マトリョーシカ〔Ⅰ〕:誤解と約束



彼は、誤解されやすい人だった。




胸骨体粉砕骨折。

左第2及び第3肋骨単純骨折、右第3肋骨複雑骨折。

周辺の動脈及び静脈の骨片による貫通性及び擦過性損傷、それに伴う出血。


蛍雪は自身の負傷をそう診断し、それは恐らく正しかった。


彼女の権能、"癒しの手アロウンス"はただ傷を癒すだけの能力ではない。

例えば、触れた部位からその奥の状態を把握できもする。



無論それは自身にも適用できる。



人体は無数の器官、無数の細胞から構成される。

彼女の権能はそれらを積み木のように並べ直す事ができる。

そして、崩すことも、積み重なる位置と関係からその奥の並びを察する事も、だ。



無論、ただ並べ替え、あるいは崩し、把握できるというだけで。

治療や介入には相応の知識を必要とされ、要求される。

そういった意味で彼女は勤勉だったと言える。



自律偶像の権能オーソリティは人知を、物理を、条理を超えた能力で、それを正しく言語化する事は難しく、蛍雪も自分の説明が正しいという自信はない。


だが、いつだったか主人ヤギに尋ねられた時、彼女はそう答えた。




自身への治療は出血を抑える事と、動ける程度に痛みを消す事に終始した。


重症どころかほぼ致命傷だったと言ってもいい深手。

だが、即死ではなかった。

であるならば問題はない。




渋沢功と深見イリスが早々に立ち去ってくれたのは不幸中の幸いだった。


普通の自律偶像ならば、あるいは蛍雪も一時はそうしたように主人の死の復讐を果たそうとするのが常であろうし、そうすべきなのだろう。



しかし蛍雪かのじょにおいては事情が異なる。


彼女の権能はあらゆる傷を癒す。

部位の欠損すら時間をかければなんとかしてしまう。


ならば、優先順位は普通の自律偶像と異なって当然だった。


2人の姿が完全に見えなくなるよりも先に彼女は起き上がり動き出していた。

それでも彼らが立ち去るのをぎりぎりまで待ったのは邪魔をされないためだ。


これから行う事を考えれば、妨害は文字通り致命的なことになる。





よろめきながら八木に駆け寄る。

首は180度近く捻じれていた、患部に慎重に触れる。


頸椎C2、C3粉砕骨折、C4圧迫骨折。

脊髄損壊。


外頸動脈及び内頸動脈捻転のち破断。

皮下大出血瘤あり。


決断は迅速に。

止まるな、悩むな、できることをやれ、手を止めるな。



八木のジャケットから探るまでもなくナイフを抜き取る。

皮膚の切開も"癒しの手アロウンス"で行えるが時間、体力の損耗が惜しい。



首筋を切り開き、指先をねじ込む。

血が激しく噴き出すが無視して指先に意識を集中する。

血管の縫合、修復を最優先、脳への血流を確保。


脊髄神経系を一旦停止させる。

自律神経系に干渉し自発呼吸を強制的に賦活。


大きな血管を避けて胸を切り開き指先をねじ込む、心臓を強制的に再動。


次いで気管を修復し、呼吸を確保。

血が流れ過ぎている、失われた血を補っている余裕はない。


肩、太腿を切開し動脈を閉鎖、胴体、心臓と肺、脳を循環する血流だけを残す。

四肢の壊死、損壊は免れないだろうが医療的優先度トリアージに従い無視する。



そこまでにかけた時間は5分とないはずで。

それでもなお脳へのダメージは免れないだろう。



ぎり、と歯噛みする。

さすがに脳の損傷を修復した事はなかった。


果たしてそんなことができるのかすらわからない。


腹部を切り開く、胃、小腸、大腸など諸消化器の機能を停止させる。

血流を止めて血の巡りを限定する。

少しでも血流を脳へ、脳への酸素供給を最大化せねばならない。


――それしか、蛍雪にできることはない。




笑わない人だった。

常に浮かべる笑みはポーカーフェイスと変わりなく。

内心を覆い隠す仮面に過ぎない。


とても優しい人だった。

誰かを傷つける事を嫌う人。

何よりも、誰よりも、本当に。



"傷を癒す"という己の発現した能力こそがその証で。



理想を抱きながら現実に即した判断ができる人だった。

暴力も、威嚇も、人を脅して屈させるその言動も。


持って生まれた自らの才能を十全に活用しようとした結果に過ぎない。

静寂と孤独をこそ好む人だった。


暴力だけでは何も変えられない事を知っている人だった。

誰よりも賢くあろうと、賢くあるべきだと考えている人だった。




アスファルトに拳を叩きつける。

できることはない、できる事は全てやった。



過去形で語る事はしたくなかった。



祈ることしかできないけれど、祈るのだけは嫌だった。

彼女は神なんて信じていない。



できることは、ないのか、何も、もう?




「ああ、悲しみに沈むひと

 どうか泣かないで、あなたには救いの道がある」




声がした。

ナイフを手に立ち上がり、視線を向ける。

血装具ブラッドボーンここにはない、あの女が持ち去った。





「……?!」



警戒は瞬く間に驚愕にとって代わる。



そこに、居てはならない、居るはずのない男がいた。




「彼を救う手立てが必要なんだろう?

 ぼくには提供できる、彼を、救う手立てを」



うすら笑いを浮かべて、男が言う。



「——羽鳥ハトリジュン……?」



2ヶ月前、地下駐車場で。


ほかならぬ彼女自身が頸椎を踏み砕いて殺した男がそこにいた。




「そうだね。

 死んだはずの男だ。

 君が殺したはずの男だよ」




ナイフを逆手に構え、半身の体勢で男を見据えながら。

中華服チャイナドレスの少女は混乱に襲われ、だが。


気付く、に。



「そうだね。

 死んだはずのぼくが生きている。

 それこそが今の君には福音になる、そうだろう?」



「八木さんを、救えると? 

 おまえなら」



「そうだね。

 毒蛇に咬まれて死んだ女エウリュディケを救いたいかい、吟遊詩人オルフェウス

 ならば君にできる事は1つだ」



森の木の精霊ニュンペーにして吟遊詩人オルフェウスの妻。

美しきエウリュディケ、毒蛇に噛まれて命を落とした女。


人や動物はおろか、木々や岩石までも魅了したという吟遊詩人は嘆き悲しみ。

冥府の坂を下り、竪琴を鳴らし悲しみを歌い続けた。


忘我の河ステュクス渡し守カローンも。

死出の門の番犬ケルベロスも、冥府の王ハデスも、そのペルセポネすらも。


その詩歌に魅了され、終には彼女を地上に戻すことを許した。


だが。



「そうだ、振り返ってはいけない。

 2日、……いや3日。

 3日で彼は蘇り、君の下へと帰るだろう。

 馬小屋の彼と同じように、復活の奇跡を得て」



吟遊詩人オルフェウスは失敗した。

『決して振り返ってはならない』という冥府の王との約定を違えたために。



「それを、信じろと言うのか」



「信じなくてもいい。

 待ってみないか、奇跡を。

 ——そもそも、それ以外に君にできる事があるかい?」



「それ、は」




座して待つ事は死と同じ。


けれど、彼が死んだときに自分はもう死んだようなもので。


ああ、その事実げんじつを。


蛍雪ケイセツは受け入れられない。




「1つ、戻った彼に話かけてはいけない。

 1つ、眠りについた彼を起こしてはいけない。

 1つ、目覚めた彼に彼の死について話してはいけない。

 ——今日この日の出来事を、語って振り返ってはいけない。


 朝が来て、目覚めた彼はいつも通りに君の知る彼だ。

 君が振り返らない限り。


 わかるかい、吟遊詩人オルフェウス

 真実は1つ、




死んだはずの男が笑う。




それは、悪魔のささやきのよう。

八木かのじょのあるじがそうしてきたように。


人々の心を弄び、望むものを差し出し与えるような。


代わりに自分は、何を奪われるのだろう。





果たして、彼女は、なんと答えただろう?









隠れ家わがやに戻って彼女は独り。

膝を抱えてじっとしていた。


あらゆる現実を拒み、あらゆる思考を放棄した。


ピグマリオンあるじ無きガラテアにんぎょうは生きられない。



心も、体も。


思いを与えられず、体液を与えられることもないのなら。

自律偶像は枯れ果てて崩れ、腐り落ちるのみ。




死が二人を分かつまで、その絆は永遠で。


死すらも二人を分かてない。


主人の死は奴隷の死だから。





1日が過ぎた。





2日が過ぎた。





3日目の晩、彼はよろめきながら帰って来た。






――彼女は顔を上げない。


膝を抱えてうずくまり、顔を伏せて何も見ない。


何も言わず、何も問わない。




彼女は、聡い彼女は。


彼女は、賢い彼女は。


冥府の王ハトリ ジュンとの約定を違えない。






長い夜が明け、朝が来る。






「——蛍雪?」



目覚めた彼は、まず最初に彼女の名を呼び彼女を探した。



「八木、さん」



「ああくそ、油断したぜ。

 死んだかと思った。

 無茶苦茶だろうあの女。

 ……また、おまえが治療なおしてくれたのか?


 ――何日経った?」



駆け寄り、彼の胸に顔をうずめて抱き着いた。



3日です、と彼女は囁くように告げて。


彼は黙って彼女の頭を撫でた。



いつも通りの彼の匂い。

いつも通りの彼のてのひら。

いつも通りの彼のぬくもり。



つま先立ちになって唇を重ねる。

唾液が流れ込み、流し込む、体液の交換、主従の儀式。


ああ、そうだ。

わたしはかれのどれい。


いつも通りの彼だった。





**************************************


 

     ――質問です。

       この世に死者を取り戻す方法はありますか?



**************************************




「あなたは、だれ」



女は問う、それだけは禁じられていなかったから。




「羽鳥巡。


 あるいは羽鳥巡だったもの。


 ぼくは、ぼくらは羽鳥順であって羽鳥順ではないかもしれないが。


 けれどやっぱり羽鳥巡だ。


 なぜならぼくが羽鳥巡だから。


 けれど、そうだね。

 もしも他に呼び名があるとしたら。

 そんなものが必要だというのなら。


 ああ、だけど、その名を君は呼んではいけない」




男は嗤う、死んだはずの男が。




――入れ子人形マトリョーシカ





**************************************



 


彼女は、愚かな彼女おんなは。


冥府の王との約定を違えない。






彼女は何を失ったのだろう?




彼女は何を奪われたのだろう?




あるいは、何も、失ってなどいないのだろうか。




そのこたえは、誰も知らない。




――今は、まだ。


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