汀 涙〔Ⅰ〕:遠い残景




遠く、遠く、遠く。

あの風景を思い出す。



晴心女学院セイジョの旧校舎の音楽室で、組んだ足の上にギターを載せた彼女の姿。


晴心女学院付属高等学校は、いわゆる女子高であり、俗にいうお嬢様学校だった。

生徒はみな育ちのいい年頃の女子で、人前ではしたなく足を組む人間はいなかった。


ましてやその中でも彼女の振る舞いは常に品の良さを感じさせる完璧なもので。

それは教師と生徒の両方の間で有名だったのだから。


いわく晴心女学院の誇るかくあるべき才女の姿。


その彼女が。

ギターを弾いていた。


組んだ足の窪みにすっぽりと、古臭いギターがはまり込んで。

彼女の指先が弦をつま弾くさまはいっそシュールなくらいで。

自分が見ている情景が本当に現実なのか自信が無くて。



その曲が終わった時、思わず声をかけた時のその、彼女驚きようったら。


彼女は、私に問われると素直に曲名を教えてくれた。


ルビーラによるホ調練習曲Estudio en Mi de Rubira

なるほどそれは彼女らしい選曲だと感心したものだ、曲名すらも真面目だと。


だが、後々、私は知ることになる。

その曲にはもっと別の、有名な呼び名がある事を。


その曲には”名前のないロマンスRomance Anónimo”というもっと洒落た名前もあり。


だがもっと有名な呼び名もその他にもう1つあった。

その曲を用いた有名な映画の名前が、まるで曲名のように人々に扱われていたのだ。




――それは、俗に"禁じられた遊び"と呼ばれている曲だった。




**************************************




「――わさん、みぎわさん」



遠く、声がする。


酷く優しく、懐かしい声が。


頬が緩む、もっと、眠りを泥のように溺れて。


彼女の、声が。




「――ミギワ ルイ、起きなさい」



「は、はい先生!」



硬質で、厳しくもやさしい声が彼女の、みぎわ るいの名を呼び。

彼女は思わず身体を強張らせて跳ね起きた。



教科書、そう教科書は何ページ?

先生は今どこを読んで、




「……汀さん、先生は止めてください。

 私はもう教師ではないし、貴女も私の生徒ではないのだから」



目の前に。

年老いてなお力強さを感じさせる、まっすぐに背を伸ばした彼女の顔があった。



「あ、いえ!

 一尺八寸カマツカ先生は晴心女学院セイジョを卒業したとしてもやはり私の先生なので! 

 そこは! 譲れませ、あいえ、すいません。


 ……あれ、私、寝てました?」



「ええ、それはもうぐっすり。

 ……疲れているのではなくて?」



彼女の失態を怒るでもなく。

一尺八寸カマツカ 三智子ミチコはただ、困ったようにほんの少しだけ、眉を寄せる。



「いえ、すいません!

 そんな、先生に心配していただく程の事でも、あいえ。

 ……失礼しました、一尺八寸さん。

 少し、油断していたようです」



軽く頭を振って涙は居住まいを正す。


いつの間にか運転席にはアムが座り、エンジンを始動していた。

涙が目覚めたのを確認して後部座席、涙の横に一尺八寸カマツカ 三智子ミチコ、彼女の上司が乗り込んで来るのを横目で眺める。


彼女が腰を下ろそうとして躊躇するのを見て、膝の上からずり落ちかけていた折り畳み端末ラップトップを慌てて乗せなおした。



「——それで、どうでしたか。例の彼は?」


気を取り直して、訪ねる。

三智子、〝仲介者マッチメイカー〟はドアを閉じて瞼を閉じ、考える仕草を見せたのも一瞬で。



「観察力、考察力、判断力。

 いずれも高い、まあ控えめに言っても優秀な人物ですね。

 猜疑心が強いのは長所でもあるし短所でもある、と言ったところかしら。

 ……八木の抜けたを埋めてくれると良いのだけれど」


その言葉に、折り畳み端末を開き、資料を呼び出しながら軽く涙は肩をすくめた。




「いくら有望でも八木さんの穴を埋めるのは難しいでしょうね……。

 正直、信じられません、彼ほど優秀な〝斡旋屋ミディエイター〟が不覚を取るなんて。

 ——誤報という可能性はないのですか?」



「〝猫の鈴キャットコール〟のログは貴女あなたも確認したのでしょう?

  私も目を通しましたが不備があるようには思えませんでした。

  3日前に脈拍信号バイタルが途絶えた、それは間違いない」



キーを叩く、呼び出されたログは確かに。

3日前の深夜に脈拍信号バイタル消失を記録している。


そして今朝、



「そして今朝、05:46マルゴーヨンロク

 八木恭介の脈拍信号バイタルが復活した。

 あり得ない事態です」



言って、実汀涙は思考する。


自律偶像の権能がいかに人知を超えたものであろうと。

死後3日も経っての蘇生は考え難い。


彼の自律偶像が、彼女らが観測した、あるいは知悉している範囲で最高の治療能力を持つ蛍雪であっても、だ。



「他の〝斡旋屋ミディエイター〟を派遣して確認しました。

 確かに八木――、八木と思しき人物は生存しています。

 そして蛍雪も彼を礼賛者ピグマリオンとして認識している」



普通に考えれば。

自律偶像ガラテア礼賛者ピグマリオンを誤認する事はあり得ない。

例えばそれが他人を偽装する権能オーソリティであったとしてもだ。


前向きに考えるならば。

礼賛者の死に対して蛍雪の権能が更なる飛躍を遂げたと思いたい。


だが、彼女らには疑うべき理由があった。



かかしスケアクロウ


走り出した車の窓外を眺めながら。

仲介者マッチメイカー一尺八寸カマツカ 三智子ミチコがその一言を呟いた。



そう、それだ。

彼女らは既に数件、を確認している。


かかしスケアクロウ〟という通称を与えられたそれは、死んだはずの人間として活動し、そして一定の期間を経たのち再び行方をくらます。


遠目には人間ほんにんに見える、だが異なる何者か。

それが〝かかしスケアクロウ〟という通称の由来だった。


或いは限定的な疑似蘇生の権能を持つ自律偶像がいる、そういう可能性もあるが。



「……当分は八木に監視をつけるべきでしょうね。

 いずれにせよ蛍雪のの時期も近い。

 彼女が死ぬようなら偽物、〝かかしスケアクロウ〟と断定できる。

 あるいは行方をくらますようなら、ですか」


「——もし、蛍雪が生存を続けるようなら?」



涙の言葉に、窓外に視線を落としたまま〝仲介者〟は問うた。

涙は一呼吸の後、口を開き、回答する。



「その場合は、蛍雪の"癒しの手アロウンス"の評価を上方修正する必要があります。

 あるいは、〝かかしスケアクロウ〟の擬態能力の方を」



結構、とだけ一尺八寸が応え、涙ははい、とだけ答えた。


実際のところ、自律偶像と礼賛者のペア、——契約主従アロイが何を為そうと彼女らの関知するところではない。


犯罪でも、殺人でも、それがどんな違法行為であってもだ。

それは彼女らの目的にとって一切、関係がない。


だが、八木恭介がとなれば話が違う。

彼は、あの男は彼女たちに近い、近過ぎるのだ。

それは彼女たちのに、”果てハイエンド”に何者かの手が迫りつつあることを意味していた。


――”果てハイエンド”。



汀 涙はその存在について多くを知らない。

知っているのは”果てハイエンド”と呼ばれていることだけ。


あるいは彼女の上司である〝仲介者マッチメイカー一尺八寸カマツカ 三智子ミチコなら知っているのか。



いや、あるいは彼女ですら何も知らないのかもしれない。

根拠もなくそう思う。






果てハイエンド


彼女らを、〝仲介者マッチメイカー〟を、そして〝斡旋屋ミディエイター〟を使って。

自律偶像ガラテアと呼ばれる不条理の存在をばらまき続ける、


それが個人なのか、組織なのか、あるいはもっと別の何かなのか。


そこに汀 涙は興味がない。


例えばもはや生活と切り離せない小道具ガジェットとなったスマートフォン。

それがどのような仕組みで動いているのか、彼女は正確には知らない。


なんならもっと別の何かでもいい。

彼女が仕組みを、仕掛けを、その構造を知らないものなんて幾らでもある。


だがそれでも世界は回る。

給与は振り込まれ、奇麗な服も買えて、美味しい食事にありつける。


何も問題はない。

世は全て事も無し。


何より〝斡旋屋ミディエイター〟が、そして彼女が。

あるいは〝仲介者マッチメイカー〟である三智子ミチコが身に着けているであろう小道具ガジェット


居場所を、生体情報を収集し送信し続けるの名前もまたある種、示唆的である。



猫の鈴キャットコール



それは否応なく、ある有名な慣用句を思い起こさせるではないか。



――好奇心は猫をも殺す。




声にならないようにそっと押し殺したため息をつく。


三智子ミチコは考え事をするときの癖で背を伸ばして目を閉じて座っている。

……たぶん、気付かれてはいないだろう。


後方鏡バックミラー越しにアムには見みられていたかもしれないが、それをいちいち指摘したりする人間、——いや、自律偶像ではない事はわかっている。


――ざり、と脳裏に灰色のノイズが走る。


そもそもなぜ自分は、三智子の下でこんな事をしているのだったか。

どのように誘われ、どのように世界の裏側を知り、ここに足を踏み入れたのか。


浮かびかけた疑問を汀 涙は切って捨てた。



手首にはめた多機能時計スマートウォッチが震える。

振動パターンは通知内容で異なるよう設定されていた、これはメール着信だ。

それも優先度が高く設定されている発信元の。



閉じかけていた折り畳み端末ラップトップを開いて目を通す。

発信元と内容と、それぞれに目を通して涙は今度こそため息をついた。




「——思索中すいません、〝仲介者マッチメイカー〟。

 今メールが入りました、八木恭介からです」


〝仲介者〟は動揺を見せない。

驚いた風でもなく、目を閉じ、背筋を伸ばして座ったまま応答する。



「彼は何と?」


「負傷、一時離脱に至った経緯の報告書です。

 我々の管理外、未知の契約主従アロイと交戦したと。


 またその際に携行していた蛍雪の血装具ブラッドボーン

 及び未契約状態の自律偶像ガラテアを奪われたと言っています。

 

 礼賛者ピグマリオンは候補者リストに八木が挙げていた対象。

 ——渋沢 功。


 それと負傷を理由に1週間の休任申請、詳細な交戦レポートが」



珍しく、本当に珍しい事に八尺一寸はため息をついた。

隠す風でもなく。



「——秘密主義が災いしましたね。

 彼には手を出さないように返答しておきなさい。

 後の事は他のものが引き継ぎます」


「はい。

 ――彼、彼らはリストに?」


「不要です。

 あれらは放置で構いませんよ。

果てハイエンド〟は彼らの存在を認知済みです。

 あれはメルキオールの、いえ」



片目だけを開いて八尺一寸は涙をちらと見た。

涙は何も言わずに意を汲んで頷く。



「今の名前は忘れる様に。

 ……とはいえこういう事故は困りますね。

 今後は彼らを不干渉対象としてリストに共有化を」


「はい」



言われた通り、不干渉対象者のリストを開く。


――彼ら、のなかには。

その自律偶像、あるいは奪われた自律偶像も含まれるのだろうか?

一瞬の思案の後、『渋沢功及びその周辺には干渉しない』としてリスト入りさせた。


渋沢 功、あるいはメルキオール。


汀 涙の知らない名前。

だがそれらについて深く考えることなく彼女は思考からそれらを抹消した。


気にするな、関わるな、知ろうとするな。

それがどんな理由であれ三智子の指示は絶対であり、間違いはない。



「達成率はどうなっていますか」



三智子の言葉に涙は再び端末を叩く、リアルタイム共有された、だが一部の人間にしか閲覧権限のない高位の資料を呼び出す。



「——達成率は約8割、79.56%です。

 ここ半年の歩留まりは40%前後で推移、完全達成までは約、」


「目標値は再設定されました。

 80%で次の段階セカンドステージに移ります、そのつもりでいなさい」



彼女の発言にかぶせて放たれたその言葉に、涙は息を飲む。



「では。ついに収穫が始まるのですか」


「上は〝ordeal〟の投入を決定しましたよ、ルイ

 まったく乱暴なやり方ですが。

 刻限に間に合わせようとする以上、潮時でしょうね。

 新たな〝翠児インファント〟の出現はないですね?」


「変わらず3例、新たな顕現は確認されていません」



涙の言葉に結構、とだけ一尺八寸が応え、涙ははい、とだけ応じる。




実際のところ全く結構ではないけれどね、と素の口調で三智子が呟く。

その口元に浮かんでいるのは苦笑、それがどんな意味で浮かんだ表情なのか。


汀 涙には、わからない。


だが、それでも、その言葉だけは口をついて吐き出される。



「——どうか、御武運を。

       〝仲介者マッチメイカー〟」


「そうね。

 ええ、私にとっても他人事ではない。

 とはいえ死ぬつもりはありませんよ、そうでしょうアム」



彼女あるじの言葉に、自律偶像アムは応えない。


だがそれは、不安や自信の無さを意味しない。


彼女の紫の瞳に不安や恐れはない。



――最強を自負するがゆえに。






 

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