穂原 映〔Ⅲ〕:契約、あるいは


顔のない白衣の男が椅子に座ってこちらを見ている。


その貌は真っ黒に、あるいは真っ白に塗り潰されているのに。

はっきりと、その男が笑っているのがわかる。




『やあ、気分はどうだい? ***くん』



朗らかに、男が薄っぺらい社交的な笑みを浮かべて話しかけて来る。


最悪だ、と言葉に出さずに吐き捨てる。



これは夢だ。



だから男の顔は見えないし、ほら、胸に付けた名札に記された彼の名前も読めない。



そう、これは夢だ。



『——そう、確かにこれは夢だね。

 でもだからこそきみは目を逸らすべきではないんじゃないかな?

 心的外傷の治療にはその傷そのものと向き合う事が必要だ。

 もちろん、無理はいけないけどね。

 ほら、きみにもわかっているだろう?』



顔のない医者が中身の無い言葉を並べ立てる。

言葉自体は間違いではない、正しく傷を認知しない限り心の傷は癒える事はない。


少なくともそう、確かに彼の知る知識でもそうだ。


だからこれは夢だ。

この顔の無い医者は彼の知る事しか話さない。


だからその言葉に耳を傾ける意味はない。



『そう、意味はない。

 なにもない、きみ自身にも』



黙れ、と。

その言葉は口にしたはずだったが虚空へと消えた。



そう、これは夢だ。



**************************************



人は、傷一つない無垢ムクの状態でこの世に生まれ落ちてくる。


だからこそ傷つく事は約束されていて、傷つく事は不可避の運命である。


傷ついて形を変えて行くことが生きる事で、傷痕こそが人格を形作る。


傷痕を整え、見える形に変えて行くことこそが成長である。


――そして多くの場合、人生のすべてはそれに費やされて終わるのだ。



**************************************





十分に加熱したフライパンに厚切りのベーコンを落とす。


油は引かない。

はじめは中火、表面に焦げ色がついたら裏返し、弱火にする。


キッチンペーパーにベーコンから溢れ出た油を吸わせて油を減らす。

油はでもあるからふき取り過ぎるのも良くないが。


だがベーコンエッグを作る際には過剰な油は禁忌タブーである。

油が多くては卵のたんぱくな味わいが殺されてしまう。


ベーコンに十分な熱が、過剰ではない熱が通った頃合いに卵を割り落とす。

待つことしばし、コップに1/4ほどの少々の水を入れて蓋をする。


あとは蒸らしの工程、これも時間が重要だ。

彼の主人は半熟を好む。



自律偶像アンヘルはふぅ、と息を吐く。

油断はできない、朝食は一日の始まりの儀式、重要なものだから。


湯通しして余分な油を飛ばした油揚げを切る。

これも油を落とし過ぎては台無しだが、油が多くても台無しだ。


出しを取ったお湯に刻んだ油揚げを入れる。

赤味噌を溶かす。


ベーコンエッグの入ったフライパンの火を落とす。

そろそろ頃合い、後は余熱だけで良い。


白米は炊いてある、火を入れる前に必要十分な水を吸わせてから。



「よし」



会心の出来。

更に手で千切ったレタスと切ったトマトを並べ、ベーコンエッグを移す。



皿を乗せたトレイを手にして居間に移動する。


ソファに転がって目を閉じて、穂原 映かれのあるじが眠っている。



自律偶像ガラテア礼賛者ピグマリオンの世話を焼きたがる。

他ならぬアンヘル自身がそうだし、おそらく他のガラテアも同じだろう。


理由は言語化し辛いが、一言で済ませてしまうなら『必要とされたい』からだ。


アンヘルは穂原映の身の回りの世話を焼き始めてすぐに気づいた。

彼の主は、家事全般がとんでもなく上手だった。


そしておそらくそれに誇り、というか、矜持プライドがある。

アンヘルの家事能力が上達するにつれアキラの気分は薄っすらと悪化していた。


自律偶像であるアンヘルはその手の変化には敏感だ。


かと言って上達しなくても気分を害するらしい事にも気づいた。

だからほどほどにすることにした。


どうせ一朝一夕の修練では追いつけない域にあるじの技能はある。

だからほどほどに頑張る事にした。


彼がまだまだだと感じる、だが不満には思わない水準へ。


そのことを面倒だとは思わない、それは彼が自律偶像だからだ。


彼はまだ眠っている。

本来なら目を覚ます刻限だが、いつもよりも眠りが深いようだ。


――これは良くない傾向だった。


彼の眠りが深い時、それは決まって悪夢を見ている時だ。

映はそれをはっきりとは口にしないが、態度には現れていた。


無論アンヘルはそのことに触れたりはしないが。


だからベーコンエッグが少し冷めた頃に起こす。

料理が冷めそうだったから起こした、そういう自然な流れ。


あるいは、敏感な彼の主人はその誤魔化しにすら気づいているのかもしれないが。



「……映さま、起きてください。

 朝食を用意しました」


「——ああ、すまない」



穂原映の寝起きは良い。

だがどことなく不機嫌で、視線はどこか遠くに焦点を合わせている。


テーブル上に置かれていた彼の眼鏡ハーフリムを手に取って体を起こした彼にそっと渡す。


やはり、悪夢を見ていたのだろう。


いただきます、と手を合わせて箸を手に取る。

主人より先に手を付ける事で怒るような映ではない。

むしろ料理が冷めるまで放置する事の方が遥かに彼の気分を害する。


アンヘルはそれを既に学んでいた。


食事の最中、良く見て居なければ気付かない程度に映の動きが止まる。

おそらくなにか、料理の不備に気づいたのだろう。

心当たりは無いが、主人が手放しでほめる水準にない事の自覚はある。


そして咎められるような不備でもない、はずだ。


案の定、映は何も言わずに食事を終える。

ごちそうさまを言って食器を台所まで運んでいく。


僅かに遅れてアンヘルも同じように食器を台所へ運ぶ。


悪くない、とだけ映は言ってソファへと戻っていく。

アンヘルが想定した中で最上ベストの反応だった。



その後、映は液晶端末タブレットを手にして画面を眺めはじめた。

これも彼の常通り、日課となっている就寝中の社会の動きのチェック。


手早く洗い物を終えて、紅茶を準備する。

日課の後には紅茶を飲むのが彼の好みだと把握しているから。


右目を、つけた眼帯の上からそっと撫でる。

存在しないはずのその器官は時折、存在しないはずの痛みを伝えて来るが。


彼が望み彼が抉ったその傷は、彼にとっての聖痕スティグマに他ならぬ。


――その痛みすらも喜びだった。



**************************************




液晶端末タブレットをテーブルの上に置いて映はゆっくりを息を吐いた。


……さて、どうするべきか。


人差し指でこめかみをとんとんと軽くたたきながら声に出さずにひとりごちる。

それは穂原 映が熟考する際の癖のようなもの。



あの日、契約から3ヶ月が経っていた。

人形アンヘルの仕上がりはまずまずだが、映の望む水準には及ぶでもない。



実のところ、穂原 映は選択ミスを自覚していた。


家事など自力でこなせるし、身の回りの世話など必要としていない。


アンヘルというコブ付きでは女の元に転がり込む事もできない。


アンヘル自身に篭絡させる方針は思いついてすぐに捨てた。

隻眼はともかく男性器の欠落は大きなマイナス点でしかない。

少なくとも女を篭絡するには不利な点ディスアドバンテージになるだろう。


つまるところ、何をするにもアンヘルの存在が邪魔なのだ。

とはいえ手放す気もないし、そのことでアンヘルを責める気もない。


そもそも自分が望んで手に入れたものだ。

望ましいのは映が望む通りの”権能オーソリティ”にアンヘルが目覚める事だが。


それがいつになるのか、そもそも望むものが手に入るかも謎ではある。


当面の宿としてマンションを契約し、アンヘルとの共同生活も安定している。

そろそろ行動を起こしてもいい頃合い。


だが、その起こすべき行動の方針が見当たらない。


通常の労働をさせる線はすぐに捨てた。

それなら自分で働く方がマシである。

第一アンヘルには戸籍が無いのだ、真っ当な就職はできない。


女と暮らしていた日々を思い出す。

三食、衣食住を提供させるだけでもロスは減らせた。


権力、あるいは財力を持つ女に取り入り行動を誘導する。

直接に有形無形の贈答品、あるいは直截に金を求める事も受け取る事もしない。


彼女らが動く時、そこに波風が立つ。

それを誘導し、推測して利潤を得るのが映のやり方だった。


至近距離にいれば観察も誘導も自在。

地価の変動、株価の変化、あるいはスポーツ選手なら勝敗を。


一見、誰が見ても穂原 映と関りの無い事象を操作し、そこから利益を吸い上げる。

利用している事を誰にも悟らせない、そういうやり方だ。


幸いそうして得て来た資産は一定量あり、当面の生活には困らないのだが。


ひらたく言えば。

穂原 映は暇を持て余していた。




「……そういえば八木に振っておいたアレはどうなったのか。

 期待もしてないといえばしてないが」



呟く、目の前にそっとソーサーにのったティーカップが置かれた。


紅茶。



――ああ、悪くない。


望むときに言葉にせずとも紅茶が出て来る、という環境。

ただそれだけでも、なるほどアンヘルを手に入れた価値はあった。




香りを味わい、カップを傾ける。

蒸らしが甘いが、及第点。



礼を一言言おうと顔を上げる、アンヘルの姿はない。



「……アンヘル?」




周囲に気配はない。


玄関の方に人の動く気配、アンヘルが戻って来る。



「映さま、その。

 ……お客様です、いかがしましょう?」



少し困ったようにアンヘルが告げる。

このマンションの場所はまだ誰にも知らせていない。


なるほど、と映は笑う。

どうやら、待ち人が来たのかもしれない。




**************************************



映の許可を得て、アンヘルはその2人を居間に通した。


一人は老女、年齢はよくわからないがおそらく60歳は過ぎている。

たぶん70歳かそのあたりだろうか。


品のある、背筋をピンと伸ばしたある種の優雅さを漂わせた淑女だ。


もう一人は若い、これも恐らく女。

ダークグレーのスーツ姿、サングラスに覆われて瞳、顔は伺えないが。

伸ばした紙を首の後ろでくくっている、護衛、のように思えた。

下半身はスカートではなくスラックス、スーツも隙の無い一点もの。



映が着席を促すと老女は会釈して腰を下ろし、若い女はその斜め後ろに立った。



「それで、ぼくに何の御用でしょう、お嬢さん?」


人好きのする笑顔で映が問う。

知人と言うわけでもないらしいが、驚いている風でもない。


客である以上、お茶とお茶請けを用意すべきなのだがアンヘルは動けなかった。

主のそばを離れることに抵抗がある。




「さて、誰だと思いますか。

 穂原 映さん、あててごらんなさい」


老女は品よく笑って見せる、態度こそ穏やかだが言葉は挑発的ですらある。




「……あなたは、そう。

 人に見られ慣れている。

 他人の目を気にして自分の立ち居振る舞いを整える事が日常化している人だ。


 たとえばモデル、女優。

 だが、これは違う。

 言葉は悪いですが貴女にはその手の人間が身に着けている華がない。

 良くも悪くも普通です、魅力的ではありますが。


 ……政治家、これも違うな。

 その手の人間なら全く記憶に無いのもおかしい。

 その類の人間がまとっているある種の剣呑さも感じない。


 となれば」


「となれば、なんです?」


 口を開いて長台詞を吐き出した映に、面白がるように老女が先を促す。



「——教師、かな。

 違いますか?」



「ふふ。

 御慧眼、正解ですよ。

 もっとも"元"がつきますけれど。

 他には?」



目を細め、品よく笑いながら老女が映を見る。

だが表情程に瞳の奥は笑っていない。


ある種の警戒心を呼び起こされた顔だった。



「〝斡旋屋ミディエイター

 八木さんはそう言っていましたね。

 あなたも、いやあなたこそが、かな。

 そうなんでしょう? 違いますか?」



穂原 映もまた、目を細めて老女を見る。


斡旋屋ミディエイター


アンヘルの知識にもある単語だった。

自律偶像を礼賛者の資格あるものに引き合わせる存在たち。



「それでは70点、かしら。

斡旋屋ミディエイター〟というのは八木のような人間の呼称です。


 私はそのです。

 改めて名乗りましょう、穂原 映さん。


 私は〝仲介者マッチメイカー〟。

 一尺八寸カマツカ三智子ミチコと申します」



言って女は名前だけが書かれた、所属も連絡先もない名刺をテーブルの上に置く。



映が口元の笑みを深くする。

アンヘルがまだ見た事の無かった獰猛な表情。



「なるほど。

 では俺の要求が通ったという事かな」



要求。

あるじの言葉にアンヘルは驚きを隠せない。


要求とはなんだろう。


老女はゆるく首を横に振り、否定の仕草。



「それはまだ。

 それを決めるのはこれからです。

 これは、そう。

 面接のようなものよ、穂原くん」


「なるほど、ね」


「大した観察眼ですね。

 そしてアムをずっと警戒しているのは何故?

 理由が知りたいわ」



老女の言葉にアンヘルは視線を動かす。


アム、というのは控えるもう一人の女か。


いつの間にか女は半歩前に出ていた。

映を害するに足る距離にもう半歩で足りる位置。



「室内に入ってサングラスを取らない時点で気づく。

 その女、自律偶像ガラテアだな」



アンヘルも馬鹿ではない。

映の警戒には気づいていたし、盾になれる位置へ会話の間に移動していた。

それでもなおその半歩がいつ踏み出されたのかわからない。


手練れだ。



「……これは失礼しました。

 アム、サングラスをお取りなさい」


「はい、マム」



女がサングラスを取る。

あらわになるのは深い紫黒の瞳。


人間に非ざる紫色を帯びた瞳孔だ。




「最低でも蛍雪と同等、それ以上の強さだろう。

 警戒しないわけがない、こっちはまだ殻付きニュービーなんでね」


「そうね。

 でもそれなら警戒が足りないわ。

 そうではなくて?」


「勝てるとは思ってないさ。

 ただ気づける程度には馬鹿じゃないって見せておきたくてね」



映が言い、老女が笑った。



「そういうことね。

 ——さて、では本題に入りましょうか」




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