7-2 君のハガキ

 崎山さんが実家に帰ってしまった。


『実家に帰らせていただきます。 崎山』


 たった一枚だけ残された置き手紙。

 スマホで連絡しても出てくれない。

 LINEでメッセージを入れても帰ってこない。


「どうしたっていうんだ……」


 なんで、どうして?

 分からない。


 一体何が引き金になったというのだろう。

 いや、まだ出ていったばかりだから、すぐに連絡をくれるんじゃないだろうか。

 適当な人ではあるが、何だかんだ言ってその辺はちゃんとしてくれる気がする。


 そこから二日間は地獄に居るような心地だった。

 何度もスマホを見ては来ていない連絡にため息をした。


 心ここにあらず、とはこのことなのだろう。

 何をやっても手がつかない。

 胸の中心にポッカリと穴があいたかのような、そんな心地がする。


 崎山さんからやはり連絡は来なかった。

 二日で僕の心は折れそうだ。

 せめてもう少し出て行った原因がわかると良いのだが。


 そこでハッとする。

 身近な人に話したりしてないだろうか。


「崎山さん? 聞いてませんよ?」


 性木神社の娘の夢ちゃんに尋ねたが、首を振られる。


「遠藤さん、ひょっとして崎山さんに逃げられちゃったんですか?」


「いや、逃げられたとかじゃないんだけど、そもそも喧嘩とか何もしてなかったし、崎山さんは気に入らない事があるとすぐに人にいうから決してそういうのじゃないっていうか僕らの仲はいたって良好ではあったのだけれどなぜかこうなったのは」


「めちゃくちゃ喋りますね……」


 次にパン屋のなずなさんを尋ねた。


「崎山さんから連絡ですか? しばらくシフトに入れないとは聞いてましたけど……」


「その他に何か言ってませんでした?」


「そういうのは何も……。喧嘩でもしたんですか?」


「いや、喧嘩とかではないんですが、崎山さんは気に入らないことがあるとすぐに人にいうから特に心配はしてないっていうか僕らの仲はいたって良好ではあったのですがなぜかこうなったのは」


「めっちゃ喋りますね……」


 どちらも空振りに終わってしまった。

 僕らは案外まだ街に来て日が浅い。

 知り合いが少ないのだ。


「あと知り合いといえば……」


 ピンポーン。


 玄関のチャイムを押すと「はいはーい」と言う軽快な声と共に見覚えのある人が姿を表す。


「あれぇ? 遠藤さん、どうしたんですか?」


 真澄レムが驚いたように目を丸くする。

 アイドルの部屋を尋ねるのは気が引けたが。

 お隣さんだから流石に大丈夫か。


「崎山さんから、何かお話とかって聞いてませんか?」


「崎山さん? どうしてです?」


 僕は彼女に事情を話した。


「崎山さんが家出?」


「何か心当たりとか聞いてないですかね」


「うーん、とくには知りませんねぇ」


 すると何か閃いたのか真澄レムはニヤリと笑みを浮かべる。


「ははぁ、遠藤さん逃げられたんですね?」


「人聞き悪いこと言わないでください。僕らの仲はいたって良好ではあったのですがなぜこうなったのかは誰にも分からないんですよ、と言うか喧嘩とかでもないですし、崎山さんは気に入らない事があるとすぐに文句いうから決してそういうのじゃないっていうか」


「すっごい早口……」


 そこでふと、嗅ぎ覚えのある独特な臭いがする。


「真澄さん、ひょっとしてまた飲んでます?」


 あまり気づかなかったが、彼女はわずかに酒臭かった。

 どうやら図星らしい。

 真澄レムはあっははと軽快に笑った。


「たまのオフくらい飲ませてくださいよぅ! そうだ、崎山さんいらっしゃらないなら、一緒に飲みましょう!」


「いや、そんなことしている場合じゃ」


「いいからいいから! だって遠藤さん、ひどい顔してますよ?」


「そ、そうですか?」


「全然寝てないんでしょう?」


 確かにこの二日間、ほとんどまともに寝ていない。

 ずっと崎山さんのことを考えていたのだ。

 今日が仕事休みでなければ、倒れていたかもしれない。


「そんなんじゃあ潰れちゃいますよ! 落ち込んでるからこそちょっとは気分転換しましょ!」


「はぁ……」


 流されるまま僕の家で飲むことになった。

 真澄レムの薦めでビールを飲まされる。

 だが、酒の味がしない。

 飲む気分じゃないからだ。


「遠藤さん、もっとぐいっと行っちゃってください!」


「真澄さん、本当に元気ですね……」


「元気だけが取り柄ですから!」


 このハチャメチャな明るさは、まさしく彼女がアイドルたる由縁だろう。

 一時期は引退間際だと言われていたが、最近では役者の道が見えて来て活動に幅が広がったと評判になっている。

 あのストーカーの一件以来、彼女の芸能活動はかなり前向きで、迷いがない。


 落ち込んでいたが、心が少し明るくなるのを感じる。

 やはり真澄レムは天性のアイドルだ。


 チビチビビールを飲んでいると、頬を紅くした真澄レムが僕の顔をジーッと覗き込んできた。

 なんだろう。


「どうかしました?」


「んー? 悩んでるなぁって思いましてぇ」


「そりゃあね……」


「遠藤さん、そんなに崎山さんのこと気になるんですかぁ?」


「何ていうか、ずっといっしょに暮らしてきたんで。いないとぽっかり穴が空いたって感じです」


「ふーん……」


 そう言う真澄レムは、何だかつまらなさそうだ。


「さっさと付き合っとけばよかったのに……」


「えっ?」


「女はね、相手のこと推し量るんですよ。それで、アクションしてこないなって思ったら切っちゃうんです。案外崎山さん、遠藤さんがグズグズしてるのに嫌気がさして出ていっちゃったのかも」


「サキュバスでもですか?」


「サキュバスは関係ありません。女の子としてです」


 そういえば聞いたことがある。

 ずっと好きだった相手と結ばれた瞬間、相手への興味をなくす現象を蛙化現象というらしいと。

 人の心は、いつどんな時に突然変わるかわからないのだ。


 僕が真剣に考えていると、真澄レムは尚もじっとこちらを見てくる。


「前から思ってましたけど、遠藤さんって結構可愛い顔してますよねぇ」


 何だ急に。


「本当は今日、遠藤さんを誘惑したかったんですよね」


「何しようとしてくれてんですか」


 とんでもないこと言い出した。

 すると真澄レムは「だって」と唇を尖らせる。


「こんなチャンス滅多にないじゃないですか。でも、それじゃあ意味ないですよね。崎山さんと遠藤さんは、私の大切な友人であり恩人ですし。恋のライバルだとしても、崎山さんとは真正面から向き合わないとフェアじゃないなって」


 真澄レムの語りを聞いてると。

 不意に、彼女から甘い香りがし始めた。

 この匂いはよく知っている。

 サキュバス特有の甘い香りだ。


「あの、真澄さん。甘い匂いするんですけど、これって……?」


「あれ? 出してないはずなんですけどぉ、フェロモン」


 言うやいなや、匂いが更に強くなる。


「出てる! 出てる!」


「ちょっとまってくださいねぇ。すぐ止めるんで」


 すると真澄レムは「やば」と声を出した。


「酔って制御が出来ないみたいです」


「えぇっ!?」


「よかったぁ、公的な場所じゃなくてぇ」


「良くないです!」


「大丈夫、人間には無害ですから! ただちょっと性的に興奮するだけで」


「十分害になってますよ!」


 真澄レムはかなり酔っているらしい。

 まともな思考じゃなくなってる。

 というか僕に慣れすぎてアイドルとしての警戒心も薄れている。


 これはマズイ。

 早く酔いつぶすか追い出すかしないと。


「ふぃー、なんか暑くなってきましたねえ」


 すると真澄レムはおもむろにシャツのボタンをはずして胸元をはだけた。

 形の良い胸元があらわになり、僕は慌てて視界を手で覆う。


「何やってんですか!」


「へっ? 暑いからちょっと涼しくしようかと」


「窓開けるんでやめてください!」


「十一月の外気は寒いですよぉ、さすがに」


 その胸元は求心力が強すぎる。

 目の前に突如としてブラックホールが現れたみたいだ。


 フェロモンで誘惑されてなくても見たいに決まっている。

 あのアイドルの真澄レムの胸だぞ?

 よこしまな考えが浮かぶ。

 フェロモンの効果も相まってかなりまずい。


 これはヤバい。

 どうにかしないと。

 僕は天を仰ぐと、おもむろに立ち上がり、一か八かの賭けに出た。


「おーい遠藤さん? 壁際なんて行って何やってるんです?」


「南無三!」


 僕は正気を保つため壁に頭をぶつけた。


「きゃー! 遠藤さん何やってんですかぁ!」


「煩悩退散! 煩悩退散!」


「現実からも退散しちゃいますよぅ!」


 僕らが暴れていると、振動に揺れて戸棚から一枚、ハガキが落ちた。

 どこか見覚えのあるハガキだ。


 そこでハッとする。

 そういえば崎山さんはこのハガキを見てから様子が変わったのだと。

 僕はおもむろに、そのハガキを手に取る。


「これって……」


 ハガキには、京都の住所が記されていた。

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