら、予定をぶち上げて来るとは思っていた。



「肝試しをしようと思う」



最初に思ったのは思ったよりまともな提案だな、ということだった。



「肝試し?」


ちなみに千歳は案の定縮み上がっていたが例によって無視された。



「言うて心霊スポットなんてあったっけこの辺」


「普通に治安悪そう、動画配信者とかに遭遇するリアル危険リスクない?」


小雪に続いてそう意見を出す。

心霊現象だの暗闇より、よほど浮かれパリピの方が危険だ。



「あるんですよ。穴場が!」


「どこ?」


「希望ヶ丘記念病院って知ってる?」



知らなかったのでスマホを開いて検索した。

隣で小雪も似たような事をしている。



「……4年前に潰れた病院、ねぇ」


「心霊スポットとしては無名、か。

 悪くないかも」



地図を確認する、無名な事に加えて山越えの国道脇と立地もいい。


山頂のコンビニも近く、徒歩で現地付近までおおよそで15分。

そこから脇道に入って数分か、長くても10分と言ったところで撤退も容易だろう。


真夏らしい、堅実な(?)チョイスだと思える。

おそらく急に思い立った話ではなく、それなりに調査と準備に手間暇をかけている。


……つまり今更止めたところでやめる気はないだろう、ということでもあるが。





「——じゃあ、十分に準備してからね」




だから卯月キサラギ ヨルは、そう口にするに留めるのだった。


止まらないとはいえブレーキはかけなくてはならないし、それは彼女の役目である。




**************************************




まあ、結論だけ言えば平穏無事とはいかなかった。





案外奇麗なものだと、マグライトを手に3階を徘徊している時に事故それが起こった。



――人の手が入らないにしてもこれはちょっと。


と、夜はひとりごち。


ため息をつく、怪我はない。



「よっちー?!」


「あー、平気です平気です。

 怪我一つないので安心してください。

 というか寄らないで、崩れるかも」



言って、上を見上げる。

何のことはない、


老朽化が進むには時期が速過ぎる。

おそらくは手抜き工事か何かか。


比較的建物としては新しいはずだったが。

こんな有様ならそれは廃院にもなるだろう。


大きなニュースになっていなかったのは建築会社あたりから圧力があったのか。


何にせよ制服についた埃をぱたぱたと払いながら夜は周囲を確認した。

頭上に揺れるマグライトの光は4mほどの高み。


2階分ほども落ちたようだが、案外と怪我はない。

衝撃は1度ではなかった。

1階分崩れた後に瓦礫の重みと衝撃で2階目の崩落が起こった、ように思う。


怪我らしい怪我がないのは、心配性の義父が着る事を義務付けた、首から下の全身を覆う黒いタイツのお陰だろう。


難燃、防刃、絶縁だとか謡っていたように思う。

眉唾物だと思っていたが案外本当の事だったのかもしれない。



スマホを通話状態のままスピーカーにしてナップサックのポケットに突っ込む。

両手は一応フリーにしておきたい。


「えーっと、二次被害が怖いので撤退推奨。

 私は帰り道を探しますので」


『大丈夫?』



スピーカー越しに心配げな声が届く。



「一応。

 というか、思ったより暗いので明るくなるのを待つかなぁ……。

 みんなは先に帰ってください。

 助けは呼ばないように、退学ものですよ」


『でもぉ……』


『大丈夫なの?』


「水と携行食、寝袋と毛布を持ち込んでいますので。

 最悪、明け方を待ってから脱出しますよ。

 変なのが居ても早々負ける気はしませんし」



気軽にそう言って、夜は肩を揺らしてナップサックの位置を直した。


実際、下手な相手に負ける気はしない。

これも心配性の義父が護身術を学ばせてくれたお陰だ。


――彼女らには教えていないが、武器の類も一応用意があった。



「さ、バッテリー温存したいので切りますよ?

 とっととみんなは帰っておいてください、そちらの方が心配です」


『よっち、』


「ごめんはなしですよ、真夏なっつ

 止めなかったのは夜も同罪なので。

 ではまた明日」



淡白にそう告げて通話を切る。

正直に言えば気分は高揚していた。


卯月キサラギ ヨルは、彼女らが思っているより数段タフで。

そして同じくらいには好奇心旺盛だった。


保護対象がいない方が冒険には気兼ねがない。

単独行なら最悪自己責任、何も問題はない。



大手を振って廃墟の探検ができる、というのは乙なもの。



――思っていたより崩落はあちこちで起こっていた。


3階まで上がった時には気づかなかった事だ、暗いせいだろうか。

位置関係からすれば一階にいるはずなのだが、困ったことに出口がない。


右に左に、案外と広い院内をうろついて。

夜はその階段を見つける、見つけてしまう。


登りではない、下りの。


霊安室、ではなさそうな気配。

心霊現象オカルトには耐性があるが。

さすがに霊安室となると多少はしり込みする。


だが、そういった気配でもなかった。


ひとまず、行く当てもないので降りてみる。

迂回するとか、他の道を探すという選択肢は無かった。




降りた先は、普通に廊下。


一風変わった病棟、重症患者向けなのだろうか。

覗き込んでみると1室1室が広く、やけに物がない。

暗がりの床に、ゴムタイヤのモノらしい擦過痕などが見て取れる。


となると何か機材が元々はあったのか、例えば生命維持装置の類。


……さすがにそう想像すると少々、うすら寒いものがないでもない。


思ったより楽しくはないな、と最後の病室を覗き込んで夜はぎくりとする。





その部屋だけが異質だった。



壁に、どす黒い染みがあった。

無意識に半歩下がる。

足元にリノリウムの床と違う感触を覚えて思わす視線を落とす。



辞めておけばよかったと、少しだけ後悔した。

同じ色が、どす黒い色がそこにもこびり付いていた。



軽く、つま先と靴裏でこするとぱらぱらと砕けて破片が舞う。


――元はきっと鮮やかな赤だったのだろうな。



口内で呟く、そっと瞼を閉じて深呼吸。

鉄錆のような薄っすらとした匂いは、感じなかった事にした。


息を、長く吐いた。



動物や人間の気配はない。

心霊現象は信じていない、基本的にあんなものは思い込みだ。


つまり、目下のところ危険性はない。


病原菌の類、感染の恐れは一般的なもの、たとえば破傷風とか。

そういうものしかあるまい。


危険な感染病で廃院になっているなら流石にニュースになっているだろうし。

4年も無人になっていれば無毒化されているはずだ。



――息を、吐く。


恐怖はほとんどが消えて心に平穏が戻って来る。



よし、心を落ち着けて気分を切り替える。

ここで、何かがあったことは間違いない。

今すべきことはそれについて徒に不安を募らせる事ではない。


なにか、当時の事をうかがい知ることのできる何かを、探す事。


つまり冒険の時間だ。



うん、と頷いて気分も新たにマグライトをかざす。



丸い光の中に浮かび上がったそれに、思わず息を飲んだ。


他の病室にはなかったものが、部屋の中央に鎮座していた。

寝台ベッド、だがそれだけなら息を飲んだりはしなかった。


は、何か凄い力で叩き壊されたように歪んでいる。



「——なんですかこれは」



驚いたのは一瞬のこと、危険要素は変わらずない。

恐怖する必要はない、はずだ。



マグライトを振って周囲を見渡す。


古い血痕、叩き壊された寝台。

無事だった機材や家具は運び出されたのだろう。


他には同じように粉砕された棚と机らしきものの残骸があるのみだ。



ぐるりと、さすがに警戒心を刺激されて寝台を迂回するように部屋の中を歩く。

めぼしいものは何もない、そう思えた。


ため息を一つ、何もわからないのはなんとも肩透かしで。

マグライトを何気なく振る、何かが視界の端をかすめた気がした。

慌てて視線を振り、マグライトを向けなおす。


壊れた机の破片に混じってそれは落ちていた。




「……ノート?」



マグライトを肩と首で挟んで保持し、屈みこんで拾い上げる。


赤黒い斑点に汚れたそれは確かに、ごくごく普通のノートに見えた。

意を決してページをめくる。


元は水色だったような、色あせたインクの文字が躍っている。

あまり、字が上手ではないな、と思ったのも一瞬。


これは筆者の手にまともな筋力が無いからだろう。

小刻みに震え、時に歪んだボールペンの文字。

必死に書き記したであろう事が見て取れる。

漢字が少なく、平仮名が多かった。


最初の一行目は日時だった。

日付は8年ほど前。





 せんせいにいわれたから。

 日記をつけようとおもう。




あっさりとしたその1文で1日目は終わっていた。



一度ページを閉じ、ノートを改めて観察する。

全体的によれていて、大半のページは文字で埋まっているようだった。


ノートは全部で3冊あった。

真面目に目を通すならそれなりの分量になるだろう。



ふむ、と息を吐く。


崩れたベッドに蹴りを入れて形を整える。

破れたマットレスを叩いて埃を飛ばした。

割れたパイプフレームにマグライトを挟んで光源を固定する。


腰を下ろす、これは腰を据えて目を通したい。

他人のプライベートな記録に目を通そうと言うのだから、礼儀は必要だろう。


掌を合わせて合掌、ノートに黙礼して改めてページを開いた。




病名に触れるようなことも、自己紹介の類もなく。

淡々と日記の日付は進んでいく。


大半は病状の悪化、その苦しみを訴える短い文章。


時折、別の字、別のインクで刻まれた励ましの言葉たち。


医者か、看護師か、家族か。

おそらくはその全て、激励文は様々な筆跡で刻まれている。



3ページ。


6ページ。


9ページ。


21ページ。


45ページ。


日記が2冊目に入る。

めくったページが60を超えたあたりで夜は、背筋にうすら寒いものを覚えていた。




地獄への道は、善意で舗装されている。The road to hell is paved with good intentions



――いつだったか、皮肉気に養父が言っていた西欧の慣用句を想起する。




誰も彼もが、——彼か彼女か、この誰かに生きろと激励を続けている。

生きる事を望み続けている。



けれど、ああ、そうだ。

紡がれ刻まれる言葉は全て痛み、苦しみ、そんなものだけ。


この誰かは、

彼/彼女の"生"には、苦しみと痛みしか紐づけられていないではないか。


明確な言葉にされてはいない。

絶望も諦観も明文化されているわけではなかった。



だが、わかる。

わかってしまう。


この日記には何もない。

ささやかな喜びも、明日への希望も。

夢も未来もない、痛みと苦しみ以外のすべてが抜け落ちている。



――終わればいい。



言葉にはならずとも、そう願っていることは明らかだった。


だのに、ああ、この法治国家において、道徳と感情において。

彼/彼女のたった一つの望みねがいは果たされる事がない。

絶対にないのだ。


楽になりたい、というそのたった一つのささやか過ぎる願いは。


……決して叶えられることがない。


誰も彼もが生きろと呪いの言葉を浴びせかける。

苦しみ、痛みにさいなまれ続けろと。



なんておぞましい善意、なんて救いのない世界だろう。



ごくりと、息を飲む。


彼/彼女に何があったのか。

その終りは、救いは。

彼女に訪れたのだろうか?



ページをめくる。

手の動きは鈍くなっていた。


内容は変わらない。

痛み、苦しみ、改善しない体調を訴える淡々とした言葉の羅列。


時折現れる他人の、美しい呪いの言葉たち。




3冊目の数ページ目に現れたその言葉に、息を飲む。




 ――わたしを、すくってくれるひとがきた。




「は?」



夜の、ページをめくる手が素早さを取り戻す。



意味をなさない、喜びの言葉たち。

空虚な、願いと奇跡への祈り。


なんだ、これは。



病状が改善したわけではない。

医者と思わしき誰かが彼/彼女に意味を問う書き込みもあった。


だが、返事はない。


ただただ待ち人の到来を待っている、それだけの日々。





喜びの日から10日が過ぎ、20日が過ぎた頃、次の変化が記される。






――わたしのねがいはかなわなかった。



「……そんな」



その一言を最後に、白紙のページが続く。

端的な絶望と裏切られた悲しみを告げるその一言を最後に。


日記は、終わっているかに思えた。




愕然としながら白紙のページをめくり続ける。


これで、終わり?




呆然とする、救いも劇的な変革もないままに、この物語は終わりなのか?





ぱらりと、無意識にめくり続けていたノートに新たな文字が刻まれる。



「ッ……?!」




文字は力強さを取り戻している。

筆跡は同じ、平仮名は減り、漢字が増えていた。


まるで別人のような、けれど同じ誰かの記した文字。






――私はあの子になった。


あの子は私になった。


なんて苦しくて、なんて辛いのだろう。


これがあの子の、私の結末。


終わる事は許されない、続けなければならない。

この連鎖を、この命を。


明日を生きる事を願っても生きられないものたちの為に。

投げ出すことは許されないから。


明日になんて価値はないのに。

苦しみもがいて痛みに耐えて、明日を夢見る意味などないのに。


投げ出してしまいたいのに、それは許されないから。



私の願いは。


終わる事、終わらない事、引き継ぐこと、引き継がせる事。


いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも。

終りなく続く入れ子の人形のように。





私の、願いは。



私が私でなくなること。





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