渋沢 功〔Ⅲ〕:歪な関係



イリスが振り返り、ぐるりと肩を回して笑う。

功は立ち上がり、「酒のましば」のロゴキャップを拾い上げ、彼女に歩み寄る。


「……出待ちしてたのか」


「ん? ああ、『今夜は月が奇麗だな』って?」


イリスの言葉に功は頷く。


そもそも男の、――八木と呼ばれていただろうか?

ヤギの台詞を意趣返しのように返したのが偶然ではないのなら、イリスは事の成り行きをほぼ最初から見ていたことになるのだが。


どうせなら殴る蹴るされる前に来てくれ、と思いはするものの口にはしなかった。



コウ彼女イリスの関係はいびつだ。

おそらく一般的な礼賛者ピグマリオン自律偶像ガラテア関係それとは違う。

まあ、一般化できるほど両者の例を知っているわけでもないが。



イリスは、功の問いに笑っただけで何も答えはしなかった。

まあそんなところだろうなと、思う。





「生きてるのか?」


ロゴキャップを手渡しながら功はイリスに問う。


脈絡なく暴力を奮って来る相手に慈悲を持ち合わせるほど、功は聖人君子いいひとではない。

生死を問うたのはどちらかと言えば保身、反撃を警戒しての事。



イリスは無垢な小鳥のように首をかしげる。

外見だけなら天使のように、だが吐き出す言葉は苛烈な色彩イロを帯びている。




「いくら礼賛者ピグマリオンつってもあの首の曲がり方は無理じゃね?

 自律偶像ガラテアの方は……、まあまだ生きてはいるな。

 割とマジにやったから内臓くらいイってるかも、まあ当分動けないだろ。

 どっちみち礼賛者あいかたが死んでりゃ長くはねーよ」



彼女の口調は横柄らんぼうで、ひたすらにガラが悪い。



鈴の転がるような、と評しても良いような美声も、儚げに闇夜に揺れる白髪も。

触れれば壊れそうな硝子ガラス細工を思わせる繊細な横顔も。


深見沢イリスのまとう神秘性は何もかも、口を開けば台無しになってしまう。


これが百年の恋も冷める、というやつだろう。

もっとも功は彼女に恋をしたことはないのだが。





「そうか。

 この場は離れよう」



面倒事は御免だった。

だから功はそう言ったのだが。




「あー、待って待てって」


「それとイリス」


「あん?」



功を言葉少なに引き留めながら、屈みこんで彼女イリスは、蛍雪が握っていた引き金トリガーのついた握りグリップを拾い上げて(既に青龍刀風の刀身は消えていた、理屈は功にはわからない)、振り返る。



「助かった。ありがとう」


「――まあいいって、死なれちゃ俺もまだ困るし」



声色の音程が半音上がる、それはあるいはだったのかもしれないが。

それ以外の変化はなくいつも通りで、功はその点については触れない。


拾い上げた握りグリップを作業着の腰ポケットに捻じ込み、イリスが「ああ、そうだ」と声を上げて首をひねる、視線を功へと投げやった。




酷く嫌な予感がした、声を出さずに視線だけで応える。


深見沢イリスは笑っていた。

笑いながら彼女は渋沢 功に、最悪の提案宣言をする。




、俺が貰うからな?」


「、」



彼女が小悪魔めいた笑いを浮かべて指さしたのは。

――あのトランクケースの少年。


茫洋とした焦点の合わない視線でこちらを見ながら、彼は立ち尽くしている。



反対する言葉は即座に20ほど脳裏を過ったが、結局唇から漏れたのは細い溜息。

深見沢イリスの言動を、とがめる事はできても縛る事はできない。


渋沢 功は深見沢イリスの礼賛者ピグマリオンで。

深見沢イリスは渋沢 功の自律偶像ガラテア

だが、彼は彼女の主ではないし、彼女は彼の奴隷でもなかった。






**************************************


 

     ――質問です。

       あなたには生まれてきた価値いみがありますか?



**************************************






極論すれば、あらゆる生命には意味がない。

いずれ死に至る命ならばそこに発生した意味はない。

消えて忘れられるなら最初から無かったのと何が違おうか。


後に続く命の下積みとしての価値は、後に続く命の価値によって担保される。

つまり、他者の命の価値を認める事で自らの命の価値が担保されるのだ。


――まあ、考え方は様々である。


定量化できないじぶんの価値を問い、語る学問を人は哲学と名付けた。


知識を得て、経験を積み上げ、人格を形成する。

つまり成長する中に様々な出会いを経て、愛憎苦楽、遭遇と離別を経験し。

関係性の中に自らの立ち位置を見出し、自分という存在を肯定する。


人とはそういう段階を経て完成する。


……あるいは不安定なままの人間もいるだろうが。

それでも大多数は自我を確立するか依存先を見つけるだろう。

さもなければ「そんな事実とは向き合わない」という逃避を身に着けるのか。



では、礼賛者ピグマリオン無き自律偶像ガラテアはどうか。


自律偶像ガラテア礼賛者ピグマリオンの為に存在する。

礼賛者ピグマリオンに仕え、礼賛者ピグマリオンに従い、礼賛者ピグマリオンの望むように


自律偶像ガラテアは生まれ落ちた瞬間から、この世に生を受けた瞬間から。

この世に生み出された瞬間から、義務教育を受けた人類以上の知性と知識を有する。


――



故にもまた、そうだった。


彼には名前がない。

信念がない、価値がない。

思い出かこがなく、関係性いまがなく、みらいがない。



彼にとっての文字通りとなるはずの礼賛者ピグマリオンはまだ居ない。

なのに彼は目覚めてしまった、目覚めさせられてしまった。


だから彼の精神こころきしむ。

その空虚こどくに対し、知性だけで経験の乏しいその魂は余りにも脆弱だもろい


だから彼にはある種の薬物が投与されていたし、彼の精神はその影響下にあって朦朧と漠然と、世界を俯瞰する事でようやく均衡を保っていたのだ。




故に目覚めは最悪だった。

彼は自分が不完全で誰にも必要とされていない無価値な存在だと自認していた。

目覚めてからこっちずっとその嫌悪は続いていたし、だからこそ彼は苛立っていた。


その苦しみを遠ざける薬物の加護は気づけば失われていた。


まぶたを開ける。

見覚えのない天井が見えた。

ここはどこだ、と思う前に手をついて立ち上がろうとして。

初めて後ろ手に拘束されている事に気づく。


手錠やロープの類ではない、感触からして結束バンドかなにか。


「……おや、目が覚めたか」



不意に、女の声がしてギクリとした。

人の気配を感じていなかったからだ。

あるいはまだ薬は抜けきっていないのかもしれない。


声のした方へ視線を転じようと体をよじって気づく。

背中や尻に触れている床が柔らかい、今自分がいるのは寝台ベッドの上?



「へぇ、改めて表情があるとなかなか。

 かわいい顔してるじゃん、おまえ」


現状把握に気を取られている間に、女が、馬乗りになって自分を見下ろしていた。

頬に降りかかる彼女の髪は白。


カーテンの隙間から差し込むのは月光。


その女は儚げな笑みを浮かべて自分を見つめている。

警戒心が首をもたげる、こいつは八木と蛍雪をたぶん殺した、だから敵――






不意打ちだった。

物理的に横っ面を殴られるよりも動揺する。



「――え、」


「俺がおまに名前をやろう。

 おまえにあるべき誓いを与え、おまえが俺にはべることを許す。

 だからおまえは、俺のものだ」




胸奥を短剣で抉られるような痛み、言の葉が重く彼の中心を引き裂いていく。



「ぼく、を」


必要としてくれるのですか?



「――モルヒ。

 俺が考えたおまえの名前だ」


「だめ、それはだめ、だめだ、あなたは……」



囁くようにかすれた否定の言葉はだが歓喜に濡れて。

この女はダメだ、この女だけは。


彼はこの女を知っている。


深見沢イリス。


荒々しくも美しい自律偶像ガラテア

そう、偶像だ。

彼と同じに。


偶像が偶像を礼賛するなど、偶像が偶像に侍るなど。

許されるはずがない、そんな、関係が。



「だめ?

 そう、だめだ。

 俺はもう決めた。

 モルヒ、おまえは私のものだ」


彼女の美しい顔が降りて来る。

唇同士が触れるような距離で吐息が漏れる。




――拒否することは許さない。



彼の耳たぶを優しく甘噛みしながらあくまが囁く。

ぶるりと、背筋に冷たい熱が走る。


歓喜と、恐怖。


渇望を満たされるという期待と。

それを受け入れてしまえば取り返しがつかないという絶望と。




「あ、ああ、あああああ……」



「さあ誓え、モルヒ。

 私がおまえに言葉を贈る。

 おまえはただ〝YESはい〟と言えば良い」



自律偶像には名前がない。

礼賛者は名前を与えて彼らを縛る。




「ああ、イリス……」


自律偶像には願いがない。

礼賛者は誓句ちかいを捧げて彼らを定める。




〝命ある限り私のために生きろ、私のためには決して死ぬな〟



女が告げる。

それは2人だけの誓句オース


ちかいのことば。

受け入れてしまえばもう引き返せない。


彼はモルヒになり、誓いは永遠になる。

死がふたりを分かつまで。



永遠にも似た逡巡はどれほど続いたろう。


だが結局のところ彼に否はない、彼は被支配者。

隷属を望むように生み出された歪な人形。




「――はい、イリスさ、ま。

 誓います、ぼくはモルヒ、あなたの偶像ガラテア



主人イリスの手が奴隷モルヒの頬をそっと撫でる。


優しく笑う彼女のかおに。

モルヒの胸に突き刺すような歓喜が満ちる。



あ あ 、 ぼ く は い ま 満 た さ れ た。



月光に照らされて、彼に覆いかぶさっていた彼女が膝立ちになる。


幼くも美しい彼女の横顔に、静かに月光が口づけする。

陰影は色濃く彼女の造形うつくしさを浮き彫りにし、彼の胸は否応なく震えた。



いつの間にか着せられていた彼の。

浴衣バスローブの前を閉じた結び目に、彼女の細い指がかかる。



名付けは終わった。


誓いは交わされた。


今宵最後の儀式がはじまる。


粘膜の接触、体液の交換、――嗚呼、言葉をとりつくろう必要はどこにもない。

此処ここには彼と彼女しかおらず、2人は既に1つのつがい



この先にあるのは原始の肉の咬合だけ。



ごくりと、乾いた喉を自分の唾液が滑り落ちる音を聞いた。


女の指先が浴衣の前を開く。

肉の薄い彼の胸板の上を蜘蛛のように、白い掌が歩き回る。


荒い息を吐く彼に、妖艶に女が嗤う。


首筋に唇が落ちて来る。

かすめるように彼の肌に触れる唇に、身体を反らせて彼が呻く。


彼女の、右手が。

盗人のように浴衣の隙間から忍び込んで。


鳩尾を、臍を、下腹を通過して。



――ひっ、と情けない声があがった。


彼女の夜気に濡れた冷たい五指が彼の男性器シンボルを撫で上げたから。


優しく触れたのも一瞬、深見沢イリスは彼女の苛烈さを持ってそれを握りしめた。

息が詰まる、興奮と苦痛に。



かれの本能が求めている、もっと、もっと、もっと。


熱を帯びて震えながら、送り込まれる血流を受けてじわりと屹立する象徴。

面白がるように彼女の指先が先端から付け根までを往復する。

雄々しく立ち上がる彼の分身、それを握る彼女の五指もまたいつしか熱を帯びて。


己の熱が彼女の美しい手を犯したのだと錯覚する。


彼女の五指が開き、閉じる度に。

彼の身体は弛緩と緊張を繰り返す。



「イリ、ス……」


乾ききって熱を帯びたその声が自分のものだとモルヒは数舜気付かなかった。

無意識に漏れた言葉はまるで懇願。


かっと顔が熱くなるのがわかる。



「ふふ、こらえ性のない。

 仕方ないやつだな」



主人イリスが嗤う。

前屈みから膝立ち、膝立ちから完全に立ち上がって奴隷モルヒを見下ろす紫の瞳。


彼女の瞳にも興奮ねつが籠っている、その事に気づいてモルヒの雄がたかぶる。


女が男と同じような自分の浴衣の前に手をかける。

指が結び目を解き、白い肌が夜気に触れて薄く震えた。



指先が布を押し開いて見せつけるように肌をさらす。

小ぶりだが十分におんなを感じさせる双丘、その先の薄い色のつぼみ


舐めるように胸を眺めたのもだが一瞬だ。

指先が衣を開くにつれ、嫌が応にもモルヒの視線は降りていく。


指先と視線が、縦長の薄いへそを通り過ぎて。

ついに浴衣の前が完全に開かれたとき、モルヒはその光景に静止凍結した。



どす黒い色のそれはふるふると儚げに揺れ、じわりと脈打ちながら膨らんでいく。


天使もかくやと言わんばかりの彼女の美貌、だが彼女は女であって。

神話の天使のごとき両性具有アンドロギュヌスではありえない、そのはずだ。



「お、驚いたか?

 男性器ペニスって海綿体スポンジに血が流れ込んで大きくなるんだろう?」


とっておきの悪戯いたずらが成功した悪ガキの表情かおでイリスが笑う。

楽し気に、とても楽し気に。


美しい天使のかおに似つかわしくない下世話な単語に。

モルヒは唖然と彼女を見ているだけで言葉もない。



「特殊な吸水性スポンジで作って貰ったんだ、これ。

 俺の体液ジュースを吸って大きくなるんだ、本物と同じだよ」



彼女の言葉に嘘はない。

彼女の興奮にも嘘はないのだろう。


彼女の息は荒く、モルヒに見られる事で彼女はなお昂っているのだろう。


そして、彼が言葉を編むことができないままついに。

彼女の人造男根シンボルは、完全に屹立きつりつを終えてそそり立った。


体躯に比すれば十分以上に大きいモルヒの象徴それよりも、更に一回り大きい。


ついには先端、薄く開いた孔からは。

許容量を越したらしい粘液がしたたり始める始末。


腰と太腿に絡む細い革ベルトと、人肌とは思えない艶光する黒さ。

本物と実見紛うばかりの威容を持って雄々しく立ち上がったそれを揺らしながら。


彼女イリスモルヒに覆いかぶさって来る。





「――まっ、ちょっと待ってくださ、」


「だめ」



嫣然と微笑みながら彼女は彼の膝を掴んだ。






「待って、イリス、お願い」


「だめ」



膝を持ち上げられる。

態勢が悪く両腕も縛られている。

抵抗は出来ない。

体重をかけて膝が押し上げら開かれる、Mの字を描くように。


夜気の冷たさに震える彼の象徴はいまだ強度を維持してはいるが。

その下ですぼまるもう1つのくぼみは怯えるように縮こまり閉じている。


羞恥、恐怖、そして隠し切れない興奮。

生まれて目覚めてその後に、彼はまだ食事を摂った事はなく。

まして排泄行為を行ったこともない。


汚れを知らぬ排泄孔。

だがその出口はこれから、排泄より先に入口として使われるのだ。





「イリス、さまぁ……」


「情けない声を出すな、興奮してしまうじゃないか」




彼女が腰を落とす、先端が入口に触れる、その周囲を撫でるように接触愛撫する。

先端から溢れた粘液がじっとりと彼の尻を汚す。

雄が雌に侵入することを助けるはずのそれは立場を変えて雌が雄に侵入することを助けようとしているのだ。


ぬるぬると、熱を帯びて、ついに汚れた先端がその中央に触れる。

声にならない悲鳴が上がる、身体が強張る、身が竦む。


だが、それでも。





「――モルヒ」



優しく名前を呼ばれて。




「俺を受け入れろ」



命じられてしまえば逃げ場はなかった。



弛緩した肉はそれでもなお物理的に彼女の象徴を頑なに拒んだが、彼女は頓着なく体重をかけて無理やりに彼の身体を押し開いていく。


じわり、じわりと突き進み、その度に彼の唇からは熱く苦し気な息が漏れる。

腹の奥底まで、際限なく圧し侵され続ける感覚に身悶えしながら少年は息を吐く。


不意に、熱を帯びた柔らかい何かが腿に触れて。

それが何かわかる前にモルヒは安堵の息を吐いた。


それは彼女の太腿で、ついに彼女の象徴は根元まで彼の中に侵入したのだ。

だが、イリスは容赦なく前傾姿勢になりながら彼の両ひざを持ち上げる。

彼の尻が浮いて角度が変わる、真上から、体重を乗せて杭打機のようにより深く。



――貫かれる。



神経が焼け付く感覚、脳を焦がしたの果たして苦痛か快楽か。


彼女の腰が震えるのがわかった。

進軍の最中も彼の体内を濡らし続けた彼女の体液が。

明確に体感できるほど大量に注ぎ込まれた。


甲高いAの和音を開いた口が掻き鳴らし、仰け反ったモルヒの象徴が痙攣する。

一呼吸遅れてぶちまけられた白濁は薄い胸板と言わず首筋と言わず、彼自身の唇も額さえも汚して飛散した。


イリスが、倒れ込むように覆いかぶさって来る。

細い指先が彼の頬を拭って白濁をこそぎ取り、そのまま口元に運んだ。


ぺろりと、小さい舌が指先を濡らして白濁を口腔に運び入れる。

萎みかけていた雄の象徴はただそれだけの出来事に刺激されてぶるりと震えて。


イリスは頬を歪めて笑い、わざとらしく喉を鳴らしてそれを嚥下するのみこむ



それが儀式の終わり。

どちらともなく深く深く息を吐いた。

名と誓いが授けられ、血の交換は成された。


契約は結ばれる。

かくて新たな契約関係アロイが生まれ、自律偶像ガラテア礼賛者ピグマリオンの所有物となる。




「イリス、さま」


――慕情に濡れた唇が囁く。



「んじゃ、第2ラウンドはじめっか」


「……え゛?」


「かわいい声で啼けよ、モルヒ」


「ちょっ、ま」



当然ながら人造の象徴は萎える事を知らず。


深見沢イリスは容赦というものをおよそ知らなかった。





**************************************


 

「うぅ……」



どろどろに2人分の体液で汚れたシーツの海で溺れかけて目を覚ます。




自律偶像モルヒは鈍く痛みを訴える身体の各部に鞭打ってどうにか立ち上がった。


生臭い。

全身が、かぴかぴで、べとべとで、生臭い。


愛しき礼賛者イリスのそれが半分は混じっていると思えばどうにか耐えられる。


が、不快なことには違いがない。



周囲を見渡す。

部屋の隅に投げ出されていた浴衣を拾い上げる。

付着物はゼロではなかったがシーツよりは万倍マシだったので仕方なく羽織る。


「シャワー…… 浴びたい……」



ふらふらと、ガニ股気味になりながら歩き出す。


御主人イリス様の姿はどこにもない。

シャワーと、主人の姿を探して部屋のドアに手をかける。

いつの間にか拘束が解かれている事に気づいたが今更もいいところで。



ドアを開けると。

安楽椅子ロッキングチェアに腰かけて、洋書ハードカバーを読む眼鏡の男が視界に入った。


品無く、隠すこともせずに堂々と舌打ちする。

モルヒは彼が嫌いだ。


彼は礼賛者イリス自律偶像モルヒ


だが、わかっている。

最初からわかっていたことだ。


彼女は渋沢 功この男自律偶像イリスでもある。


だから、当然、モルヒは功が嫌いだ、憎んでいると言ってすらいい。



「……シャワーはそこの扉を出て左、着替えは置いてある。

 俺の部屋はそのままでいい」



洋書から視線を上げる事もせず功がそう告げ、シャワーを探していたモルヒは憮然としながら会釈して、



「おまえの部屋?

 まて、おまえ昨日どこに、」



ひやりと、背筋に嫌なものが流れて思わず問うた。



「ずっとここに居たが」



部屋の扉は薄くはなかったが、完全な防音とは決して呼べはしないだろう。

そして昨夜、自分がどれだけ派手に嬌声こえを上げていたのかモルヒには自覚がある。




「お、ま、」



「気にするな。

 あいつが部屋を貸せと言い出した時点で派手なことになるとは思っていた」



「そ、」



言葉にならない。

淡々と本当に大した事は起こっていないとばかりに洋書のページをめくる功に。


羞恥に、嫉妬に、悔悟に、腹が立った。



「――なんなんだ、おまえ! もっとこう、あるだろ?!」



だから思わず叫んでいた。

ようやく、功が洋書から視線を上げてモルヒを見る。



「何が?」



「イリスさまをぼくが抱い、」



「抱かれた、じゃなく?」



「そ、そういう細かい事は良いから!!」



だん、と居間のテーブルに握りこぶしを落とし肩で息を吐く。


功が眉をしかめる、うるさいな、かテーブルを乱暴に扱うな、のどちらか。

そんな感じの態度だった。

怒鳴られたことには全く動じていなさそうなのが酷く癪に障る。



「おまえ、」



「――ああ、ええっと」



「……モルヒ。ぼくはモルヒだ!」



功が呼びかけようとしたことに気づいて名乗ってすらないことに気づく。

名乗ると、うん、と頷いて功が改めて口を開く。



「モルヒ。

 俺とイリスの間におまえが想像しているような関係はない」



「なん、かん、何も想像してないし関係ってなんだよ?!」



「俺は不能だ」



「ふ、は、ふの、……え?」



「性的不能。

 男性器が屹立しない、女は抱けない。

 これはイリスと出会う前からだ。

 当然イリスを抱いたことはない。

 だからおまえが心配する事はなにも、」



「ふっざけんなそうじゃな、」



「抱かれたこともないぞ」



「だから!!」



頭の中がぐるぐるする。

言葉にならない、できない感情が渦を巻いている。

彼と彼の関係は複雑だ。

彼と彼女の関係よりも。


モルヒは功が大嫌いだ。


だがイリスはねやで、肌を重ねながら、彼を貫きながら。

何度も耳元で囁いたのだ、繰り返し、繰り返し。



『功を守れ、死なせるな。

 ――俺はあいつに死なれると困る』




だから、モルヒは。



「――俺はおまえが嫌いだ、大ッ嫌いだ!!」




どうにかそれだけを言葉にして吐き捨てた。

足取りも荒くどたどたと音を立ててドアをくぐり浴室へと飛び込んでいく。




ふむ。と息を吐いて。

渋沢 功は指を栞代わりに中断していた洋書の頁を開き直し、視線を落とす。





「――俺はおまえのこと、割と好きだけど」




ぺらりと、ページをめくる音に溶けて、男の独白が消えた。









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