穂原 映〔Ⅰ〕:天使だった男


背中を、――肩甲骨を撫でる女の指の感触で目が覚めた。



ゆっくりと体を捻り、ベッドの上で寝返りを打つ。


彼の背中を、肩甲骨を撫でていた女の指先をそっと握る。




「——おはよう、アキラ



微笑む女に、そっと微笑みを返す。




「おはよう、今日も愛してるよ、僕の女神」


薄っぺらい中身のない愛を込めて、囁き、口づけを交わす。




寝起きの頭では腕の中の女の名前すら思い出せない。

だが、穂原ホバラ アキラはそれをおくびにも出さない。


髪を撫で、額にもう一度口付けしてそっと起き上がる。


サイドボード上から細い半銀縁の眼鏡ハーフリムを取り上げ、かける。

前髪をかき上げ、深く息を吸い、吐く、それでスイッチが入る。



冴姫サキ、何か食べたいものある?」


ようやく思い出す、この女は水上ミズカミ 冴姫サキ

IoTネット家電系のベンチャー企業を取り仕切る女社長だか取締役だか。

元々は大手に居たらしい、独立して会社を興せるだけの才媛だ。


椅子スツールに引っ掛けた下着と上着を手にして身にまといながら問いかけた。



「映のごはんは何でも美味しいからなあ…、てゆうか、ダイエットちゅう…」


女はもぞもぞと寝台ベッドの中で転がり、シーツに包まって伸びをする。


ゆうか、じゃなくて、言うか、だろう。

と、内心吐き捨てながら笑顔は崩さない。


サイフの知能はどれだけ低くても良い。

頭の悪い馬鹿オンナは嫌いだが、紐の緩い財布は大好きだ。



「はいはい。今日は出勤日でしょ、ちゃんと食べないと身体もたないよ?

 ただでさえ最近、在宅勤務テレワーク続きで体力落ちてるんじゃないの」


「わたしが寝不足なのは映が……」


「ぼくが何?」


「……馬鹿……」


「はは、じゃあ今日は和風にするね」


「うん、あ。

 執事バトラー! 暖房入れて」




『——了解しましたお嬢様、エアコン暖房、設定温度28度で起動します』


サキの会社が作った住宅管理システムスマートホームAIが、甘ったるい男の声で反応する。

確か大物の人気声優を起用したとか言っていた。


人間のようにふるまうこの機械が、映は大嫌いだった。

無論、言葉にも態度にも出さないが。


スリッパを鳴らしてリビングを横断し、台所へと向かう。


フランス製の高級な鍋に水を入れてIHコンロに置き、煮干ニボシを投げ込む。

味噌は合わせの薄味、かねづるの好みは完全に把握している。


映の好みでは味噌汁の具は1種に絞るのだが、女の好みに合わせてワカメとネギ。

この2つは食い合わせがクソだと思うのだが、考えない事にする。


米は昨晩のうちにタイマーで仕込んでいる、問題なく炊きあがっているのを確認。

しゃもじでざっくりと炊飯器の中でひっくり返して様子を見る、水分もベスト。


主品をどうするか、一瞬だけ悩んだ。


結局、冷蔵庫から秋刀魚さんまを持ち出し、塩加減を確認してグリルへ入れた。

内蔵ワタはあらかじめ抜いて、下拵えは済ませてあるので楽なものだ。


付け合わせは刻んだキャベツ、彼の好みでは大根おろしなのだがこれも却下する。

多少の青野菜をとったところで健康的ヘルシーも糞もないと思うが、仕方ない。



こんなものはただの作業だが、ご機嫌そうな鼻歌と笑顔の演技は忘れない。



鍋が煮立ったところで煮干を引き上げ、カットした具を投入して再び中火へ。

程よく火が通ったら火を落として味噌を溶かす。


実用性の薄い、酷く薄っぺらいイタリア製の白い浅皿に料理を並べる。

食器はあらかじめ湯につけて人肌近くまで温めたものをタオルで拭いておいた。

冷えた皿に熱が奪われて料理が冷めないように。



身支度にかかる時間は把握済み、時間タイミングを見計らって食卓へ並べる。


小洒落たスーツに着替えた女が部屋に入って来る。

さりげなく椅子を引いてやり着席をうながす。



「すっぴんでも奇麗だけど、冴姫はやっぱりその恰好の方が素敵だね」


「もう、褒めたってなにも出ないわよ?」


「まあ、出すのは僕の方だからね。

 さ、冷めないうちにどうぞお姫様マイ・レディ


「ありがとう」



対面に座って手を合わせ、いただきますを言ってからハシを手に取る。


……わかってはいたが今日も満足の行くデキだ。




「そういえば、映」


「ん?」


「前から気になってたことがあって、聞いても良い?」


「いいよ、何でも聞いて」


「その、背中——」


視線を合わせないように彷徨さまよわせながら、女がおずおずと口にする。




「ああ、これ?」


苦笑いを浮かべながら箸を一度下ろす。

手を背中に沿わせて肩甲骨に軽く触れて見せる。




「この天使の羽?」



穂原ホバラ アキラの背中。

肩甲骨の上には、歪んで色あせた天使の羽の刺青がある。


当然ながら映は女を何度も抱いた、何度もセックスした間柄だ。

なら女がそれを見る機会は幾らでもあったろう。


だが、話題にしたことはそういえばこの女はなかったか。



「うん。

 なんていうか映っぽくないなって。

 それ、だいぶ古いよね?」


「消そうとしたらしい跡もあるし、って?」



笑う、今更の問い。

この女なりに気を遣っていたのかもしれない。


日頃女の前ではしない、行儀悪く食卓テーブルに肘をついて手を組む仕草をして。

唇を歪めて口を開く。


「——ぼくのママは、母親は。

 ……ぼくのことが大好きでね。

 幼いぼくに〝あなたは私の天使よ〟ってこの刺青を入れたのさ」


「映……」


「——はは、嘘嘘。

 ただの若気の至りってやつだよ」



女がうつむく、肩を震わせる。



「そんな気にしないで。

 ほら、ご飯食べて。

 冷めちゃうよ、秋刀魚美味しくなかった?」


「ううん。おいしい……」


もぐもぐと、幼女のように覇気もなく、女が箸を進める。



「ねぇ、映。

 ご家族の事で色々あるのかもしれないけど。

 よかったら今度のお休み、あのね。

 わたしの両親に会ってほしいの」


「——。冴姫」


「まだ2年、ううん。

 もう2年よ、私たち。

 私ももう良い年齢だし、あのね」


「……冴姫、うん。

 大丈夫、ありがとう。

 嬉しいよ。

 心の準備、しておくね。

 専業主夫って義父おとうさんに怒られないかな?」


冗談めかして笑う。

やっと、女の顔にも笑顔が戻る。




「へへ、大丈夫だよ。

 映なら、駄目って言っても私が許さないもん」


「ありがとう。

 ……さ、ほら食べて。

 時間無くなっちゃうよ」




薄っぺらい書き割りめいた、幸福に満ちた食卓が終わる。


小さな鞄を手に出ていく女を玄関まで見送り、口づけを交わす。

愛してるよと熱っぽく囁いて、エレベーターに消えていく女を見送った。




「——良い財布だったけど、潮時か」



呟く。


台所に戻り食器を洗い、拭き上げて棚に戻す。

掃除ロボのせいで埃すらろくに落ちていない床に掃除機をかけて。


全ての部屋をめぐる。


写真は嫌いだ好きじゃないと言ってそれとなく拒んでいる、いつもの事だ。

自身の痕跡が残っていないか注意深く確認した。


ベッド下の物入れから小さな鞄を引っ張り出す。

中身を確認する。

貸金庫の鍵、免許証、通帳、貴金属、幾らかの現金、交通機関のカード。





あらかじめ用意しておいた女の知らない服は、埃っぽい匂いがした。

薄く香水を振って、女が買ってくれた下着と服を脱ぎ捨てて着替える。


ゴミ袋に、着ていた服を詰めて、それで全部終わり。

ここでの生活も、女との関係も。


女の通帳や印鑑の場所はもちろん把握しているが手は付けない。

盗人になってしまえば追う側に大義名分が生じる。


これはただの破局、よくある男と女の別れに過ぎない。

警察や公権力が介入する余地を残すわけにはいかない。


女の交友関係、親類周りは確認済み。

縁者に権力者や警察官の存在はない。

犯罪になる余地が無ければ、強権の介入はあり得ない。



穂原ホバラ アキラは消えるだけだ。

女の前から、永遠に。



部屋を出て、新しい靴を履いて。

電灯のスイッチに手をかけようとして、笑う。





執事バトラー

 電気を消してくれ、全部だ」


『はい。全ての明りを消灯します。

 お出かけですか、旦那様』


「いいや。

 さよならだ執事バトラー、俺はお前が大嫌いだったよ」


 ——。



機械仕掛けの使用人は返事をしなかった。

おそらく返すべき語彙をもたないからだろう。


少しだけ、スッキリした。



玄関を出て施錠し、合鍵をポストに投げ込む。




**************************************




エレベーターから出て歩き出した。

新しき生活の門出だ。


地下駐車場に人気はない、みんな出勤した後なのだろう。

脳内のリストを確認しながら歩を進める。


さて、どうするか。

当面の生活に困らないだけの蓄えはある。


転がり込むさきにも困る事はない。

若い男を囲いたい熟女マダムなら当日に押しかけても問題はない。


が、足元を見られるのは御免だ。

連絡だけ取って1,2ヶ月はホテル暮らしでもするか。


次の寄生先も宛はなくもない。

とりあえず再調査と下準備は必要だが。


人の目にも監視カメラにも映らない道順ルートは把握済み。

とりあえず今日中に県外には出ておくか。



地下駐車場に足音が響く、人の気配。

折悪しく誰かが?

問題ない、多少の目撃例は許容範囲だ。


だが、地下駐車場に息を切らせながら駆け込んできた男には覚えがあった。


確か、羽鳥ハトリ

水上ミズカミ 冴姫サキの同僚の一人。


わずかな警戒心が首をもたげる。

いや、だが彼の逃走を羽鳥が把握するすべはない。


盗聴器を含めて監視の目がない事は当然、確認している。



「あ。穂原さん、水上さんは――」


だからこの遭遇は偶然事故に過ぎない。



「おはようございます、えっと、羽鳥さん?

 冴姫ならもう出社しましたよ」


何かしら急用でもあって訪ねて来たか。


サキは家を出てしばらくは携帯端末の電源を入れない。

私事プライベート仕事ビジネスの切り分けは徹底する女だった。



「そう、ですか」


「はい。

 そろそろ連絡取れると思いますから、では」


不自然にならない程度にそそくさと会話を打ち切り、背を向ける。



ど、と鈍い肉のぶつかる音がした。



「——?」



愕然と視線を落とす、衝撃があったのは腹部。


果物ナイフらしい、それが。


映の腹に突き立っていた。


半瞬遅れて熱を感じる、痛みはまだない。


刺された、誰に?



視線を上げる、震える手を、指をわななかせながら羽鳥が後ずさる姿が視界に入る。


――羽鳥ハトリ ジュン



「なぜ、」


「おまえが、おまえが悪いんだ。

 冴姫さんを幸せにしてくれると思って俺は、」




こいつ、あの女を?

だがわからない、なぜこいつはおれの裏切りを知ったのか。




「いや、何を、」


執事バトラーが、聞いてた。

 、」



舌打ちする。

そうか、住宅管理システムスマートホームAI、それがあった。


あれはただのスピーカー喋るだけではない、こちらの言葉をマイクで拾って聞いている。


誤算だった、女の同僚ということはあの機械に触る機会がある。

もっと言うならアレが拾った音声を耳にする事も。


酷い油断。

腹部の傷は致命傷ではない、重要な臓器は傷ついていない。


だが、場所が悪い。

横隔膜、呼吸の度に上下するそれに触れる位置。


ここで倒れるわけにはいかない。

死ぬわけにはもっといかない。

だがこれでは走れない、それ以前に命が危ない。


――どうする?



「……安心しろ、おまえの裏切りは彼女に伝えない。

 おまえはあくまで被害者で、俺が加害者だ。

 冴姫さんは裏切りを知る事もなく、おまえの愛を本物と信じて終るんだ。

 俺が汚れ役をやってやるよ! 安心して死んでくれアキラ!!」



安心なんかできるわけがない、糞が、自分に酔いやがって。

だが大した献身だ、そこは評価してやるよ、ああ糞、駄目だ。




穂原 映は、駐車場の白い柱にしなだれかかる。

薄く血の跡を引きずって、体が崩れ落ちるのが止められない。




ナイフを抜きたい。

痛みが。


だめだ、傷が開く、血が余計に止まらなくなる。

死にたくない。


こんな。

思考がまとまらない。


腹が熱い。

死にたくない。


人間なんて糞だ、みんな。


どうする。


どうすれば。


どうにか。


どうにかしなければ。


――死ぬ。



穂原 映じんせいが、終わってしまう。




崩れ落ちる身体を、掌を地面に突いて押しとどめる。

死なない、死にたくない、抵抗する、迫り来る死に。


意識を手放すな、




「ぁッ――」


無理やり持ち上げた視線の先で、羽鳥ハトリ ジュンが転倒した。


いつの間にかそこには、羽鳥以外にもう1つの人影がある。

それは赤い、中華服チャイナドレスしょうじょだった。



足払いをかけて羽鳥を転がしたらしい少女は、酷く冷めた目で映を見ている。


誰だ、



蛍雪ケイセツ、殺すなよ?」



笑いを含んだ声がした、視線が声の主を探す。

人影がもう1つ。


黒いタンクトップからはみ出した肩にはトライバル系の刺青タトゥー

大柄な、横にも縦にも大きな、サングラスの男が立っていた。


知らない男。

知らない人間。

だが、穂原 映は知っている。

この男が身にまとうその気配を。


これは、暴力の気配だ。



「はい、八木さん」


女、——蛍雪が頷き。


無造作に。

地を這って逃げようとしていた羽鳥の首を踏み折る。





生々しい血と肉と、骨の砕ける音がした。





「ゴミを片付けました」


淡々と、何の感情の色も無く女が述べる。



「お利口さんだなァ、蛍雪は……。

 さてさて、そこの死にかけてるおまえ」



男が嗤う、人の死に何も感じるでなく。

世間話のように、穂原 映に話しかける。




「——穂原 映。

 おまえにとてもいい話を持って来た」


男が嗤う、悪魔のように。
















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