7-5 不器用な二人

 僕が泊まるこの和室は、崎山さんのお父さんの書斎らしい。

 畳の部屋で寝るのは実家以来なので、何だか久しぶりだ。

 客用の布団をもらい敷いていると、コンコンと部屋のドアがノックされた。

 咲さんだろうか。


「遠藤くん」


 ドア越しに聴こえてきた声は、崎山さんのものだった。

 開けると、風呂上がりの崎山さんがそこに立っている。


 崎山さんのお風呂上がりの姿はそれなりに見慣れているはずだ。

 何せ、半年も一緒に暮らしているのだから。

 そのはずなのに、シチュエーションが違うせいだろうか。

 今日はその爆弾的なボディが、いつもよりも魅力的に見える。

 心臓が高鳴った。


 風呂から上がったばかりで暑いのか、11月にもかかわらず部屋着の彼女は薄着だ。

 それがまた目に毒なのである。


「どうしたんですか、こんな時間に」


「あんまり話せてなかったから。ちょっとだけ」


 彼女はそう言うと、部屋のドアを締めて鍵をかけた。

 なぜ鍵をかける。

 崎山さんの一挙一動に心臓が高鳴る自分が居た。

 そもそも、たとえ実家だからと言ってうら若き女性が男の部屋に来るべきではないのである。


 布団にふたりとも乗る形で、崎山さんと僕は向き合った。

 まるで新婚初夜だ、と思うのは自分の心が汚れているからでせうか。


「ちょっとこっちきて」


「え?」


「いいから」


 招かれ、崎山さんに近づく。

 かなり密接になる形だ。

 少し手を伸ばせば、もうすぐそこに彼女の顔がある。

 お風呂上がり特有の良い香りが彼女からしてきた。


 この雰囲気は、ちょっとやばい。


 すると崎山さんは僕の体に密着するような形で顔を寄せてきた。

 ちょうど僕の胸元に彼女の顔が来る。


 今日なのか?

 今日なのですか!?


 いや、確かにお風呂も入って準備も万端ですけれどもそれにしても急っていうかエチケット的な物も行き届いていないと申しますかいやまぁやぶさかではございませんがしかしながらここはご実家ですししかし先ほどの咲さんの口振り的にはむしろ実家的にもオッケーと申しますか。


 急速回転する思考を働かせていると、不意にクンクンと彼女は匂いを嗅ぎ出した。

 何だ、何してる。


「……よし」


「何がですか」


「浮気はしてないなって」


「浮気って……」


 そもそも付き合っていないじゃないか。

 とは思ったが、それ以前に浮気と表現されたことがなんだか嬉しい自分が居る。


「私の不在中にあのお馬鹿なアイドルとやましいことしててもおかしくないと思ったのよ」


「真澄さんですか?」


「どうせ迫られたでしょ?」


「まぁ……無くはなかったですけど。少し飲んだ程度ですよ」


「ふぅん? 私に隠れて飲み会? サキュバスの力とか使われたんじゃないの?」


「何でもお見通しですね……。確かに酔っ払ってサキュバスの力が暴発しましたけど、大丈夫でしたよ。何とか」


「何とか、ねぇ……」


「でも誓って本当に何もないです」


 崎山さんはしばらく何か考えた様子を見せた後「ま、信じるわ」と肩をすくめた。


「私も黙って家出ちゃったのが悪かったしね」


「そう言えば、どうして黙って行っちゃったんですか?」


「……余計な心配掛けたくないなって思っただけよ」


「暗に『干渉するな』って言われているのかと思いました」


「んな訳ないじゃない」


 彼女は、そっと顔を伏せる。


「別に嫌になって出たわけじゃないのよ。夢見町の生活は楽しいし。遠藤くんとの生活だって……」


「また、戻ってきてくれますか?」


 僕が尋ねると。

 崎山さんは少しだけ黙った後、コクリと頷いた。

 ホッとして胸を撫で下ろしていると、不意に彼女と目が合う。


 そこで、ハッとした。

 かなり距離が近いことに、お互いが改めて気がつく。

 すぐ目の前に彼女の顔があった。

 崎山さんの表情はどこか艶っぽく、目が潤んでいる。

 風呂上がりのせいなのか、それともこの状況のせいなのか、頬も少し赤い。


 ドクン、と心臓が高鳴る音がした。

 彼女の唇が、徐々に近づく。


 崎山さんとは、前のストーカー事件の時、キスをしたけれど。

 あれは緊急事態だったから、僕らの中ではほとんどノーカンの扱いだ。


 でも、今なら――

 そう思った時。


 グイッと、崎山さんが僕の顔を引き剥がした。

 思わぬ方向に首を曲げられ、ボキリと鳴ったらまずい音がする。

 予期せぬ行動に「ぐえっ」と声が飛び出た。


「今はまだダメ」


「そ、そんな……」


 首を戻そうとするも戻らない。

 タチの悪い寝違えみたいになってる。


「もうちょっと心の準備が欲しい」


 崎山さんは、真っ赤な顔でふいと顔を逸らすと――


「だから、今はこれだけ」


 そう言って、僕のほっぺにキスをした。

 頬に柔らかい唇の感触が触れ、体が固まる。

 そんな僕を差し置いて、崎山さんは「じゃあ」と立ち上がった。


「私、遠藤くんと暮らすの嫌じゃないから。おやすみ」


 部屋を出た崎山さんの足音が遠ざかる。

 僕は首がひん曲がった間抜けな格好のまま、夢でも見たような心地で彼女の後ろ姿を見送った。


「また、戻ってきてくれるんだ……」


 そう呟くと、開け放たれたドアの側面からニュッと顔が覗き込んできて悲鳴を上げた。

 咲さんだった。


「若いわね、二人とも」


「な、何やってるんですか!?」


「ちょっと娘が大人になるのを見守っていただけですよ」


 咲さんはそう言うと「ウフフフ」と不気味な笑い声を響かせながら帰っていった。


「とんでもない人だな……」


 とは言え。

 この首、どうしよう。


 ○


 次の日の朝。

 着替えてリビングに出ようとすると、崎山さんとバッタリ会ってしまった。


「おはよ……」


「おはようございます……」


 昨日のことがあったから、何だか気まずい。

 ただ、来た時のような居心地の悪い気まずさとはまた違う。

 何というか、照れくさいというか、気恥ずかしいというか、そんな感じだ。


 二人して顔を突き合わせたままリビングで黙々と食事を口に運ぶ。

 そんな僕たちの様子を、咲さんは必要以上にニコニコ眺めていた。

 意味不明な空気のまま食事を済ませ、玄関で崎山さんと落ち合う。


「じゃあ、行くわよ。観光」


 意地でもデートとは言いたくないらしい。


「了解です」


「二人とも、楽しんでね」


 何を考えているか分からない咲さんが僕らを見送る。

 家を出て、そのまま二人並んで大通りをしばらく無言で歩いた。

 何か話さなければ。


「あの、崎山さん。昨日のことなんですが」


「忘れなさい」


「えっ?」


 聞き間違いかと思って尋ねると、彼女はギロリと僕を睨んだ。


「忘れなさい、気の迷いよ、あれは」


「そんなご無体な……」


「夜……そう、夜のせいだわ。サキュバスの血がそうさせるの。夜になると自動的に男を口説こうとするのよ」


「何ヶ月一緒に暮らしてると思ってんですか……」


 相変わらずだな、と思わず感じてしまう。

 しかし今は、この方が良いのかもしれない。

 僕らはこういう関係が、丁度いい。


「何笑ってんのよ」


「いえ、何でもないです」


「いいから行くわよ。さっさと歩く」


「あのー、それで尋ねたかったんですけど、どこに行くんですか?」


「観光に行くって言ったじゃない。手始めに清水寺よ。寺回りたいんでしょ」


「誰もそんなこと言ってませんけど……」


 とは言え、京都と言われれば神社仏閣巡りと言うのはイメージ通りでもある。

 せっかく休みを取ってここまで来たのだ。

 観光くらいしても良いだろう。


 崎山さんの家から清水寺まではそう遠くなかった。

 少し歩くと、大きな坂道へと足を踏み入れる。

 坂を昇ると、やがてアスファルトが石畳となり、街が一気に和の装飾に包まれた。

 僕が物珍しく眺めていると、隣の崎山さんが僕以上にキョロキョロと辺りを見渡している。


「へぇ、ここらへん、こんな風情がある感じなのね……」


「崎山さん、ひょっとして来るの初めてなんですか?」


「当たり前じゃない。こう言うコテコテの観光名所はね、地元の人間ほど来ないのよ。京都人の大半が寺なんて見て回らないわよ」


「そうなんだ……」


 言わんとすることは分からないでもない気がする。

 確かに僕も、地元の名所巡りなんかは行ったことがないかもしれない。

 どうやら地元民ほど観光スポットに興味が無いらしい。


 少し歩くと、やがて大きな清水寺の門が目に入った。

 チケットを購入し中に入る。

 すると、テレビや雑誌で見たことのある清水寺の風景が一気に視界に広がった。

 高台に居るせいか、街が一気に見渡せる。


「ここが有名な飛び降り自殺の名所ね」


「言い方」


 相変わらずメチャクチャな人だな。

 そんな崎山さんは、何だかはしゃいでいるように見えた。


「清水の舞台から飛び降りるってやつですよ」


「本当に飛び降りた人なんているのかしら」


「二百人くらい飛んでるらしいですよ。生存率は八割だとか」


「へぇ、結構高いのね。死ねないのに何で飛ぶのかしら」


「願掛けの為に飛ぶらしいです」


「そうなの……?」


 すると崎山さんはジッと僕の顔を見てきた。

 この顔はろくなことを考えていない時の顔だ。

 嫌な予感がする。


「じゃあ、遠藤くん」


「嫌です」


「まだ何も言っていないのだけれど」


「言わなくてもわかります」


 私の願いの為に死んで、とか言おうとしたのだろう。

 どうやらその予感は当たりだったらしく、彼女は「チッ」と舌打ちした。


「京都に来てもつまらない男ね……」


「本当に飛び降りるよりマシでしょう」


「もう良いから行くわよ」


 相変わらずの傍若無人だ。

 ぷんすかしながら歩く崎山さんの姿が、何だかおかしい。


 清水の舞台から少し奥へ進むと脇道があった。

『地主神社』と書いてある。

 寺の中に神社とは、何だか物珍しさを感じる。


「崎山さん、ちょっと寄っていきません?」


「……別にかまわないけど」


 返事した崎山さんは、何だか少し顔が赤い。

 どうかしたのだろうか。

 二人して奥へと進むと、不意に道のど真ん中に両手で担げそうなくらいの大きな石が見えてくる。


 石には木の板が貼られており、デカデカと『恋占の石』と書いてあった。

 何だろう、と目を向けると「良いからさっさと行くわよ」と崎山さんに腕をグイと引っ張られる。

 どうした。


 どうも様子がおかしいなと思っていると、その理由は奥の境内に着いて明らかになった。

 境内に設置されている賽銭箱。

 その両側の柱に、提灯で『えんむすびの神』と書かれている。


「ここって恋愛祈願の神社だったんですか?」


 すると崎山さんは呆れたようにため息を吐いた。


「何で清水の舞台の歴史は知ってるくせに地主神社は知らないのよ」


「いや、何でって言われても……」


 どうやら清水寺の地主神社と言うのは結構有名な縁結びの神社らしい。

 通りで崎山さんが躊躇していたわけだ。


「ひょっとして、僕と来るの嫌でした?」


 すると彼女はふいとそっぽを向く。


「別に……嫌だったら来ないわよ」


 蚊が鳴くような声だった。

 だからそう言う態度は、ちょっとずるいと思う。

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